3.舞踏の夜にはⅡ
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「 ーー陛下のおなりでございます!」
高らかな声とともに、離れていったマリユスも、隣にいたミュリエルも、もちろんラーレシアも膝をつく。
この国の、リュクラシア王国の頂点にして、至高の存在。
磨き抜かれた黒の長靴が、こつりこつりと優雅に床を鳴らした。背中に翻るのは、リュクラシアの国旗と同じ、深紅の上衣。公式の場であるためか、軍服に似せた正装はどこか不遜で、美しい。
「 皆、顔を上げよ。楽にしろ」
精悍な顔立ち。五十路にかかるはずであるのに、その獰猛な獅子を思わせる美貌は衰えることを知らない。太陽のような強い光を放つ金の瞳。闇から伸びてきたかのような猛々しい黒髪。そしてーー唇の端に残る、赤黒い切り傷の跡。
そしてその後ろに、楚々と控えるのはこの国の正妃ーーマヌエラだ。結い上げた赤茶色の髪に、薄いブルーのヴェールを被っている。
彼女の国の国教の敬虔な信徒であるマヌエラは、誰にも素顔を晒そうとはしなかった。
彼女どこか冷めた様子で、広間をみているようだった。
夫であるはずの王からエスコートを受けることもなく、出席は終わったと言わんばかりに踵を返す。王は視線さえも王妃に寄せることはなく、王妃の早すぎる退出になんの疑問も抱いていないようだった。
そそくさと歩みを進めた王はーー一人の女性の下へと歩み寄ると、その掌を掬って口づけた。
ここ最近の王のお気に入りーーすなわち寵妃であるーーアナスタシアである。
人形めいた不気味なくらいに整った美貌に、真っ白の素肌、真っ白の髪。そして、血のように朱い瞳。妖艶な笑みを浮かべて、蠱惑的な胸元に手を当てたアナスタシアは、王の腕を取ると自らこてりと頭を肩に乗せる。
「 …アナスタシア様……」
隣でミュリエルが複雑そうな顔をした。
「 第九側妃であるあの方を陛下があれほどまでにご寵愛なさるなんて…」
「 あまりに美しい方であるしーーそれに、陛下の女性好きはミュリエル様も知っておられるでしょう?」
「 ええ…勿論ですわ。ですが、あれほどまでのご寵愛ぶりなんて。タチアナ様の時よりも凄まじいではないですの?お子でもお産まれになったら大変ですわ」
ミュリエルが言いたいことを察して、ラーレシアも小さく眉を寄せた。くちびるに葡萄酒のグラスを近づければ、淡く葡萄が香る。
第三側妃タチアナ。今は亡き女性であるが、美しい踊り子で、国王からの寵愛も非常に厚かった。第三王子であるルシアンの母でもある。そのときの寵愛ぶりもすさまじいものであったが、確かにミュリエルの言う通りアナスタシアへの寵愛は度を越しているように思う。
ミュリエルの視線を追えば、人目も憚らず口づけを交わしている二人の姿が目に入る。
「…確かに、あまりのご寵愛ぶりですわね」
「 他の側妃様方はご不快に思っていらっしゃるに違いないですの」
目の端に映る、国王の側妃たちはその表情にありありと苦々しく不快気な色を乗せている。中でも第一王子マリユスの母ロズリーヌは儚げな美貌を苛立たしげに歪めている。
「……わたくしもう帰ろうかしら…」
ミュリエルがしょんぼりと肩を落とした。
桃色のドレスから覗く白色の肩がシャンデリアに淡く照らされた。
「 恐ろしくなってしまわれたのですか?」
「…ええ、ずっと恐ろしいですの。お姉さまが亡くなったときも、ほんとうにお姉さまが自ら命を絶ったのか…そう、考えていて。 」
ラーレシアは沈黙する。彼女の姉、第五王女ジスリーヌの自殺とされた死には確かに不可解な点も多かった。
「 姉を支持していた商人たちの力は、それほど小さいものではありませんでしたの。ですから、姉兄たちがそれを恐れて殺したと…」
「 ミュリエル様。どこで誰が聞いているか分かりませんわ。滅多なことはあまりお口に出すべきではありませんよ」
「…そう、ですね。申し訳ないですの…… 」
ミュリエルはテティリーヌの言葉を思い出したのか、肩を震わせた。
「 早く、この王宮から出たいですの……っお母さまは、きっと怒るでしょうけれど」
「 ミュリエル様」
「 わたくしは怖い…テティリーヌ様はきっとわたくしに目をつけられたと思いますの。いつ、………いつ、わたくしも殺されーー」
「 ミュリエル様」
青白く震える肩を柔らかく掴んで、ラーレシアは優しく顔を覗き込んだ。ミュリエルはいま冷静ではない。こんな場所でそんな不穏な言葉を吐くことほど危険なことはないのだから。
「 ミュリエル様はお疲れのご様子ですわ。今夜はもう帰りましょう?わたくしも一緒にお送りいたしますから、ね?」
ミュリエルの手の平にくるまれていたグラスを優しくほどいて掴む。それを給餌に渡すと、素早く手を引いて歩き出す。
ラーレシアもできることなら早く帰りたかったのが本音だ。だからこそ、その建前ができたのは丁度よい。
「ごめんなさい、ミュリエル様のご体調が優れないようですから、わたくしたちはここで退出させていただきますわ。良いように伝えておいてくださる? 」
給餌の青年に少しの金貨を握らせて、柔らかく微笑む。給餌が頷いたのを確認してから、ラーレシアはミュリエルを連れて歩き出した。
ミュリエルを部屋に送り届け、ラーレシアは宵闇に染まりゆく白亜の回廊から静かに空を見上げた。
手を伸ばしたら触れられそうなくらい近くにあるように見える星々は淡く輝いている。
心優しいものから王宮に蝕まれ、死んでいく。ひとつでも、姉兄たちに目をつけられてしまえばすぐに。
母もそうだった。月の精霊のように美しく、心優しい人だった母は、王宮での暮らしに心を病んでいたのだと乳母のアンリエッタはよくラーレシアに語り聞かせていた。まだ王の寵愛があるうちに、母リュディーリアは別宅へ住むことを王に願い出、そして《 星の塔》を賜った。
少し先に見える、夜の景色の中に浮かび上がるその塔の白さは、月明かりににていた。
指先を小さく握り込んだ。テティリーヌもーーもしかしたらマリユスも、この騒ぎでミュリエルに目をつけたかもしれない。
流れ星が不意に姿を消すように。もしかしたらーー
そんな不吉な、ことが。
ラーレシアは慌てて首を振る。ミュリエルは時折ひとりでいるラーレシアに声をかけてくれる愛らしい少女だ。だから、そんなことは。きっと。




