お屋敷勤め・3
「ティルダ?」
思わずおうむ返しのように口にすると、白皙に影を落とす長いまつ毛が上がり、現れた青灰色の双眸が、はっとした様子で見開かれた。
組み敷かれた体勢のまま石像のように固まり、どれくらい見つめ合った後だろうか。
「お前か……」
吐息と共に独語するような呟きが耳朶を掠め、組み敷かれていた身体が軽くなる。
何とか上体を起こしたものの、まるで頭の中に靄がかかったようにぼんやりとしていた。
先ほどまでの甘ったるい空気は一瞬にして霧散し、居心地の悪い気まずさばかりが場を占める。
ゼルラーデルは寝ぼけてリリアを別の女性と間違えたのだろう。
きっと彼はリリアに寝台での奉仕など望んでいなかったのだろう。
あの口づけや抱擁は、愛する恋人同士が行う行為だったのだろう。
瞬時にそう思い至ったリリアは、勘違いした羞恥と、まるで恋人同士のような口づけをしてしまった気まずさとで、いたたまれなくなった。
瞳と鼻の奥の方がツンと痺れるように痛んだ。しかしそれ以上に胸の奥が切ないほど苦しくて痛い。
真っ赤になって俯いたリリアは、乱れたガウンの胸元を右手でぎゅっと掴んた。
「申し訳……ありませんでした」
消え入る声でそう口にすると、ゼルラーデルは首を振ってそれを否定する。
「いや。わたしの方こそすまなかった」
低い呟きと共に自分の方へと向けられた指先に、リリアの背が大げさなほど跳ね上がる。
ゼルラーデルは中途半端に差し出した指先を途方に暮れた表情で見やり、ややあって静かに下ろした。
しかし、唇を噛み今にも泣きだしそうなリリアに目を向けると、深い嘆息を漏らして再び謝罪の言葉を口にする。
「……驚かせて悪かった。もう大丈夫だ」
遠慮がちな掌がリリアの頭を不器用にくしゃりと撫でる。
今度は逃げなかったリリアが、大人しくされるがままにしていると、ゆっくりと下降した大きな掌は、労わるように背中を撫で擦り始めた。
昨夜対峙した彼からは想像できない優しさに触れて、強張った身体から緊張が薄れていく。けれど同時にリリアの胸にはまた別の感情が込み上げてきて、瞼の裏側がますます熱を帯びていった。
背中に感じる体温の心地良さに、張り詰めていたものが一気に緩んでしまったようだ。
頼れる人もおらず、自分が何をすべきかも分からない。ただ流されるままゼルラーデルの屋敷で働くことになったけれど、これが正しい選択なのか分からない。
実家に帰ることも、キルビカへ行くことも許してはもらえず、けれどそれが叶ったとして、果たして何が正しい選択なのか、やはり分からないのだ。
リリアは奥歯を噛み締めて込み上げてくるものを堪えた。
「何もしない。泣くな」
抑揚のない声が、それでも宥めるような響きを帯びているように聞こえる。
リリアはそうではないと首を振った。
「ならば何故泣く?」
「……分からないんです。何が正しいのか。何をすべきなのか……自分のことなのに……」
「仕方がない。色々なことがあってお前はまだ混乱しているのだろう? 責任の一端は私にもあるのだろうが……」
リリアが顎を上げて潤んだ瞳をゼルラーデルへ向けると、彼もまた珍しくその表情を緩めて見つめ返してくる。
「まずは焦らずゆっくりと自分と向き合うことだ。今回の件が全て片付き、お前の無実がはっきりしたなら、故郷へ帰るなりキルビカへ行くなり良いと思ったことをすればいい。その際は馬車を用意してやろう」
「……本当ですか?」
「嫌疑をかけた償いだ。そうだな、契約証というのも探しておいてやろう。今更見つかればの話だが」
「ありがとうございます」
リリアは手の甲で頬の涙を拭った。
