魔術師修行・3
クロゲン視点です。
手にしたカップから立ち昇る甘い湯気に鼻腔を刺激されながら、クロゲンはリリアの部屋の扉を開けた。
「お待たせリリア~。ホットチョコレイト持ってきたよ~」
カップになみなみと注がれたチョコレートを零さないようにそっと、ソファーに座るリリアへと歩み寄る。
「ありがとうございます」
リリアは満面の笑みを浮かべてカップを受け取ると、鼻から大きく息を吸い込んだ。
「あまーい香り。美味しそう」
クロゲンは跳躍して窓際へ向かうと、そのまま出窓に腰掛けて得意げに胸を張った。
「美味しいよ~。熱いから気をつけて飲むんだよ?」
自分が偉いわけではないのに、何だか嬉しくて胸を張ってしまったけれど、リリアはそれを気に留めた様子もなく礼を言って、二・三度息を吹きかけてからチョコレートの入ったカップに唇を寄せる。
「んんー。美味しーい」
自分の分も貰ってくれば良かったとちょっとだけ後悔しているクロゲンの気も知らずに、リリアは幸せそうな顔をしてカップを傾ける。
そんなことを言うのは格好が悪いので、もちろん平気な顔をしているけれど――
それにしてもリリアの笑顔を見ていると、何だかこちらまで幸せな気分になってくる。
クロゲンはそんなことを思いながら、そして時おりカップの中の茶色い液体に熱のこもった視線を送りながら、リリアとチョコレートのことやハンスの作る焼き菓子のことなどを話していた。
どれ位経った頃だろうか、クロゲンは不意に妙な違和感を覚えた。
(何だろ?)
リリアを頭の天辺から爪先まで観察するも、特に変わったところは見当たらない。
けれど、その違和感を意識してしまってからというもの、どうにも落ち着かない。
まるで身体の内側を蟲が這い回っているようだ。
全身を駆け巡る不快感に肌が粟立ち、嗅覚までも異質な臭いを感じ取り警鐘を打ち鳴らす。
「どうかしました?」
相変わらず出窓に腰掛けたまま足先をぶらぶらさせながら、しかし、その双眸だけを鋭く研ぎ澄ませ部屋の隅々に視線を走らせるクロゲンに、リリアが不審げな眼差しをを向けている。
「うん。何だかね……まぁでも、リリアは気にしなくて良いよ」
言葉を濁してわざと核心を語らずにいると、リリアの頬が不満気に膨らんだ。
「ヤだ。気になるじゃないですか。ちゃんと話して下さいよぉ」
その言葉を聞いた瞬間――クロゲンの不審が確信に変わった。
「分かった」と呟いて、出窓から飛び降りる。
ほとんど中身の減っていないカップを両手で包んだまま、柳眉を寄せて訝しげな顔をするリリアの元へ、クロゲンは一跳びで詰め寄った。
「ねぇリリア。ボクの名前知ってる?」
驚いた様子で瞠目するリリアの顔を覗き込みながら訊いた。
「え……ええ。知ってますよ」
返答する声が微かに震えるのを感じて、クロゲンは「二つ名の方だよ?」と継ぐ。
「へ? 二つ名の方ですか? ……もちろん知ってますよ」
なぜそんな分かりきったことを聞くのか、意図が酌めないのだろう。まつ毛をぱちぱちさせながら頷くリリアに、クロゲンはにっこりと笑ってみせた。
「良かった。飲まないならこれ洗い場に持って行ってあげるね?」
小さな手からカップを取り上げて背を向けると、リリアは慌てた様子で立ち上がり後を追ってきた。
「あ……あの、クロゲン?」
「なぁに?」
言いながらクロゲンはリリアに向き直り、口の端を上げる。
そして、カップを持つのとは反対の手で、リリアの小さな頭をくしゃりと撫でた。
困惑に揺れる瞳を覗き込みながら、頭頂部に置いた手にちょっとだけ力を入れる。
「あ、あの……」
「痛い?」
あどけなく首を傾げ、漆黒の瞳でリリアの反応を窺いながら、徐々に指の力をじりじりと強めていった。
「痛っ……ちょっとクロゲン。何するんですか? 放して」
痛みに顔を歪めたリリアがクロゲンの手首を両手で掴んでくる。
眉間には大きな皺が寄り、翡翠色の綺麗な瞳が光を失い濁りを帯びる。
「まだ、声を出す余裕はあるみたいだね? じゃあ訊くよ? キミの名前は?」
「リ……リリア。リリア・キャラベル……」
白い頬を上気させ喘ぐように名を告げたリリアに、クロゲンの顔から表情が消え去った。
同時に左手のカップが砕け、冷たくなったチョコレートドリンクが甘い香りを放ちながら、絨毯の敷かれた床や壁に飛び散った。
「ボクはホントの名前を訊いてるんだけど?」
「どういう意味ですか?」
あくまでシラを通す気らしい眼前の少女に、クロゲンはため息をついて指先にぐっと力を込めた。鉤爪が頭皮に食い込み、骨が軋む音が研ぎ澄まされた聴覚を刺激する。
「……た、たすけて……」
「質問を変えるよ? 本物のリリアをどうしたの?」
「……あたしが本物の……ひっ……いたっ……」
掠れる声を絞り出しながら、リリアは血眼になって腕を引き剥がそうとしている。しかし、頭部に食い込んだクロゲンの指先は、緩むどころかますます強く頭蓋骨を圧迫した。
「……ど……して……」
「どうして分かったか知りたいの? じゃあ教えてあげる。キミのお願いにボクは応えないでいることが出来る。これがどういうことかは分かるよね?」
苦しげに喘ぎながら、リリアは充血した瞳を見開いた。
