第12話:塗り潰された名前
あの規格外迷宮から、半年が過ぎた。
災害対策局は、国家機関として根を張りつつあった。観測端末は増え、避難訓練は王都の風物詩になり、クロウのギルドからは「守る英雄」が交代で派遣されてくる。被害ゼロの日々は、相変わらず、誰の話題にもならなかった。だが、誰も死なないということが、少しずつ、当たり前になっていた。
その日、セシル・アーレンが、査定室から青い顔で出てきた。
「宮野さん。三年前の崩落事故の、塗り潰された署名——解析が、止まりました」
班長席のアキラが顔を上げた。半年、セシルはあの一件の却下印を解析し続けていた。第七迷宮の崩落で死んだ観測官——アキラの相棒が出した封鎖要請を、誰が握り潰したのか。
「止まった、というのは」
「インクの層は剥がせました。下に、確かに署名があります」セシルは一枚の拡大写しを置いた。「でも、肝心の名前の部分だけ、別の薬品で焼かれています。ただ塗り潰しただけじゃない。誰かが、本気で——この名前が、永遠に読めないようにした」
フロアが静まった。事故の記録を、ここまで徹底して消す人間。それは、消す力を持つ人間だ。
「肩書きの一部だけ、残っています」セシルが指を置いた。「『……顧問官』」
アキラの背筋が冷えた。半年前、規格外迷宮の対応会議。「様子を見るべきだ」と静観を主張した、あの男。
「筆頭顧問官」アキラは呟いた。
その時、フロアの扉が開いた。
噂をすれば、だった。痩せた長身に、隙のない仕立ての上着。筆頭顧問官——国の災害政策を統べる、災対局よりさらに上に立つ男が、供も連れずに地下二層へ降りてきた。
「精が出るな、現場観測班」声は穏やかだった。だが、温度がなかった。「私はローレンツ・グレーヴェ。災害政策の筆頭顧問官だ。一度、君たちと話したかった」
ユイが計算尺を置き、ガイが図面から顔を上げた。
グレーヴェは、フロアをゆっくりと見回した。観測端末。封鎖図面。査定書の山。その視線が、セシルの机の上の拡大写し——塗り潰された署名の写しで、一瞬だけ、止まった。ほんの一瞬。だが、アキラはそれを見逃さなかった。
「君たちの仕事は、立派だ」グレーヴェは言った。「だが、立派すぎる。被害ゼロを続けるには、莫大な税がいる。観測端末一基で、地方都市の橋が一本架かる。……国の財布には、限りがあるんだ、宮野班長」
「人命に、限りはありません」アキラは言った。
「限りは、ある」グレーヴェは静かに微笑んだ。「全員は、救えない。どこかで線を引く。それが、政策だ。君たちは現場で人を救う。私は、机の上で、救う人数の上限を決める。役割が、違うだけだ」
ザイデルと、同じ匂いがした。いや——ザイデルが学んだ、その大本の声だった。
「半年前、規格外迷宮で、君は二万人を救った」グレーヴェは続けた。「だが、もし空振りしていたら、二万人を無駄に動かした責任を、誰が取った? 君は運が良かっただけだ。次は、そうとは限らない。……予算審議が、近い。災対局の規模は、見直されることになるだろう」
それは、宣告だった。穏やかな声の、明確な圧力。
グレーヴェは背を向け、去り際に、一度だけ振り返った。
「ああ、それと」彼はセシルの机の写しを、目で示した。「古い事故を、掘り返しているそうだな。……死んだ者は、戻らない。前を向きたまえ。過去を暴いても、誰も救われはしない」
扉が閉じた。
フロアに、長い沈黙が落ちた。
「……今の、聞きましたか」セシルが震える声で言った。「私、誰にも、この解析のことを話していません。報告書にも上げていない。なのに、あの人は——知っていた」
アキラは、塗り潰された署名の写しを手に取った。焼かれた名前。『……顧問官』。
「あいつだ」アキラは静かに言った。怒りでも、悲しみでもない。ただ、確信だけがあった。「三年前、相棒の封鎖要請を握り潰したのは。あいつが——あいつの死を、事故にした」
右手が、震え始めた。だが、アキラはそれを、左手で包んだ。
「焦るな、って言ったよな、俺」彼は仲間たちを見た。「だが、訂正する。——焦らないが、止まらない。あいつの名前を、必ず、読めるようにする」
第二部「人災告発編」、開幕です。第一部で残した「塗り潰された署名」——三年前、アキラの相棒の封鎖要請を握り潰し、その死を事故にした人物。その正体が、ついに動き始めます。
筆頭顧問官ローレンツ・グレーヴェ。ザイデルが学んだ、論法の大本。「全員は救えない、どこかで線を引くのが政策だ」——被害ゼロを目指す災対局の、最も根本的な敵です。しかも彼は、災対局の予算を握っている。告発すれば、役所ごと潰される。
倒す相手が、剣の届かない場所にいる。第二部は、そういう戦いです。次話、相棒が遺したノートが見つかります。




