2.舞踏の夜には
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ラーレシアが別館から外出することは殆ど無い。たとえばーー今日のような公式な行事を除いて。
乳母のアンリエッタが用意してくれたドレスに身を包み、綺羅びやかな王城へと足を運ぶ。夕刻に近いせいか、沈みかけた日が眩く空を赤く照らしていた。瞳の色と合わせた紺色のドレスは裾の方に薄紅が滲み、あたかも暁の空かのようだった。
忙しなく動き回る侍女たちは、ラーレシアの目の前で深々と腰を折り、足早に立ち去っていく。深い青の絨毯が敷かれた広い廊下の壁には、神話をもとに描いた絵画が優美に飾られている。
「 ーー」
ラーレシアは慌ただしい侍女たちの足音に混じって聞こえてきた耳慣れた足音に、静かに足を止めた。
「 姫」
「……アレスタント 」
金色の月の光を織り合わせたような金髪に、ラーレシアを真摯に見つめる薄い青の瞳。透明度の高い水のような澄んだ瞳は、ラーレシアを見つめて柔らかく微笑みの形へと変わる。
「 お一人でございますか?」
「 …いいえ、途中まではアンリエッタに送ってもらったわ。彼女は王宮には入れないの、知っているでしょう?」
平民であるアンリエッタは、王の許しがない限り行事への参加を認められない。ラーレシアの答えに、目の前の騎士はええ、と頷いた。
自然な動作でラーレシアの隣へ立つと、まるでエスコートでもするかのように手を取った。
「 護衛もつけずに歩かれるなんて、危険ですよ」
「十三番目の子供ーー第八王女の命なんて誰も狙ってはいないわ 」
アレスタントの黒の軍服に華々しく飾られた数多の勲章がカチャリと音を立てて揺れた。それがまるで星々の輝きに見えて、ラーレシアは小さく目を細める。
アレスタントは肯定することなく、首を傾げただけだった。
「 会場まで、護衛させていただいても?」
薄いくちびるから零れた言葉は、ラーレシアを気遣うような響きを帯びていた。
「リュクラシアの"月の守護者"様がわたくしの護衛をしてくださるの?」
硝子玉みたいな薄い青の瞳を見つめ返して、少しだけ揶揄うような調子を混ぜて問いかけた。そうすれば、アレスタントは微かに笑う。
「"月の守護者 "なんてーーそのように大層なものではありませんよ」
「 まさか、誰もがあなたの奥方になりたいと願っているはずだわ」
「 御冗談を」
ラーレシアは気安い会話に少しだけ肩の力を抜いた。手を引かれるようにエスコートに身を任せる。
アレスタントとは長い付き合いだった。彼が" 月の守護者"なんて大仰な二つ名で呼ばれるよりもずっと昔からーー彼がまだなんの功績も持たない衛士だったころから、彼のことを知っていた。
五つ年上のアレスタントは、ラーレシアの兄のような存在でありーーけれどもその立場は明確に身分という楔で線引きされていた。
「 …先の戦線であなたが大活躍だったと、アンリエッタから聞いたわ」
「 …ご存じでしたか?」
アレスタントは特段喜ぶ風もなく、ラーレシアを見つめ返して、また直ぐに視線を前に戻してしまう。
「 大活躍、というほどのことではありません。戦場では、何が正しいことか分からないものです。ただ、私が進んだ道がたまたま幸運な結果を齎したというだけです。ひとつ運命の女神が指を差し違えれば、私は無能だと後ろ指をさされていたでしょう」
「 でも、運命の女神ツァーリャはあなたに幸運を授けた」
「……そうかもしれません 」
「それは、紛れもなくあなたの功績なのではなくて? 」
目の前の男は、物事を深く考えすぎるきらいがある。それも、後ろ向きな方向に。
誰が何を言おうとも、アレスタントがその身一つで《月の守護者 》とよばれるまでの騎士になったのは、彼自身の努力あってのものであろう。
「 アレス、あなたは昔からきっと難しく考えすぎなのよ。その胸に並んだ勲章は、運命の女神さまが気まぐれに与えてくださったものなの?違うでしょう?ーーそれは、あなた自身の力で得たものよ」
愛称を交えて優しく言葉を紡ぐ。武骨な指先を愛おしむように、力を込めて握る。
