ズルファウスの領主・2
ゼルラーデル視点です。
「……で? 用件は何だ?」
ややあって、沈黙を破りゼルラーデルが問うと、リリアはゆっくりと瞼を三度瞬かせた。
何らかの目的を持って訪ねて来たのなら、これで充分だろう――そういった意味合いを含ませて口にした簡潔な質問に、リリアは頬に手を当てて何事か思案する様子を見せた。
切り出す言葉を捜しているのだろうか?
ひっそりと静まり返った室内に、再び長い沈黙が訪れた。
やがて、覚悟を決めたかのように、リリアは引き結んでいた唇をゆっくりと解いた。
「…………はい?」
「ぶふっ……」
『やべ。笑っちゃった』
散々焦らした挙句『意味が汲み取れませんが?』とでも言いたげに、首を傾げるリリアの態度に、クロゲンが堪えきれずに吹き出してしまったようだ。
リリアは眼を瞠り、顎を上げて天井を見渡した。
「天井に……誰か……いるんですか?」
染み一つない真っ白な天井には、人が身を潜めていられるような場所はない。
「分からないか? ……クロゲン」
頷くリリアの表情全てを瞳で捉えながら、ゼルラーデルはクロゲンの名を呼んだ。
「はぁ~い」
元気一杯な返事が聞こえ、白かっただけの天井が不自然にぐにゃりと歪んだ。明らかにある一部分だけが不透明な膜を被ったようになり、そしてだんだんと視界が曖昧になっていく。
黒く滲んだ視界が次に本来の姿を映し出した時には、黒い肌に黒いズボンという、とにかく全身黒ずくめの少年が、宙にぷかぷかと浮かんでいた。
なぜ浮いていられるかというと、背中に翼が生えているからだ。
ベルベットの光沢を持つ黒い翼は、少年が両手を広げたくらいの幅があり、作り物ではないという証拠に、少年の身体が上下するのに合わせて翼の先端もゆっくりと動いている。
クロゲンは黒い唇の端を上げて、利発そうな丸い黒眼をリリアへと向けた。
逃げ出そうとでも思ったのか、咄嗟に立ちあがったリリアは、声をあげることも出来ずに開け放った口を両手で押さえて、宙に浮くクロゲンの姿を見つめている。
桜色だった頬からは完全に血の気が失せ、もともと白い肌が、陶磁器のように冷たく硬質な色沢を増していった。
「あれぇ? ……もしかしてボク。怖がらせちゃってる?」
クロゲンが言葉を発するたびに、明らかに人間のものとは違う深紅の口腔と、尖った歯牙が見え隠れする。
恐らくは戦慄が強すぎて逃げ出すことも出来ないのだろう。リリアは駄々をこねる幼児のように首を振り、下瞼に溜まった涙を頬に散らした。
そんな反応を観察していたゼルラーデルに、その姿は言葉以上に真実を告げ、真贋を見極めようと鋭さを増した瞳にも、それが芝居ではないように映った。
「クロゲン。降りて来い」
「は~い」
クロゲンはリリアの態度に気を悪くすることもなく大きな声で返事をして、小柄な身体をゆっくりと下降させていった。
人間のそれよりも長く、先端に鋭い鉤爪のついた足先が床に触れて、次いで衝撃もなく踵まで着地する。そのわずかな反動で、顎の辺りで切りそろえられた漆黒の毛髪がふわりと持ち上がり、照明の光を幾千と弾き返しながら、ほっそりとした頬を覆っていった。
「……ぃやっ……あっ! きゃあ」
降り立ったクロゲンから逃げるように後ずさりしたリリアは、ガウンの裾を踏みつけて、ソファーの肘掛に背中から倒れこんだ。その勢いで足が上がって、ずるりと頭が下がり――つまりは、後方へと転げ落ちてしまったのだった。
いったいどうやったらそんな転び方ができるのか?
「いったぁ……い」
毛足の長い絨毯のおかげでたいした怪我はないだろうが、それでも鈍い音をたてて後頭部から落ちていったのは確かだ。それは痛いだろう。
「あ~あ。『ごん』っていったけどだいじょうぶ?」
「ええと……」
「ところでパンツ見えてるよ?」
ガウンの裾が肌蹴て、もとより大した役割を果たしていない夜着が腹まで捲れている。
「いぃーやあーぁっ!!」
同じ年頃の娘たちに比べ、少々恥じらいに欠けるところがあるリリアとは言え、床に寝転んでソファーの肘掛に両足をかける格好を、見ず知らずの異性に披露して平然としていられるほど恥知らずではなかったらしい。
慌てて起き上がろうとするが、足を上げたままの格好で上手く起き上がれないでいる。
はらはらと涙を零すしおらしい姿とは打って変わり、わーわーぎゃーぎゃーと叫び声をあげながらもがく姿は、まるで裏返された虫のようだ。
「うるさい。落ち着け」
「で、で、で、でも……」
見かねたクロゲンは一度だけ翼を羽ばたかせて、床に転がるリリアの傍らへ飛ぶと、怯えて顔を歪めるのにも構わず、鉤爪のついた両手を彼女の身体へと伸ばした。
リリアに負けず劣らず華奢な身体つきをしているが、妖属の力は強い。
クロゲンはリリアの身体を軽々と抱き起こして、ついでにガウンの腰紐まで結んでやり、呆然としている顔を正面から覗き込んだ。
「痛いトコない?」
そう言って首を傾けるクロゲンを、リリアはゆっくりと瞬きをしながら見つめて、更にゆっくりと頷いた。
「助けてくれてありがと。ボク。クロゲンね」
「ええっと……」
口の端を上げてにっと笑うクロゲンを、リリアは返答に困った様子で見つめ返す。
「とにかく二人とも座れ」
「は~い」
ゼルラーデルの言葉にクロゲンは口蓋垂を覗かせながら返事をしたが、彼の隣にも、リリアの隣にも座る気はないらしい。
折りたたんでいた翼を再び広げて窓際の机の傍まで飛んでいくと、最後に大きく翼を羽ばたかせて着地する。その風圧で机上に積まれた書類が一斉に舞い上がった。
「おおっといけない」
驚異の反射神経で宙を舞う羊皮紙を次々と捕らえていくクロゲンの手が、薄っぺらな紙をくしゃりと折り曲げ、鋭い鉤爪の先端がぷすりと穴を空ける。
「クロゲン」
ゼルラーデルが額を押さえながら名を呼ぶと、クロゲンは身体ごと彼に向き直り、大切な書類を落とさないように、ぎゅぅーっと力一杯握り締めたまま大きな声で返事をした。
「はぁ~い?」
「書類は後で私が片付ける。大人しく座っていろ」
「はぁい」
クロゲンは元気よく返事をして握っていた書類を置き、机の端に腰をおろした。




