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9.出立

******


月日が過ぎ去るのは、早いものだ。


ミュリエルが星に還った晩夏。秋が過ぎ、雪がちらつき始める、冬がやってきた。


ラーレシアが住まう離宮は、アンリエッタが暖炉の火を絶えず起こしてくれているおかげで、それほどまでに寒さは感じない。


ラーレシアがエーレンフェストに嫁ぐこの日は、薄暗い空からちらちらと灰のような雪が振っていた。



「 道中、気をつけて」



まだ日も昇らぬ朝に、4頭仕立ての立派な馬車に乗せられる。見送りは、マリユスだけだった。


アンリエッタとアレスタントも馬車の中から、マリユスに頭を下げた。



「 …はい、行ってまいります。殿下、見送りに来ていただき、ありがとう存じます」


「構わないよ。大切な妹の輿入れだからね。気をつけて、行っておいで 」



ここ数ヶ月、マリユスと接する機会が増えた中で、ラーレシアは益々彼のことが分からなくなっていた。


言葉も、態度も、行動も。すべて優しい。


舞踏会のときも、すべて偽りの優しさだとそう思っていた。けれど、違うのだろうか。


柔らかい笑みを浮かべるマリユスに、そっと頭を下げる。


よく、分からなかった。ラーレシアの婚姻が彼にとって益をもたらすものなのだろうか。だからこそ、こんなにも良くしてくれるのだろうか。ミュリエルにされたことをもってしても、その悪性を疑ってしまうくらいには。



「…行ってまいります 」


「うん」



マリユスがラーレシアに手を振る。


薄暗い世界に、一筋の朝日が差し込んで、それが飽和して広がっていく。境目が明瞭になっていく。地面と、空と。


マリユスは多分、ラーレシアの姿が見えなくなるまで、手を振っていた。



*****



「 姫、もうそろそろ関所に入ります。」


「…もう、そんなところまで?」



うつらうつらと瞳を閉じていたラーレシアは、アレスタントの言葉に目を開ける。確かにカーテンを開けてみれば、太陽は高い位置にまで昇っている。


国を離れるのがさみしいわけではなかった。けれども、明確に距離を感じてしまえば、もう二度とは戻ることがないであろう〈 星の館〉に思いを馳せてしまう。


ラーレシアの隣に腰掛けているアンリエッタはぐっすりとよく眠っているようで、ラーレシアが動いても身動ぎさえしない。

それに思わずくすりと笑う。



「アレス、アンリエッタがよく寝てるわ。きっとたくさん頑張ってくれたのね 」


「 そうですね」



アレスタントもくちびるを綻ばせて、微笑ましげに目を細めた。


それから、薄い水色の瞳をラーレシアに向ける。



「…今日は一段とお美しい 」


「 ふふ、そう?アンリエッタが整えてくれたの。彼女のおかげよ」


「 ええ、まるで星の女神のようです。手の届かない…女神のようだ。」



寂しげな表情をしたような気がしたのは、気のせいだろうか。

少しだけ落ちた沈黙を消そうと、ラーレシアは軽く咳払いをする。



「…そ、そういえば、お礼を伝えられていなかったと思うの 」


「 お礼、でございますか?」


「ええ。陛下の下を去って私のところに 来てくれたでしょう?近衛のままいれば、もっと出世できたかもしれなかったのにーーありがとう」



はにかみながら伝えれば、アレスタントは僅かに瞠目して、それから静かに微笑んだ。


アレスタントはラーレシアの護衛として嫁ぎ先のエーレンファストに着いていきたいと、国王その人に直訴し、ラーレシアのもとまで着いてきた。


王の直属という身分を捨て、ラーレシアのもとについてきてくれたのだ。


正直に言えば、気の知れた人というものはアレスタントとアンリエッタしかいなかった。だからこそ、アレスタントが着いてきてくれるのは非常に嬉しかったのだ。



「ーー舞踏会の日に、お約束したことを覚えていらっしゃいますか? 」



徐に、アレスタントが口を開く。



「 …舞踏会の日?」


「 はい。私はその時にお伝えしました。私は何時でも貴女の味方です、と。例え天を敵に回そうとも、貴女の盾となり剣となる。」



その日が鮮明に思い出される。ラーレシアを星の女神に例えて、儚げな笑みを浮かべたアレスタントを。



「 リュディーリア様にこの身を拾っていただいたその日から、姫にこの忠誠を誓った日から、私はすでに貴女の物です。」


「アレス… 」


「ただの物乞いだった私を、リュディーリア様は拾ってくださった。優しく可愛らしい貴女の傍で育てていただいた。この身を捧げることに、何の躊躇がありましょうか。返しきれないほどのご恩をいただきました。姫様にも、リュディーリア様にも。 」



