多忙な公爵とリリアの仕事・1
ゼルラーデル・ヴェイセル・グレヴィリウスの屋敷で働き始めて五日目の朝。
リリアが目覚めた時には、ゼルラーデルは既に仕事へ出かけてしまっていた。
とは言え彼女が寝坊したわけではなく、この四日間で彼が屋敷へ帰って来たのはたったの二度だけ。それも深夜に必要な書類を取りに戻り、直ぐにまた出かけて行ったとのことだ。
当然リリアは夢の世界にいる時刻で、そのこともクロゲンに『夜中にちょっとだけ帰ってきたよ』と、教えてもらわなければ知りもしなかったくらいだ。
つまり、リリアは彼を起こしたあの朝以来、ゼルラーデルには会っていないことになる。
気になるといえば気になるそのことを、リリアは朝食の時にアンナに訊ねてみた。
「ご主人様はいつもこんなにご多忙なんですか?」
ちなみに、一度シーナに叱られて以来、リリアはゼルラーデルを名前ではなく『ご主人様』と呼ぶことにしている。
「『いつも』だったらとっくに過労死ですわね。うふふ。そうねぇ年に数回はこのような時期もありますけれど、今回は特別ですよ。何しろ不可侵域で人が襲われたんですもの」
「不可侵域?」
「あなたが下級妖属に襲われた場所ですわよ」
今朝もまた、熱々のスープを忌々しげに見やっていたシーナは、耳だけはこちらへ傾けているらしく、たいして興味もなさそうに告げてスープに息を吹きかける。
「つまり、ご主人様のお仕事が忙しいのは、あたしたちが妖獣に襲われたのと関係があるってことですか?」
眼を瞠るリリアに、「大有りですわよ」と、シーナが再び横から口を挟む。
「あぁそうね。リリアさんはゼルラーデル様のお仕事や、この地方のことはご存知ないわよねぇ? それじゃあ今日は少しお勉強をしましょうか」
どうやらそれが今日の仕事になるらしい――
メイドとして雇われたリリアは、しかし仕事らしい仕事を任されたことは一度もない。
主であるゼルラーデルが不在だというのもあるだろうが、それにしてもやることが無さ過ぎる。それはもう申し訳ないくらいだ。
掃除や洗濯といった当然メイドが行うべき仕事も、いつの間にか誰かが終らせているらしく、当初はアンナかシーナがやっているのだと思っていたが――
けれどどうやらそうではないらしい。
考えてみれば最初の晩も、玄関から浴室までリリアが泥だらけにしてしまった廊下が、湯浴みを終えた後には綺麗に掃除されていた。
リリアの世話をしていたアンナにそのような時間はなかっただろうし、シーナは翌朝、ゼルラーデルの寝室で対面するまでリリアの存在を知らなかったはずだ。
ということは、掃除や洗濯専門の使用人が他にもいることになるだろう。
料理長や医師同様に、人に姿を晒すのを嫌う妖属なのかもしれない。
そうであっても不思議はないけれど、それにしても仕事がなさ過ぎて逆に落ち着かない。
何しろソフィエルで暮していた頃の方が、よほど忙しく働き回っていたくらいなのだ。
いずれにせよこの時点で予定が決まるというのは、リリアにとって大変ありがたいことなのだった。
この屋敷に来てからというもの、毎日暇を持て余しているのだから。
二階にある寝室と居間が二間続きになった立派な客室を、リリアは自室として使わせてもらっている。
本館に部屋を与えられているのはアンナだけ。本来、使用人の部屋は別館に用意されるらしいが、仮採用のリリアはひとまず客人扱いになったということだ。
けれど、それは表向きの話だろうと薄々感じていた。
つまり、妖属の多くが人間である自分が別館に居住するのを快く思わないのだろう。
もしくは、自分を魔術師だと勘違いしているゼルラーデルの、自分と妖属との接触をなるだけ避けさせようという思惑か――
どんな理由にせよ、自分にとっても有難いことには違いないので、深く考えなくても良いことだとリリアは思っている。
広い居間の中央に置かれた打ち合わせ用のテーブルに、アンナは持ってきた幾つかの資料を置き、重たげな身体を椅子に沈めた。
「ズルファウスの森が、ザイル王国にとって地理的にとても重要だというのはご存知?」
対面に座るリリアに問いながら、アンナは丸めてあった羊皮紙を、燭台の光りで照らされたテーブルの上に広げた。まるで霧の海に沈んでしまったかのような屋敷で読み書きするには、昼間でも照明が欠かせないのだ。
テーブルの半分ほどを占める大きな紙に描かれているのは王国の地形なのだろう。
「はい。国の中央に位置しているので、四つの地方を行き来する時には、必ず通らなければならない森だと聞いたことがあります」
国土地図など初めて眼にするが、リリアにもそれ位の知識はある。
「必ずということではないけれど、ここをこうやって大きく迂回したり、国境付近の治安の悪いこの辺りの道や、山岳地帯を通ったりしなければならないの」
アンナは指先で地図を辿りながら、知識のないリリアにも分かり易く説明をしてくれた。
ゼルラーデルが統治する前のズルファウスの森は妖属の巣窟で、それこそ魔力を持たない一般人や、非武装の者が足を踏み入れるのには命懸けだった。
国内の流通を潤滑にするためにもズルファウスの制圧は重要事項だったが、当時はまだ国内情勢が今ほど安定しておらず、隣国の動向にも気を抜けない状況だったため、国の兵力や魔力をそちらに費やすのは危険だと、長期にわたり先送りにされていたのだ。
国中の森林に棲む妖属が、それぞれの領主が雇い入れた魔術師によって排除されつつある中、しかしズルファウスの森だけが統治する者も居らず、手付かずのまま放置され、結果として近隣の村にまで被害が及ぶほどになってしまったのだった。
「対策のために国から派遣された魔術師が数名命を落としたらしいわ……」
「王国軍の魔術師でも敵わなかったんですか?」
王国軍の魔術部隊は有数の魔術師軍団だ。貴族が雇っている魔術師とは桁違いの魔力を持っていることは、一般庶民のリリアでさえ聞き及んでいるくらいなのだ。
眼を瞠るリリアに、アンナははっきりと頷いた。
「軍の魔術師が従属させる使い魔より、もっと強い妖属が沢山いたらしいのよ。彼らは知能もそれなりにあるものだから無闇に契約を交わすことはないの」
魔術師が従属化できるのは、自身の魔力に見合った。もしくは格下の妖属だけである。
対象の力を見誤った魔術師が、上級妖属に契約を持ちかけて喰い殺されたという事例もあるくらいだから、相手との力関係はとても重要となる。
キラムス国との国境周辺で、永くくすぶり続けていた諍いが次第に熾烈をきわめて行く中で、ズルファウスの統治計画は一時暗礁に乗り上げたが、わけあって王宮を訪れていた異国の王子ゼルラーデル・ヴェイセル・グレヴィリウスの協力により一気に解決した。
つまり、誉れ高い王国の精鋭魔術師でさえ御することのできなかった妖属を、ゼルラーデルはたった一人で、しかも短期間で制圧したのだ。
この功績が認められ、国王陛下より公爵の位を与えらたゼルラーデルは、ズルファウス地方(ズルファウスの森一帯)の領主となったのだった。