「…姫 」
「 陛下はあなたを選んだ。"月"を名に持つ己の守護者として。アレスタント、あなたは自分が思っているよりもずっと、ずっと、すごいのよ」
「…貴女は私に甘すぎる 」
困ったように漏れた囁きは、どうしてか酷く優しかった。
「私は貴女のことが心配でなりません、姫。ーー先日も、第九王子が亡くなった。王宮に安全な場所はありません。 貴女は賢く、聡明だ。危険もきちんと理解しているでしょう。それでも、不安なのです」
握る手に力が籠もる。姫と騎士にしては近すぎる距離を、ラーレシアは咎めるつもりはなかった。
平民の母が見つけた迷い子だった。心優しいひとだったという母は、アレスタントという名をつけて彼を養育した。
ラーレシアはふっと笑みをこぼす。
「 大丈夫よ、アレスタント。わたくしを殺したとしても、なんの価値もない。わたくしはただそこにあるだけの、"星"なのだから」
「…私は星の女神ほど、美しいものを知りません 」
ラーレシアは曖昧に微笑む。彼は兄のようでいて、けれども明確に違っていた。
「 星々の輝きは美しく、誰もが目を留めるものです。流れる星が一瞬に地平の彼方に沈んでいくように、星を狙うものもきっとおります。」
「…ただ"星"がそこにあるように、わたくしも必ずそこにいるわ 」
神話の聖句を、己に言い換える。
「わたくしの星は、沈まないわ。必ず、必ず傍にいるから」
「…… 」
「だから、安心して、アレス。 」
母親が子供に言い聞かせるように、優しく諭すように告げる。
アレスタントは薄い水色の瞳をラーレシアに向けて、まだ不安げに瞼を伏せた。
「……私は、何時でも貴女の味方です。たとえ、天すらも貴女の敵になったとしても 」
夜会の会場である大広間の扉の前で、アレスタントは足を止める。" 天"すらも敵に回すなんて、そんな不遜なことを言い放って彼は真っ直ぐにラーレシアを見つめた。
「私は貴女の盾となり、剣となりましょう 」
その言葉は強く、けれども柔らかくて優しかった。
アレスタントは薄い膜の張ったような青い瞳を少しだけ揺らして、ややあってから、僅かに微笑んだ。
「それでは、姫。……お気をつけて 」
「 ええ、送ってくれてありがとう、アレス」
耳に届いた声に、ラーレシアはそっと微笑んだ。
会場ではもう夜会が始まっていた。この日のために大陸全土から参列した国賓たちが、リュクラシア名産の葡萄酒を片手に優雅に談笑に興じている。
公式の行事であるから、国王の子女たちは必ず参加することになっている。給餌から受け取った葡萄酒のグラスを揺らし、ラーレシアは周囲をそっと見渡す。
ひときわ高くに据えられた玉座には、いまだ誰も座していない。国王はまだ来ていないようだった。リュクラシア王国のその長にして、神話の中の神々が初めに造り給うた原初の人間の末裔ーーそれが、王族だった。
現国王その人は、王子であった頃に隣国との戦争を平定し、その和平の証として隣国の王女を己の妻として迎え入れた。
猛く、勇敢だった王子はけれども無類の女好きであった。異国から嫁いできた王太子妃との仲は非常に悪いと評判で、王子が他の女性に目移りするのも当然のことだった。
父王が病のため急逝し、国王となった時には側妃として数多の女性を迎え入れた。
不意に、人集りの中央で鷹揚な笑みを浮かべる女性と目が合う。
豪奢な金髪に負けないくらいに、華やかに整った目鼻立ち。蝶の鱗粉のような金の睫毛に縁取られた、金色の瞳がラーレシアをついと見つめて、直ぐに逸れた。
リュクラシア王国の第一王女、テティリーヌ。フライア伯爵家出身の母を持ち、王位継承に近いと言われる女性。
纏うドレスは猛る炎のように鮮やかで、脳裏を焼かれるように錯覚しそうになる。けれども、そのドレスでさえ彼女の美貌を引き立てる装飾のひとつに過ぎないようだった。
ラーレシアは無意識に詰めていた息をそっと吐く。
これでいい。目の敵にされることなく、彼女たちにとって無害で、無価値なものとして存在する。なんの敵意も持たず、地位も、権力もないように。ただ、そう振る舞う。
ラーレシアが生き延びてきた中で無意識に身に着けた、処世術のようなものだった。