記憶が鮮明になる頃には、すでにアレスタントが傍にいた。ラーレシアが歳を重ねるにつれて、だんだんとその距離は遠くなっていたけれど。お互いに家族のような情を感じていた。



「 わたくしも、わたくしだって、アレスタントの剣となり、盾となるわ」



そう言いながら、思わず眉を寄せてしまった。


ミュリエルの死に対して、何もできなかった自分が、剣となり盾となる?

ただ口だけの自己満ではないのか。


実際に近衛の地位を捨てたアレスタントとは違う。ただ口だけの。



「 ……違う、ごめんなさい、違うわ」


「姫? 」


「 わたくしは逃げてばかりよ。自分の身が危うくなってしまったら、お前のことだって捨てて逃げてしまうかもしれない…最低な女だから。ミュリエルのことだってーー見て見ぬ振りをした」



アレスタントが眉を顰めたので、その視線から逃れるように窓に目を向けた。微笑みを浮かべようとして、それは歪んで壊れてしまったことに気づく。



「 …貴方の強さが羨ましい」



くちびるが震えた。自分がこんなことを言う資格なんてないのに。



「 誰かのために、立ち向かえる強さが」


「ーー姫 」



いつの間にか俯いていた。はらりと零れ落ちた自身の黒髪のせいでそれに気がつく。



「 姫」


「ごめんなさい、アレス…こんな雰囲気にするつもりじゃなかったのにーー 」


「姫 」

 


身を乗り出したアレスタントが、ラーレシアの頬に指を添えた。手袋越しのぬくもりが、頬に伝わる。

 


「…アレス…? 」


「 貴女は約束してくださいました。絶対に沈まないと。星々が流れ落ちていっても、貴女だけはずっと夜空で輝く星であると。そう、約束してくださった」


「 ……」



それは舞踏会での話を言っているのだろうか。困惑に眉を下げて、アレスタントを見上げた。



「私は、貴方がいてくださるだけで幸せなのです。どうして自分の身すら危うい王宮内で、他者の命を慮れるでしょうか。逃げてばかりなど、そんなことは絶対にありません。第七王女殿下が亡くなったとき、貴女は花を手向けた。それは貴女にとって望ましいことではなかったというのに。ーーー見て見ぬ振り?あり得ない。貴女は誰よりも優しい方だ。」



そう、なのだろうか。


ラーレシアは眉を下げた。優しいーー?

それならばどうして、ミュリエルを救えなかったのだろうか。


アレスタントの言葉を、素直に受け取れない自分がいる。ラーレシアが誰よりも優しくないことなんて、自分自身がよく知っているから。アレスタントも幻滅してしまうだろうか。ミュリエルの断罪の時に言葉を発せなかった自分の、醜い本心を聞いたら。

保身ばかりを考える、ラーレシアの言葉を聞いたら。



「 ……」



ラーレシアが押し黙ってしまったからか、アレスタントはそれ以上は追求せず、困ったような顔をして窓の外へと視線を揺らした。



「 検問所に着きましたね。私が対応しますので、お二人はなかでお待ちください。」



アレスタントが馬車を降りていく。


暗い内心に沈みそうになる。

何度も繰り返す後悔の念が蘇っては消えていく。どうして、どうしてと、ただそれだけを。



「 ……!」



こてん、と肩筋に温もりが乗った。

アンリエッタだった。無意識のうちに枕を求めたのか、アンリエッタがラーレシアの肩に頭を預けている。柔らかい栗毛色の髪が、ラーレシアの頬をくすぐる。


アンリエッタはラーレシアの乳母だった。十七のときにリュディーリアに召し上げられて、その後は侍女としてずっと仕えてくれている。


母親のような存在で、姉のように気安い存在でもあった。


今回の婚礼に際して、たくさんの準備をしてくれたのだろうと思う。


鬱々とした感情が薄れていく。


すやすやと安らかな寝息に、ラーレシアは目を細める。整った顔立ちに指先を伸ばすと、労わるようにそっと触れる。



「 お疲れ様、アンリエッタ。頑張ってくれてありがとう」



瞳を閉じる。


このときだけは、すべてを忘れていたかった。アンリエッタの隣で身体の力を抜く。


夢に誘われる。


視界が優しく溶けていく。




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