多忙な公爵とリリアの仕事・5
「そんなに慌てて注ぎ足すことはないだろう?」
呆れたような声音に、リリアは怯えた瞳を向ける。脳裏に浮かんだお仕置きの光景は、しかし次の瞬間には綺麗さっぱり霧散していた。
瞳に飛び込んできたのは、拳を口元に当てて笑いをかみ殺すゼルラーデルの姿だったのだ。
「ええと……」
「眼の前で忙しなくされていると落ち着かない…………それに顔が怖い」
「も、申し訳………………はい?」
慌てて謝罪の言葉を述べようとしたリリアは、続いた言葉に眼を丸くした。
謝罪のため立ち上がった格好のまま、ぽかんと口を開けていると、「表情が硬い。もっと楽にしていろ」と、続けられる。
「は……はい」
ゼルラーデルは「うむ」と頷くと、皿から親指の先ほどの黒い甲虫のようなものを摘み上げて口に放り込んだ。
リリアは皿に載っているそれを訝しく思いつつも、極度の緊張のため検証する余裕はなかった。けれど、どうやら食べ物であることに間違いないらしい。
黒くて丸い。ということは、チョコレイトだろうか?
(とても甘そうには見えないけれど……)
黒光りする様はむしろ苦そうで、しかも、ソフィエルでよく見かけた甲虫にそっくりとなれば、とても口に入れる気になどなれない。
しかし、怖いもの見たさでそれを凝視する様子を勘違いしたのか、ゼルラーデルは未だ立ち上がったままのリリアに座るように命じて、チョコレイトの載った皿を差し出した。
(もしかして……食べろと言うことなのかしら?)
「どうした?」
「ええと……」
「楽にして良いと言ったはずだが?」
眉間に寄った縦皺に彼の機嫌が損なわれたことを知り、リリアは慌てて皿に手を伸ばした。
「で、でしたら遠慮なく、い、いた、いただきます」
冷や汗がたらりとこめかみを伝い落ちる。
覚悟を決め、甲虫――もとい、チョコレイトを口に放り込んだ。
ぎゅっと閉じられた翡翠色の瞳が、次の瞬間、宝玉のような輝きを露にする。
「何これ!? 甘っ! あ、でもちょっと苦いかしら? でもあまーい。何これ美味しい」
ちょっぴり苦味があって、けれど甘いチョコレイトは、舌の上で転がすととろとろに溶けてなくなった。
両手を頬に当てて意味不明な言葉を発しながら瞳を輝かせるリリアを、ゼルラーデルは満足気な顔で見やる。
「我が専属医の逸品だ。固形のチョコレートなど始めて食べただろう?」
「え? 固形じゃないチョコレイトもあるんですか?」
「何だ、知らないのか? お前のような子供が飲むには紅茶よりホットチョコレートの方が好ましいだろう。今度ハンスに作ってもらえば良い」
「はいっ」
この甘いので作られた飲み物なら、どんなに美味なことだろう。リリアはホットチョコレイトの味を想像して、瞳をきらきらと輝かせた。
「好きなだけ食べろ」
どうやら今日のゼルラーデルは機嫌が良いらしい。
初対面の冷徹さは微塵もなく、「遠慮は無用だ」と、柔らかな笑みまで浮かべている。
もちろん断る理由はない。リリアは、正確にはチョコレートと言うらしいそれを、体温で溶かしてしまわないように、そっと摘み上げて口に運んだ。甘い味が口の中いっぱいに広がって幸せな気持ちになり、うっとりと吐息を漏らす。
ゼルラーデルの身分に恐縮していたことなど、すっかり忘却のかなたへ置き去りにして、リリアは夢中で皿の上の菓子を平らげていった。
そして、随分腹が膨れたところで、ふと彼が探してくれると言った契約証のことを思い出し、相変わらず窓外の景色に眼を向けているゼルラーデルに声を掛けた。
「そう言えばご主人様?」
「何だ?」
「ええと……契――」
約証――と言いかけたところで、屋敷を揺らさんばかりのけたたましい音が耳に入った。
どうやら足音のようなそれは、次第に勢いと大きさを増していく。
何事かと廊下側へ顔を向けたリリアは、間を置かず、勢い良く開け放たれた扉の先に、髪の毛を振り乱したシーナの恐ろしい姿を見とめ、ぶるりと身震いする。
シーナは、リリアが体重をかけてやっとのことで片側だけ開けることのできる両開きの扉を、薄布を掃うかの如く軽々と左右に押し広げて、すらりと長い足を部屋へ踏み入れた。
「んもぉーうご主人様ったらー。お探ししましたわー。お部屋にいらっしゃらないと思いましたら、こんな所で、よりによってこんな小娘とご一緒でしたなんてー」
鬼気迫る形相で歩み寄ってきたシーナに腕を掴まれて、リリアは成す術もなく、天井に向って放り投げられるのではないかというほどの勢いで立ち上がらされる。
「後はこのわたくしがお相手いたしますわ。貴女は自分のお部屋へお帰りなさい」
よろけるリリアをキッと睨みつけながらそう言い放つと、シーナは豊満な胸部を誇張するように腕組みをして顎を逸らした。
こうなればリリアに反論の余地はない。
「ご主人様。あたしはこれで……」
「待て。先ほど何か言いかけただろう? 言ってみろ」
辞意を述べるリリアを手で制してゼルラーデルが訊く。
大好きなご主人様を批難する訳にはいかないのだろう、シーナは不満気に頬を膨らませてリリアを見据えているが、それ以上口出しする気はないようだ。
「……この前約束して下さった……あの……契約証は見つかりましたか?」
シーナの鋭い視線に怯えながら恐る恐るそう訊ねると、ゼルラーデルは僅かに眉根を寄せて「いや」と首を振った。
「お前たちが襲われたという辺りを探してみたのだが……生憎だったな」
ふっと視線を外す仕草が妙に不自然だった。
一瞬、嘘なのかと思った。
けれど、ゼルラーデルに嘘をつく理由はない。
すぐさま気のせいだろうと思い直したリリアは、肩を落として頷いた。
「しかし、ブローカーが死んだ今となっては、それほど重要なものでもあるまい?」
「そうですね……。わざわざ探していただいてありがとうございます。失礼します」
契約証自体は重要ではないが、キルビカで働き先を探す際の身分証明になるかもしれないと考えていただけに落胆の色を隠せない。リリアは項垂れるようにお辞儀して談話室を後にした。