フライア伯爵家を実家に持つ第一王女テティリーヌ。そして、リュクラシア唯一の公爵家出身の母を持つ、第一王子マリユス。国王の寵愛深い踊り子タチアナが産んだ第二王子ルシアン。
彼らが、最も王位に近いと呼ばれている三人だった。
遠くに見える第一王子マリユスは、母妃譲りの儚げな美貌に、そつのない笑みを乗せて歓談に応じているようだった。一方、第二王子ルシアンの姿は見えないから、今日は他国との外交面会でもやっているのかもしれない。
誰もがみな、次期王に恩を売ろうと必死なのだ。けれどもまあ、順当にいけば第一子であり公爵家の長女ロズリーヌを母に持つマリユスが王になるのだろうとはなんとなく想像がつく。
「 ーーラーレシア様」
おっとりとした声に、ラーレシアはぱちりと瞳を瞬いた。
「 ミュリエル様。ご機嫌よう」
癖のある淡い金髪をゆるく揺らしたミュリエルは、ラーレシアの言葉に嬉しそうに頬をゆるめた。桃色にも見える薄い紅色の瞳は、シャンデリアの白い光を閉じ込めて、唯一無二の宝石みたいに煌めいた。
「 ラーレシア様もお一人ですの?よろしければ、ご一緒させていただければ嬉しいですわ」
「 もちろん、かまいませんわ」
ラーレシアは軽く頷いて、傍にいた給餌に飲み物を手渡すように指示を送った。ミュリエルは男爵家の母を持ち、ラーレシアと同い年に産まれた王女だ。彼女もまた権力闘争にまるで興味がないのだろうということは、見ていれば簡単にわかる。
葡萄酒に口を付けたミュリエルは眩しげに広間を見やって、長い睫毛を伏せた。
「このようなことを、ラーレシア様にご相談すべきではないと分かっているのですが 」
そう、小さく前置きして。ミュリエルは静かに口を開いた。
「 ……わたくし、結婚しようと思っているのです」
「 結婚、ですか?」
ラーレシアは少しだけ目を見開いて、傍らに立つ少女に目を向けた。
シャンデリアの光を浴びて輝く淡い金髪は、月光を受けて花ひらく神話の花ーー月下草のように美しい。
「 陛下は、わたくしたち全てに良い縁談をくださるわけではありません。わたくしの姉は、嫁ぎ先を見つけてもらうことすらしていただけず、婚期を逃してしまいましたの。」
ミュリエルの姉ーージスリーヌ。第五王女であった彼女は、権力闘争に敗れ、そしてーー
「 王宮内にいれば、王女殿下方に疎まれ、命の危機に晒される。けれども嫁ぎ先も見つからない。姉は、失意のままこの国を呪い…そうして、命を絶ちました」
ミュリエルの眼差しは、テティリーヌに向いている。《太陽の愛し子》と呼ばれるテティリーヌの華やかな笑みをただ静かに見つめて、何かを思い出すように瞳を揺らした。
「 優しい姉でしたの。わたくしのことを可愛がってくださった。真面目で、責任感の強い、優しいひとでしたの。」
ミュリエルが何度も瞳を瞬く。零れ落ちそうな何かを、堰き止めるかのように。
「お母様の期待に応えなければと、きっと不慣れなことばかりなさっていたんだと思いますわ。姉は、人を貶めるなんてそんなことを平気でできるようなひとではなかったのに」
今度こそ、耐えきれなくなったようにミュリエルの瞳から大粒の雫が零れ落ちた。
「……ミュリエル様… 」
「 姉は最期に、わたくしのために縁談を用意してくださていたのです。ご自分は死を思うほどに追い詰められていたというのに、わたくしの、わたくしの縁談を……っ用意して、くださった、のです…」
自分よりも数ヶ月だけ年上の、それでも己より小さな体を、ラーレシアはそっと抱きしめた。こんな場所では目立ってしまうけれど、今は仕方がない。
取り出した手巾でミュリエルの目尻を拭ってやれば、ミュリエルは赤くなった鼻をぐすんと鳴らした。
「 お母様はわたくしを王位に付けたいと思っているのかもしれませんの。でも、わたくしは…」
「 ええ」
「わたくしは、姉の遺してくれた縁談を受けたいと思っておりますの。 」
その縁談がどのようなものなのか、ラーレシアには想像し得なかった。彼女が何を思い、そしてラーレシアに語りかけたのかをも、知る由もないことだ。
