1.序章
"スティラ"ーー星の女神の御名。リュクラシア王国が崇拝する十神の、その末端に位置する女神は、数多ある神話の中でなぜだかあまり登場しない。
天は全てを予言し、太陽神は世界を遍く照らす。星の女神はただ、そこにいるだけ。十神の一柱であるというのに、その女神を信仰するものは殆どいない。
まるで自分のようだと、ラーレシアは密かに思う。ラーレシアを産んで直ぐに亡くなった母が付けた"スティラ"という洗礼名は、十三番に産まれた王女であるラーレシアをよく表していた。
物心がついたときには、王城という場所は馴染みのない場所だった。権力闘争に夢中の兄王子たちや姉姫たちにとって、末に産まれた十三番目の子ーー第八王女には構うほどの価値のないものであったし、ラーレシアの母は平民の出であったからそれといった脅威とも思われなかった。
王宮の敷地内にある、王城から少し離れた別館がラーレシアの家だった。幾ばく前の御世のことかラーレシアには分からないが、その昔の王が、唯一の王妃の為に建てたとされる東屋である。その時代には美しかったのであろう、白亜の壁には蔦が紋様のように緑を飾っている。外の手入れまで人手が回らないために荒れ果てた外庭には、宵闇に静かに輝く星のように、ぽつりぽつりと白い花弁が淡く泳いでいる。
ラーレシアの自室は、かつてこの別館の主であった王妃が好んだためだろうか、夜空を見渡せる大きな窓が付いていた。窓枠に見られる意匠は、星の女神を象ったものだ。
ラーレシアは静かに窓を押し開けた。古くなった蝶番がぎい、と軋んだ音を立てて緩やかに開く。
澄んだ夜の香りがラーレシアの鼻をやにわにくすぐり、どこか湿り気を帯びた風が長い髪を帆のように煽った。
美しい夜だった。ラーレシアは僅かに目を細める。ラーレシアの瞳は、太陽の輝きよりもどこか朧げで、月の光よりも僅かに淡い、まるで星の瞬きのような煌めきを帯びていた。
乳母のアンリエッタがいつも湖畔に浮かぶ綺羅星のよう、と形容する柔らかな白い光を纏った深い青の瞳を向けて、ラーレシアは静かに息をつく。
夜の闇と同じ色の髪が、混ざり合って溶けていくかのように広がって、緩やかに回る。
「 天がただそこにあるように、」
ラーレシアがぽつりと落としたのは、誰もが知る神話の冒頭の言葉。
「太陽がそこにあるようにーー月が、大地が、海が、火がーー運命が、そして生が、死があるように。神は、ただそこにおられるのです」
言い慣れた言葉を諳んじるように、ラーレシアは誰に向けるでもなくそういった。堅苦しい聖典よりも、幾らか易しい言葉で。
自身の名と同じ、星の女神を紡がぬまま、ラーレシアは口を閉ざした。
暗闇の中で息づくように、白く淡く光る星々の輝きは触れれば壊れてしまいそうなくらい繊細で柔らかい。
今日、ラーレシアの弟王子が亡くなったと聞いた。接点は殆どなかった。彼の王子は栄誉ある侯爵家の夫人を母にもつ、まだ幼い少年だった。紅茶のような温かみのある茶色の髪に、真っすぐな緑の瞳を持った少年だった。
ずる賢い兄王子か、はたまた意地の悪い姉王女に殺されたのかーーラーレシアには分からない。彼はラーレシアと違って、立派な後ろ盾があった。王位を狙う兄姉に目をつけられていたのは、言うまでもないことだった。
彼の王子の母の心労を考えれば、どれほど痛ましいことだろうかと自然と思われた。まだ若く美しい女性だった。権力闘争に明け暮れる側室たちとは、違った雰囲気を持っていたように思う。誰も彼もが己の権力を一に考え、競って子供たちを王位に付けようとするーー王宮内で、王の女性たちにとって己の子は、権力を得るための道具だった。
けれども、彼女は王子自身を愛していたように見えた。王子と同じ色の柔らかい若葉色の瞳は、溢れる愛を隠すこともせずに我が子を見つめていた。
彼女自身も、王子も、きっと王位なんてひとかけらだって求めていなかった。けれども周囲は彼女の後ろにある侯爵家という権力を警戒し、疑った。
炭色の喪服に色白の体を埋めて、黒のヴェールの隙間からこぼれる頬を涙で濡らしていた女性の姿が、ラーレシアの脳裏に浮かんで、揺蕩うように揺らいだ。
ここでは人が直ぐに死ぬ。異国から嫁いできた正妃は第一子を流してから、子を望めぬ体になった。それから幾人もの側室が娶られ、子を産み、そして後継の座を激しく争っている。
幼い王子や姫が亡くなることは、それほど珍しいことではない。その上、王の寵を巡って側室どうしで激しい対立を巻き起こすこともある。
(ーー名前を)
空高くに登る星々に、手を伸ばす。星の女神スティラは、天の神ルージェの妻である。
天の神は死者の魂を掬い上げ、星に宿す。死者の名を呼べば、星は瞬き、彼らを見つけられる。
「ニルシェーーニルシェ=サシェ=フォーレ=リュクラシア… 」
ラーレシアは星に宿る幼い王子の名を呼んだ。星々は沈黙したまま、頷きさえも返さない。
「 ニルシェ」
紡いだ声は、夜闇に静かに落ちて消えてゆく。星の女神はやはり応えてはくれない。彼女はそういう女神なのだ。ただ、そこに密やかにいるだけ。気まぐれに祝福を返す、傲慢でありながら神秘的な夜の姫。
冷たくなってしまった手を、ラーレシアは引っ込めた。指先が白くなってしまっている。何度かさすって、もう一度だけ夜空に目を向けた。あまりに美しいその夜は、まるで絵画みたいで現実味がなく、かえって不気味にも見える。
今頃、王子ーーニルシェの母親であるあの美しい女性は、声が枯れるくらいに星空に息子の名を呼んでいるのだろうか。たとえ、星の女神に冷たくあしらわれようとも。