「アンナに言ってお仕着せを用意してもらえ。この格好では仕事どころではないだろう?」
落ち着きを取り戻したリリアに、ゼルラーデルは目元を和らげて言いながら、すっかり開けてしまったガウンを華奢な肩に掛け直す。
その時――落雷のようなけたたましい悲鳴が寝室に響き渡った。
「何をなさっているのー!?」
驚いてまつ毛を瞬かせるリリアの視線の先には、早朝から驚くほどテンションの高い声の主が、開け放った扉の前で目尻を吊り上げ仁王立ちをしている。
「シーナ。大声を出すな」
喧騒とはまるで別世界の住人であるゼルラーデルが、ため息と共にそう吐き出した。
リリアはその腕の中で、翡翠色の双眸を零れるほど大きく瞠っていた。
シーナと呼ばれた娘は、見た目から推測するに二十歳前後だろう。
アンナと同じエプロンドレスを着て、毛先をくるりと巻いたとび色の毛髪は見事な艶を放ち、頭部に載せたホワイトブリムがとても良く似合う美少女だ。
そんな彼女を見たリリアが、なぜ驚いているのかというと――
アンナと同じお仕着せをまるで別のもののように、とても可愛らしく着こなしているからでも、はち切れそうな胸部の布がアンナのそれとは違い、決して『気の毒』ではないからでもなく――もちろん、美麗なその容貌に驚かされた訳でもない。
「み、耳……」
口をぱくぱくするリリアに、シーナは豊満な胸を揺らしながら早足で歩み寄ってきた。
「ひゃっ……シッポ……?」
まつ毛をぱちぱちさせるリリアは、シーナの頭部に生えている明らかに毛髪とは素材の異なった尖った耳と、極端に短いドレスの裾から見え隠れする尻尾に仰天しているのだった。
「ちょっとあなた。お離れなさい早く!」
リリアの驚愕などお構いなしに、シーナはゼルラーデルからリリアの身体を引き剥がして寝台から引きずり下ろした。
「きゃあぁぁー。これ。ご主人様のガウンじゃないですの!?」
寝台から転がり降りたリリアが呆然となって見つめる先で、シーナはリリアの羽織っているガウンを見て、さらに眼を剥いた。
「……んまぁーっ。なんて図々しい子かしら。今すぐお脱ぎなさいっ」
きぃーっ! と癇癪を起こすシーナに、今度はぐいぐいと襟元を引っ張られて、リリアはつんのめりそうになりながらガウンを脱がされていった。
しかし、ガウンを脱いだリリアの姿を見たシーナは、再び眼を剥いて悲鳴をあげることになった。
「きゃぁーーなんて格好!? なんて下品な……。それにその乱れた御髪はなんですの!?まるで、まるで朝から……あぁーいやらしいぃー」
昨夜アンナに結い上げてもらったままベッドに潜り込んでしまい、中途半端に乱れているリリアの毛髪を、変な方向に誤解したらしいシーナは、エプロンの裾飾りのフリルを尖った糸切り歯で噛み締めた。薄手の生地がビリと音を立てるが、意に介する様子はもちろんない。
「シーナ」
「ご主人様ったら、わたくしのお誘いにちっとも応えて下さらないと思っておりましたら。まさか、このような幼女に興味をお持ちでしたとは……」
「……シーナ」
「いいえ。なりません。ご主人様にはお立場に相応しい嗜好でいて頂かなければ……」
「…………シーナ」
「こうなったら、このわたくしが――あぁそうね。それがよろしいですわ」
「シーナ!」
一人で妄想を膨らませるメイドの名を、ゼルラーデルが声を大にして呼ぶと、ようやくその声が耳に届いたらしいシーナは、電光石火の素早さでスイッチを入れ替えた。
「あら。お呼びでございますかご主人様?」
すっかり舌に馴染んでいるらしいセリフを紅色の唇に乗せて、極上の笑顔を浮かべるシーナと、額を押さえるゼルラーデルの姿を、リリアは呆然と見比べていた。