けれども彼女は、ミュリエルはラーレシアに何かを求めているようだった。
ラーレシアは手を伸ばす。星々の輝きによく似た、控えめな光を放つ淡い金髪に。
そっと形をなぞるように、優しく触れる。心地が良いのか、ミュリエルはそっと目を眇めた。
「 わたくしは、ミュリエル様がどのような思いでわたくしに語ってくださったのか、鮮明には分かりませんわ。けれど、貴女がそうなさりたいと思うならば、きっとそうなされば宜しいわ」
ラーレシアの言葉は、どこか冷たく響いたように感じた。
けれどもミュリエルは、ぬぐったばかりの目尻を赤く染めて、眦に雫をためただけだった。
「 わたくしは、お姉さまの縁談を受けますわ」
「 ええ。わたくしには何の力もないから……手助けはできないけれどーー」
手のひらを握る柔らかいミュリエルの手は、ほんのりと暖かかった。
その手を優しく握り返して、ラーレシアはふわりと笑みを浮かべる。
「運命の女神が、貴女に幸運を授けてくれるよう祈っているわ」
ミュリエルは春の木漏れ日のような、そんな笑みを零して、ラーレシアの胸に抱きついた。
「 ……何をしているのかしら」
ミュリエルの頭をそっと撫でて、体を離そうとしたその時だった。鷹揚ながら、どこか不遜で、傲慢な声が、頭上から降ってきた。
腕の中のミュリエルが身を固くして、素早く体を離す。
「 テティリーヌ様、ご機嫌麗しゅうございます」
ラーレシアの挨拶にテティリーヌはただ片眉を上げただけで答え、華やかな美貌に一抹の不機嫌さを乗せて、ミュリエルを見遣った。
ドレスと揃えて誂えたのか、燃え上がる熾火のような扇子を何度も揺らし、緩慢と顎を反らせる。
「ーー愚鈍なジスリーヌの妹 」
テティリーヌの声は良く通る。隣でミュリエルが体を硬くした。
「 結婚……結婚ですって?お前のように陛下から見込まれもしていないのならば、陛下の駒として、リュクラシアのために嫁ぐのが正しい生き方というものでしょう?あの真面目ぶった女が用意したこの国の平凡な商人との縁談が、国益につながると本当に思っているのかしら」
「 ……っですがー!」
「 ですが、何?わたくしに口答えするの?お前が?」
太陽の雄神の眷属たる雌獅子の瞳のような、黄金を溶かし込んだ瞳がすうっと細くなった。ぱちん、と閉じた扇を白い手に落とすとテティリーヌは苛立ったように腕を組む。
ミュリエルは俯いて、小さく拳を震わせている。
テティリーヌはその姿を眺めて、そこでラーレシアに目を向けた。
「ーーお前は?誰かしら 」
「 …お初にお目にかかります、テティリーヌ様。リュディーリアが娘、第八王女ラーレシア=スティラ=リュクラシアでございます。」
テティリーヌはまじまじとラーレシアを見やって、得心がいったというように頷いた。
「星の女神の名を冠した、星の塔に住む娘ね? 」
傍のミュリエルを忘れたように、テティリーヌはもう一度扇を開いて、艶やかな笑みを浮かべる。
「リュディーリアーーそう、月の精霊のように美しい方だったわね。お前のことはそれなりに覚えていてよ。」
「…それは、……ありがとう存じますわ」
「そこの娘とは、あまり関わらないようにすることを勧めておくわ 」
物でも指し示すかのように、優美に扇でミュリエルを指して、テティリーヌはくすりと笑う。
「ーーねぇ、お前はなんという名だったかしら。数多いる弟妹の名前なんて覚えていられないのよ。教えてくださる?」
テティリーヌの真っ赤なヒールが大理石の床を叩いて、冷たい音を立てた。
幾分か長身のテティリーヌを見上げるように、ミュリエルは胸の前で手を組んで震えていた。
「…っ、お初に、お目にかかります。ジュリアが娘にして、ジスリーヌが妹…ミュリエル=ドロティア=リュクラシアでございます。」
震える声のまま、ミュリエルは告げる。
テティリーヌの豪奢な金髪が揺れる。炎がちりちりと朧に揺らぐように、赤い扇がゆったりと動いた。
「 そう、このことは陛下にご報告させていただくわ。」
「 っ…!」
「わたくしたちの体に流れる尊き王の血を、平民に与えるつもりだったのかしら。そのような不敬なことーーお前の姉はよく思いついたものね。賢しいこと」
