第三章 照りつける陽射し
初めて見た、同じくらいの年の女の子。浮かれて伸ばした指は、怯えたような視線に拒絶された。周りの人間に耳打ちされて、彼女は逃げるようにその場を去った。
自分と目を合わせないように頭を垂れる人々。伏せた顔の下から、ちらちらとこちらを窺う目線。震える声に、指先。逆に、疎むように、あからさまにこちらを避ける者。
違う。私は、どうして。仲良くしたいだけなのに。危害なんて加えない。言葉は声にならなくて、気付けば彼女はひとりぼっちだった。
否。気付く前も、気付いた後も、ずっとずっと、彼女は独りだった。
* * *
頭の下に、妙に硬くてごつごつした感触がある。そっと瞼を持ち上げると、木漏れ日と言うには強すぎる日射しが、アサギの目を灼いた。
「う……」
「気が付いた」
単調な声と共に、眩しさが遮られる。反射的に瞑ってしまった目を再び開くと、こちらを覗き込むスイの顔が映った。
「お前、ちゃんと食べているの」
状況を把握した瞬間、うっかりそう呟いていた。膝枕というのは多分、もっとこう……と、何かが違うという思いが抜けずにぶつぶつと呟く。圧倒的に何かが足りない。具体的にいうと、柔らかさが。……まあ、してもらったことなんて、ないのだけれど。
「それは、こっちの台詞」
いつもより僅かに低い声に、下らないことを考えていたアサギは身を縮めた。スイの仏頂面と平坦声は、感情を全く表さないわけではない。慣れればむしろ分かりやすい方で、現に最近では、大分読み取れるようになってきた。
これは――怒っている。
「急に倒れるから、驚いた」
「水の妖は、暑さに弱いのよ」
照りつける日差しは熱いが、木陰にいる今は耐えられない程ではない。しかし、冷たい水が恋しい。起き上がろうとすると、額に当てられた手のひらに押し戻された。
「まだ、駄目」
「だって……枕、硬いんだもの」
ついでに言うと低い。これでは、地面に寝転がっているのと大して変わらない。
「文句言わない」
ピシャリと言い切られてしまうと、それ以上反論する気力も湧かない。アサギは大人しくスイの手にに頬を擦り寄せて目を閉じた。
「スイの手、冷たくて気持ちが良いわ」
「アサギが熱すぎるの」
額に置かれた手を引き寄せる。火照った頬に、川の水のようにひやりとしたスイの手が心地良い。
「……優しいわよね、スイは」
「いきなり、何」
「倒れた私を、木陰まで運んでくれたの、スイでしょう」
先程までのことを、思い出す。
確か、いつものように川辺に腰を下ろしてスイと話していて。頭をじりじりと焦がす太陽の暑さと、水面に照り返す光の眩しさに、場所を移動しようかと立ち上がって。
その瞬間、身体から力が抜けたのだ。
あの時の、焦ったようなスイの顔を思い出して、アサギはふふ、と笑みを漏らす。
頬に寄せていた手のひらが離れ、小さな手が、アサギの髪がぐしゃぐしゃとかき回した。
「何するの、スイ」
「アサギ、重かった」
「ありがとうね」
その細腕でどうやって運んだの、と尋ねたかったが、やめておく。
薄く目を開けると、スイはぷい、とそっぽを向く。いつもの仏頂面は更に不機嫌そうに歪んでいたけれど、髪から覗く耳が僅かに赤いのを、アサギは見逃さなかった。
「ねえ、スイ。私とお前、何処が違うのかしらね」
不意に、そんな言葉が、唇から零れた。
唐突な台詞に、スイが戸惑ったように目を瞬かせる。アサギは手を伸ばして、スイの頬に触れた。適度に日に焼けた頬は、大して大きくもないアサギの手のひらですっぽり覆えてしまう。柔らかな肌なぞるようにするりと撫で、ふわりとした髪に触れる。
スイは動かないまま、じっとアサギを見下ろしていた。大きな瞳は水鏡のように透明で、横たわるアサギの顔を映している。
「こうして目を合わせ、言葉を交わせる。触れられるし、同じように温か……くはないわね、お前はあまり」
夏とは思えぬほど体温の低い手をきゅっと握り締めて、アサギはクスリと笑う。子供が体温は高い、というのは嘘だったのだろうか。本当に、子供らしくない子だ。低い体温も、無表情も、こうして、唐突な話を遮らずに聞いてくれるところも。
「なのに、どうして人は、つまらない差異や利害を理由に、相手を異質と決め付け、拒もうとするのかしらね」
胸にチリ、と痛みが過る。
「お前だけなのよ。私と、対等に接してくれたのは」
「わたし、は」
言葉を途切れさせたスイが、眉根を寄せて俯く。
困らせてしまったのかと不安になって、顔を覆うように垂れた髪を除けようと、手を伸ばした時。
