館の従事者・3
てくてくと歩くクロゲンから五歩ほど離れて、リリアは後に続いた。
一階を見て回っていた二人は、厨房があるのとは反対側の回廊へと差し掛かるが、
「東の別館は医務室と研究室ね」
クロゲンはそれだけ説明すると、それ以上先には進まずくるりと踵を返した。
「あっ、あの……クロゲンさん?」
「《さん》は要らないよ」
「ええと、あたし。お医者さまにご挨拶がしたいんですけど?」
「それ。ムリ」
ハンスの時と同じく、またもやあっさりと却下されてしまった。
「健康なボクらが行っても門前払い喰らうだけ。場所だけ覚えればいいよ」
クロゲンに続いて引き返しながら、リリアはちらりと別館の方を振り返った。
「……変わったお医者さまなんですか?」
「まあね。研究室に籠もって怪しげな研究ばっかりしてるしね」
尖った歯牙を覗かせてクロゲンはにやりと笑った。
怪しげな研究というのには、彼なりに感興をそそるものがあるのだろう。
「ええと……やっぱり妖属の方なんですか?」
思わず想像してしまった怪しげな研究を頭の中から追い出しつつ訊ねると、クロゲンは口元から笑みを消して、鼻の根本に皺を寄せて、不満げに黒い下唇を突き出した。
「リリアさぁ。それ止めない?」
意味が汲み取れずリリアは首を傾げる。
「人間は直ぐに、人間と他の生き物を区別したがるけどさぁ、それってすっごくカンジ悪いんだよね~」
真っ直ぐに見つめてくる黒曜石のような瞳は、昨夜リリアが遭遇した妖獣の醜悪でいて知性の欠片も持ち合わせていない、まるで濁ったガラス玉のような瞳とは、そこに映し出される景色さえ違って見えるのかもしれない。
そんなことを考えながら、吸い込まれそうな深い瞳を黙って見つめるリリアに、クロゲンは言い聞かせるように継いだ。
「ここではそんな考えは通用しないからね。それにさぁ、ここではリリアの方がイタンなんだよ?」
(あたしの方が異端?)
思いもよらない言葉に、ただただ驚いて眼を丸くする。
「だあってさぁ、考えてもみなよ。人間よりそうじゃない生き物の方が多いんだよ?」
「確かにそうですね……」
「ね? だからサ。外の世界で妖属が人間にイジメられるように、ここではリリアが皆に冷たくされても仕方がないってこと。でもネ。この屋敷で大切なのは人間か妖属かじゃなくて、何が出来るかなんだ。だから怖がらなくてもいいからね?」
にっこりと笑ってクロゲンは歩きだした。
《イジメられる》とは、《迫害を受ける》とか《虐げられる》といった意味だろう。
自らの力で皆に認めてもらうことが重要であり、自分が何者かであることに大した意味はないと――
頭では理解できる。
それでもリリアはすんなりとは受け入れることが出来ない。
それは、純粋なクロゲンが自分に好意を持っていることと、けれどゼルラーデルから命令が下れば、彼はそれを理由として躊躇もなく自分を殺めるだろうという二つのことが、現実として存在しているのが分かるからだ。
どんなに親しくなろうと、人と妖属とでは絶対的な信頼関係を築くことはできない。
従属させることでしか結びつけることのできない生き物を、人間相手と同じように信頼するのは、魔術を使えない者にとっては自殺行為にも近い。
人と妖属とが隔たりなく暮しているらしいこの屋敷も、結局はゼルラーデルの支配下であるからそれが成り立っているだけでしかないのだ。
そんな思いが心の中に、もやもやとくすぶって、リリアはその後のクロゲンの説明をほとんど上の空で聞いていたのだった。




