1.南へ
トラックへの進出命令を受けた伊23は昭和17年4月9日に呉を出航した。人目を憚るように出航した前回とは異なり、潜望鏡に結びつけた軍艦旗と大漁旗を靡かせ、鎮守府職員や在泊艦の帽振れに見送られながらの晴れやかで盛大な出航だった。
「前進原速。航海、あとは任せる」
フネが軍港区域を出て広島湾に入ったのを機に武田は操艦指揮を原に委ねた。
春の盛りの広島湾は、大型艦船だけでなく漁船も多い。そのため見張員から他船の動向についてひっきりなしに報告があり、原は逐一これに対処している。原の指揮に対する発令所からの応答も随分機敏になった。
1ヶ月前の伊予灘での潜航試験以来、しごきにしごいたおかげで新任乗組員の動きは見違えるようになった。原と発令所とのやり取りを見ながら武田は目を細めた。
「しごき」と言っても大型艦で行われているような肉体的な制裁を行ったのではない。取るべき行動を徹底的に体に覚え込ませることで、頭で考える前に体が動くようにしたのだ。
文字通り徹底的に。
「両舷停止、潜航急げ」
見張員たちは猛烈な勢いでハッチを目指した。しかし艦内に飛び込む段になってもたつく者がいたので、最後の見張員がハッチを閉めたのは号令から30秒後だった。
「ベント開け」
小幡の号令でベント弁が開かれてフネは潜航を開始した。武田は潜望鏡に取り付いて潜没状況を確認する。前甲板が水に覆われていき、やがて艦橋が海中に潜り込んだ。
「全没まで1分34秒かかりました。話になりません」
小幡が憮然とした表情で言った。潜航まで1分半もかかるようではいざという時にフネが危険に陥りかねない。特に飛行機が相手の場合は本当に1秒を争うことになる。厳しいようだがフネの安全と乗組員の命が懸かっている以上、甘さは許されない。
「確かにな。なんとかして1分を切るようにしなければな」
「訓練次第で短縮できると思います。特に艦内への突入には時間短縮の余地があります。よろしければ前のフネでやっていた訓練を試したいのですが」
帰航した伊23が桟橋に繋留されると早速訓練が始まった。
「始め」の号令と共に見張員たちは艦内に突入、ラッタルを滑り降りると発令所から前部区画に走って移動、ラッタルを駆け上がって上甲板、さらに艦橋に上がって息を整えたらまた突入。これを延々と繰り返す。
「始め」からハッチ閉鎖までを10秒以内で出来るようになるまで来る日も来る日もこれを繰り返させたのだ。
他の部署でも同様の厳しい訓練が行われ、訓練を終えると乗組員たちは足腰が立たなくなる有様だった。
最初の頃はいくらか不満の声があったようだったが、日毎に訓練の成果を実感できるようになると不満の声は消え、訓練に身が入るようになった。その結果、小幡も驚くほど早く目標の10秒を達成し、最速記録は8秒だった。
他の部署でも大いに訓練の成果が現れ、さらに厳しい訓練をやり抜いたことで新任乗組員にも自信がつき、乗組員同士の連帯感も生まれて艦内は活気に満ちた雰囲気になった。
司令塔から小幡が上がってきた。
まだ気負いがあって態度に硬さがあるが、機敏なのは見た目だけではないようだ。それに良く気も回るし、肩の力がうまく抜けたらいい先任になるだろう。
そこまで考えた時、武田は自分のことを思い返して思わず苦笑した。
「次の任務は交通破壊戦だそうですが」
小幡の声にはどこか残念そうな響きがある。
「商船狩りは嫌かい」
「嫌ではありませんが」
小幡は口ごもった。
気持ちはわかる。まして伊23は初陣で空母を沈めた武勲艦だ。先任将校として着任するに当たって周りから散々発破をかけられたことは間違いないだろう。
だがあれは運に恵まれただけのまぐれのようなもの。大物を見つける度に襲撃をかけていたら、命がいくつあっても足りるものではない。所詮こっちはドン亀。軍艦とやりあうのは難しいのだ。
「勝ち易きに勝つのは戦の鉄則だよ」
「艦長はそれでよろしいのですか」
「勿論」
武田は即答した。
「据え物斬りは嫌だとか雑魚は嫌だとかそんな贅沢は言っていられないよ。この戦に勝つためにはとにかく1隻でも多くのアメリカ印のフネを沈めること、これしかないんだ」
相手の国力は控え目に言ってもこちらの10倍だと聞いている。だからこちらのフネが1隻沈められる間に向こうのフネを10隻以上沈めて辛うじて互角の戦いになるのではないか、武田はそう考えていた。
「勿論、大物がのこのこ目の前に来たら食うけどね」
フネは連合艦隊の主力が集まる柱島泊地を遠くに望みながら伊予灘を目指した。霞がかった空のため、大和を始め主力戦艦群は彼方にうっすらと見えるだけで個々のフネの判別はできない。
その代わりに行き交うフネが盛んに武運を祈る信号を送ってくる。
これらに応答しているうちにフネは伊予灘に差し掛かった。あとは佐多岬を回り込めば豊後水道で、これを抜ければ太平洋だ。
「手空き総員は上甲板へ。暫く帰れないからお国の景色をよく見ておけ」