不意に、風もないのに柳の枝が暴れ、煽られたスイの髪が、アサギの手を拒否するようにその表情を隠した。
驚いて、思わず腕を引っ込める。ばたばたと靡いた髪が緑に透け、きらきらとした陽光が、川面に舞う光の粒のように小さな顔で踊る。その様子に、思わず目を奪われる。血の気のない唇が、何かを呟くように小さく動いた。
気付いた時には、幼い顔はいつものような無表情を取り戻していた。感情を映さない瞳を見上げて、アサギはぱちぱちと瞬いた。何も変わらない、いつものスイだ
「今、一瞬スイが人間じゃないみたいに見えたわ……」
「そう」
変なことを言ったかもしれない。急に恥ずかしくなって、アサギは勢いよく跳ね起きた。
「なーんてね! よし、復活よ!」
わざとらしく明るい声を上げる。何か言いたげなスイの表情を無視して袴の裾を帯に押し込み、素足を川に浸す。
「……アサギ」
「スイも来なさいよ。涼しいわよ」
心配そうに近付いてくるスイは、アサギの心身どちらを心配しているのだろうか。
安心させるように語調を軽くして、アサギはぱしゃり、と水を弾く。腕で防ぎきれなかった飛沫が顔にかかり、スイは僅かに眉を顰めた。すぐさま、お返しと言わんばかりに手のひらいっぱいに水を掬い、アサギに跳ねかける。
「きゃっ」
濡れ羽色の髪から、雫が滴る。目をぱちくりとさせていたアサギが、楽しげにスイを睨みつけた。
「やったわね、この!」
ぱしゃぱしゃと、水の掛け合いの応酬が続く。川の中程まで入ってぱしゃぱしゃと水を跳ね上げるアサギに、身軽に走り回るスイが応戦する。
気付いた頃には、二人ともすっかりびしょ濡れになっていた。
「もう、散々だわ。流石にやりすぎよ」
文句を言いつつ咳き込むアサギを、スイが息を切らしながらじとりと横目で見遣る。
「自分から始めたくせに」
「でも、限度というものが、……?!」
勢い良く向き直ったアサギが、絞っていた単衣の袖を取り落とした。
「何」
きょとんと首を傾げるスイに、アサギは身を乗り出す。気圧されるように、スイが後退る。
「な、なに」
「初めて、笑ったわね」
「……、わたし、笑ってた?」
「笑っていたわ」
僅かにだが、口角が上がっていた。
しかし、戸惑ったように口元に触れるその顔は、既にいつものような無表情に戻っている。
アサギはあーあ、と大げさに溜息を吐いて、指先で水を弾いた。
「スイは折角可愛いのだから、もっと笑いなさいな。いつも仏頂面なんて、勿体無いわ」
「別に、困ったことなんてない」
「本当、変な子ね。よくそう言われない?」
「――言われない」
「本当に?」
「本当。変な子とも、もったいないとも、可愛いとも、言われたことはない。――言ってくれる人なんて、いない」
アサギは息を呑んだ。澄んでいるのに見透かせない、その瞳の奥に、よく知っている色が見える。
前に、スイがアサギを寂しそうだと言ったことがある。隠していたはずのそれを何故見抜かれたのか、ようやく分かった。
スイも、寂しかったからだ。
「だからなのね」
お前が、感情表現が下手な理由。
零れ落ちた呟きに、スイが問いかけるような目を向ける。
「受け止めてくれる人がいないと、やがて一人で喚いているのが馬鹿らしく思えてくる。そして、感情を内に閉じ込めてしまうのではないかしら?」
「どうして、」
「分かるわ」
膝を抱えていたスイの手が地面にぱたりと落ちる。強く握られたその傍に、アサギはそっと手をついた。
「けれどね。これからは、そんなことを気にする必要は無いのよ。
笑いたいときには、笑えばいい。泣きたいときは、泣いていいのよ。だって、私がいるんですもの」
「……何で、そんなこと言うの」
「友達を気に掛けることに、理由なんて必要なの?」
「とも、だち……?」
まるで知らない言葉を聞いたかのように、スイが鸚鵡返しに言う。アサギは弾かれたように俯いた。
「! え、違ったかしら? こんな風に話してくれる相手はお前が初めてだったから……つい。友達って、こういうものなのかな、と思ってしまって。気に障ったならごめんなさい!」
「……ううん、びっくりしただけ。わたしも、アサギが初めてだから」
「……そう」
アサギはそっと腕を動かして、自分の手のひらをスイのそれに重ねた。ピクリ、と細い肩が強張るが、振り解かれはしない。
「友達……」
スイがもう一度、ゆっくりと呟く。
流れる風に、背後の柳が優しく葉擦れの音を立てる。水面がさざめき、陽光を反射してきらきらと輝く。
沈黙の長さに心配を覚え始めた頃、スイがぱっと顔を上げた。
「嬉しい」
その笑顔は、アサギの心に強く焼きついた。