「それにね。リリアはボクのことを《クロゲン》とは呼ばないんだ」
クロゲンはいったん言葉を切って、大きく息を吐き出した。
「そしてもう一つ。リリアが食べ物を残すなんてありえない! あーあ。ボクはこんなにたくさん話してあげてるのに、きっとキミは何を訊いても答えてくれないんだろうな」
何とかリリアの居場所を聞き出したいところだが、無駄だろう。
眼前のニセモノはクロゲンの攻撃に、上辺では苦しげに喘いでいるけれど、爪で引き裂いた皮膚からは血の一滴さえ流れていない。恐らくは魔術によって作られた傀儡なのだろう、それならばどんなに痛めつけても口を割ることはない。
「ばいばい。お人形さん」
まつ毛を伏せて、一息に拳を握ると、硬質な骨の抵抗は一瞬にしてなくなり、まるで完熟した果実がひしゃげる時のような、ぬるりとした感触が掌から這い上がってきた。
不快な感触を掃うように腕を振って、瞼を上げたクロゲンの瞳に映ったのは、泥人形が乾いた音を立てながら崩れていく姿だった。
片膝を付いて、絨毯に山を築いている煉瓦色の砂を掻き分けてみる。が、やはり手掛かりになるような物は何一つ残されていない。
「リリア……どこに行ったんだろ?」
顔を上げて窓の外に目を向けたクロゲンは、瞠目して窓際へと跳躍した。
「幻霧が消えてる……」
窓外の景色を覆っていた霧が消え、常緑樹の生い茂る森が鮮明にその姿を露にしている。
一見する限りでは、静謐はまだ保たれているようだが、この分では屋敷の周囲に張り巡らされてある結界も無事ではないだろう。
ゼルラーデルが在宅しているなら、この事態に気がつかないはずはない。
クロゲンは舌打ちをして部屋を飛び出した。
確か今頃アンナは、ハンスと夕食の献立の打合せをしている時刻だ。そう思い西館へ向う。
案の定、厨房に駆け込むと、のん気な声が耳に飛び込んできた。
「あらあら珍しいこと。クロちゃんが扉から入ってくるなんて」
クロゲンは配膳台に向かって横並びで座るアンナとハンスを一瞥して、それから厨房内を見回した。
奥の調理台で仕込みをしていたらしいカールとカリナが、揃ってこちらへ顔を向ける。
「ゼルさんは?」
厨房に異変がないことを確認して、ようやくクロゲンはアンナに顔を向けた。
「バトン伯爵のお屋敷へ行かれたわよ? 晩餐会へご招待されたのですって」
「やっぱりバトンの仕業か……」
下唇を摘まんで何やら黙考するクロゲンを見て、アンナがまん丸な顔を傾ける。
「やっぱりってクロちゃん。どうかしたの?」
「リリアがさらわれた」その言葉にアンナが「あらあら。まあまあ」と驚き、
「結界と幻霧も消されてる」と継ぐと、カールとカリナが同時に驚愕の声をあげた。
ハンスはと言うと、顔の長さの倍以上もあるコック帽を取って、桃色の額に浮かんだ汗を前掛けで拭っている。
多少動揺はしているだろうが、こんなことで冷静さを失うような彼ではない。
クロゲンは豆粒ほどの小さなハンスの瞳を覗き込んだ。
「ハンスさん。厨房のある西館は任せましたよ?」
しかし、クロゲンが口にするはずだった言葉は、彼が発するより先にそっくりアンナに奪われてしまった。
ハンスは恰幅の良い胸部を大きな音を立てて叩いてみせた。
「おう。任せとけ。厨房はこの俺が護ってみせらぁ」
いや、厨房だけじゃなくて――という突っ込みはこの際、省略させてもらう。
「東館はディアナさんが居るから大丈夫ね? あとは本館だわ……」
珍しく彼女なりの早足で、入口の前に立つ自分の脇をすり抜けて行こうとするアンナに、クロゲンは慌てて問い掛けた。
「本館はアンナが護るんじゃないの?」
「あらまクロちゃんったら。私はリリアさんを助けに行かなくちゃならないでしょう?」
「ちょっと待ってアンナ。助けるったって、どこに居るかも分からないんだよ? ボクが探すからアンナは――」
「なりませんよ。リリアさんは大切なお客様。主の留守中にお守りするのは私の仕事です」
いつになく真剣なアンナの剣幕に押されて、クロゲンは言葉を飲み込んだ。
とは言えアンナの足で森を歩くのはどう考えても無理がある。
そうかと言って、アンナを背負って飛ぶのだけは御免こうむりたい。
クロゲンは腕組みをして思案すると、そのまま右手を上げていき。
自然と突き出てくる下唇を摘まむのは、彼が深く考え込む時のクセのような
ものだ。
――とはいえ深く考える事など、彼の生涯においても、右手だけで足りる程しかないだろうが。
シモンにはゼルラーデルへの急報を頼もうと思っていたクロゲンだったが、仕方なく計画は変更する事にした。
何度考えても、どう考えても、いくら思考を凝らしても
アンナを背負って飛ぶのだけは御免こうむりたい。
唇を引き延ばしていた指先をぱっと放して、クロゲンはシモンの許へ向かった。
シモンの背に乗ったアンナが澄み渡った上空に消えていくのを(シモンを気の毒に思いながら)見送ると、クロゲンはシーナの部屋へ行き、「主の留守を護るのは誰の務めだったっけ?」と首を傾げた。
瞳を輝かせて妄想に耽るシーナに「本館は任せたよ?」と告げて、クロゲンはウーザイル地方にあるユベール・バトンの屋敷へと急行したのだった。