それは、確かに明白な侮辱の言葉だった。ミュリエルが目の端を赤く染めて、言いかけた言葉を懸命に堰き止めようとくちびるを震わせた。
「 お前は何も分かっていないのね。己に流れる血の高貴さも。それを平民に容易く奪われることの恐ろしさも。」
美しくも妖艶な紅い唇が、笑みの形に歪む。
テティリーヌは紅蓮に染まる扇を口元に揺らすと、気まぐれに小首を傾げた。
「お前の姉もお前も、頭が足りないようね」
「 テティリーヌ、さま…!お言葉ですがーー」
耐えきれなくなったように、ミュリエルが顔を上げる。けれども、その先に紡がれるはずだった抗議の言葉は、発せられることさえなく、夜の気配に不意に消えた。
「 ーーテティリーヌ」
《月の神の恩寵を授かったような》と誰もが形容する、儚げな美貌。白銀の髪は、上質な絹のように繊細で美しい。女性のようにたおやかな睫毛に縁取られた紫水晶のような瞳が、静かにテティリーヌを見据えていた。
第一王子マリユス=ナーヴァルニュ=サシェ=リュクラシア。最も王位に近いと呼ばれる王子が、どういうわけかテティリーヌからミュリエルを庇うように声を掛けた。
テティリーヌは目に見えて不快そうに眉をつり上げる。苛立ちを示すかのように、彼女の手のひらの炎の扇は、ちろちろと火の粉をはためかせている。
「 目立っているよ」
ただ美しい王子はそう言った。柔らかく、繊細で、それなのにどこか抗えぬような力を持った言葉。
「 ……それがどうかして?」
「父上の御顔に泥を塗るつもりかい、テティリーヌ」
王宮内で、国王を父上と呼べる人物。それほどまでに、王からの信頼を得ている人物。
テティリーヌはマリユスの視線を厭うかのように扇を引き上げると、機嫌を悪くしたとでも言いたげに鮮やかな金髪をかき上げた。
「 そう、わたくしが陛下の誇りを汚したと?そう仰るのね」
テティリーヌの言葉に、マリユスは僅かに微笑みを深くしただけだった。
それに苛立った様子で眉を上げたテティリーヌは、真っ赤なくちびるを屈辱に染めた。
「 ああ、そう。もういいわ、わたくし、気分が悪くなってしまったわ。」
テティリーヌは扇を直ぐ側に控えていた侍従に放る。かつり、とヒールを鳴らして踵を返すと、まるで紅蓮に燃え上がるみたいな紅いドレスを揺らして、足早に去っていく。
その姿をマリユスは薄い笑みを浮かべたまま、静かに見送っている。
「……あ、あのっ!第一王子殿下、マリユス様。助けていただいて、ありがとう存じます。 」
ミュリエルがマリユスに静かに頭を下げるので、ラーレシアも隣で軽く腰を折る。
マリユスは控えめな微笑を聖女像のような美貌に乗せると、菫色の瞳を少しだけ細めた。
「構わないよ、ミュリエル 」
「……! 」
ミュリエル、名前を覚えているのかとラーレシアは目を見開いた。隣でミュリエルも驚いた顔をしている。大勢の兄妹がいる中で、ミュリエルやラーレシアのような場末の王女たちは名前すらも忘れられるのが常だった。
「 それにーーラーレシアだったね?君と会うのは久々だ」
やはり、ラーレシアにまでも柔らかな笑みを向け。
「 名前を、覚えてくださっているのですか」
ミュリエルは信じられないとでも言いたげに頬を染めて、己の義兄にあたる王子をひたと見上げた。
マリユスは小首を傾げて、それから何でもないことのように紡ぐ。
「君たちは私の大切な弟妹だ。その名を、忘れることなどないよ」
たおやかな笑みで、まるで女神のように人など殺せぬ顔をしてーーマリユスは言う。
嘘だ、と本能的に感じた。第一王子であると言うだけで、生家が公爵家であるというだけで、王宮内で生き残れるほど生易しい世界ではない。身を守るだけでなく、時には誰かを手にかけなければ、その地位はきっと維持できない。
この王子は、愛する兄妹といいながら、一体幾人を手に掛けたのだろうか。何者も慈しむ慈愛と命ーー生命を司る女神ヘーラのような優しい顔で。
手に握った葡萄酒のグラスは、ラーレシアの体温で温くなってしまっていた。なぜだか不吉な予感がして、ラーレシアは人知れず肩を震わせた。
*****
少し長めになりました…




