第二章 淡色の花びら
ふわりふわり、ふわふわ。
ふわりふわり、ふわふわ。
まだ形になる前の、自我を持たない、存在になりきらない何か。
声に呼ばれて、彼女は初めて「彼女」になった。
そんないつか、遠くて近いどこかの、夢。
* * *
その気配は、音もなく降ってきた。
振り返った先に予想に違わぬ姿を見つけ、少女は切れ長の瞳に困惑の色を浮かべた。
川べりに立つ、背の高い柳の木。今まさにそこから飛び降りてきたらしい子供が、髪についていた葉をぱたぱたと払い落としている。
「……どうして」
「言ったはず。また来る、と」
どうして来たの、と。言葉にならない問いに淡々と返して、子供は少女からきっかり一歩分離れて川べりに腰を下ろした。
少女は動かない。
否、動けなかった。
「答えになっていないわ」
平静を装うも、絞り出した声を揺らす動揺までは隠しきれていない。重ねた袿の陰で握られた拳に、子供は僅かに首を傾ける。
「言ったことは、守るもの」
「そうじゃないわ。どうしてそう言ったのか、って訊いてるのよ」
苛立ちに、少女の語調が僅かに荒くなる。子供は意に介さぬ様子で水面を見つめたまま、ぱちりと瞬いた。
「あなたが、寂しそうだったから」
「え……」
思いもよらない答えに、少女が押し黙る。
さらさらと流れる水音と、遠くで鳴く鶯の声が、やけに大きく響く。
「ねえ」
ポツリと落とされた声に、子供はようやく目線を上げる。
「人の子。お前、名は何というの」
再び、沈黙が流れた。
子供が目を逸らす。その動作に込められているのは戸惑いか、それとも拒絶だろうか。何故か苛立って、少女は子供の頬に手を当てて自分の方を向かせた。
「何。妖に名を取られることを恐れているの?」
言いながらも、果たしてそうだろうか、と少女は首を傾げる。促されるまま、真っ直ぐ合わせた瞳に宿るものは、怯えや恐れとはどこか異なっているように、感じたから。
「いいわ。答えてくれないなら、勝手に呼ぶわよ」
尖らせた唇を袿の袖で隠して、少女はふい、と横を向く。ちらちらと子供の様子を窺うと、きょとんと首を傾げられた。溜息をついて、長い髪を払う。
「ねえ、スイ」
「……本当に勝手に呼んだ」
よもや実行されるとは予想していなかったのだろう。相変わらずの無表情の中に、呆気に取られた風な色が微かに混ざる。
「そう言ったでしょう? お前はスイ。水辺で出逢ったから、スイよ。今更別の名を言ったって、呼んであげないんだから」
勝ち誇った様子で微笑む少女に、子供は俯いて顔を背けた。ふわりと垂れた髪が顔を隠し、ただでさえ表現に乏しい感情が更に読み難くなる。
川辺に立つ柳の木が、柔らかく枝を揺らす。
「スイ? 嫌だったかしら?」
「……嫌、じゃない」
髪を払い除けて、子供が顔を上げる。ひた、と合わせられた瞳が、少女を見上げる。
「それでいい。……いいえ、」
澄んだ大きな瞳に、少女の姿が映っている。時間が止まるような錯覚に、捕らわれた。
「それが、いい」
「――そう」
一拍置いてから返した声は落ち着いていて、既に我関せずといった様子だ。しかし、退屈そうに長い髪を梳く手はどこかそわそわして、隠し切れない口元が小さく笑みを零した。
「あなたの名は、何」
いつも通りの声で問い返す子供に、少女はふん、と鼻を鳴らして頬杖をついた。
「お前が名乗らなかったのだもの。私だって、名乗る筋合いはないわ。好きに呼べば良いのよ」
「では、アサギ」
「早いわね!」
あまりの即決に、と手の甲から顎が滑り落ちる。子供が見ているのは、少女の纏う浅葱色の袿だ。発想が分かり易い。
「気に入らなかった?」
「別に、そういう訳ではないわ」
問う声は淡白だが、あどけない無表情には僅かに緊張の色が滲んでいる。少女は苦笑しつつ言葉を重ねた。
「良いわよ」
端的な肯定に、細い肩から力が抜ける。
子供が『スイ』の名を受け入れた以上、少女が拒否する道理はない。それに、拒否する気もなかった。
『アサギ』と、口の中で繰り返し、少女は川面に目を移す。力強く流れる、水の色。全ての生命の、源たる色。
自然と、口角が上がるのを感じた。
** *
「逢瀬のようね」
そんな戯れを口にしたのは、何度目の時だっただろうか。
今日も柳の樹上からスイが飛び降りてきたスイに、揶揄うようにそんな言葉を投げかける。
二人が会うのは、いつの間にか日課のようになっていた。
否、『日課』というのとは、少し違うかもしれない。アサギがこの場所に来るのは天気の良い時だけだし、時間も気紛れだ。
そして、彼女が来て少し経った後に、見計らったかのようにスイが降りて来る。何故自分が来るのが分かるのか、と以前問うてみたら、勘だ、と答えていた。最早追及する気にもならない。
「『逢瀬』、って何」
「二人っきりで逢うことよ」
スイの疑問に、アサギは手元の菫の花びらを撫でながら答える。スイは不思議そうに、眉間に縦皺を刻んだ。
「じゃあ、そのままだ」
「そうね。確かに、そのままだわ」
アサギは思わず吹き出した。ますます訳が分からない、といった風なスイを見ないように顔を背け、袿の袖で口元を隠しながらくつくつと笑う。やがて軽く咳き込んでから、誤魔化すように咳払いをした。
「それより、お前ね。いい加減そこから来るの、やめたら」
気付けばいつもスイがいる柳の木は折れそうなほど細く、見ていて不安になる。
「何で」
「何で、って……危ないじゃないの」
「? 危なくない」
着物の前をぱんぱん、とはたくスイは、怪我などないと主張しているかのようだ。
「お前が身軽なのはよく分かったわ。けれど、何故わざわざその木を経由して来るのよ。村があるのは、あちらの方でしょう?」
言いながら、下流の方角を手のひらで示す。スイが降りてきた柳の木があるのはその反対、上流の側だ。敢えて回り込む意図が分からない。
「それに、いきなり降って来られると、驚くわ」
「……なら、成功」
「え?」
「あ」
それが目的だったらしい。
焦ったようにわたわたと手を振っても、もう遅い。怒ろうとしたものの気が抜けて、アサギは肩を落とした。こんな時でも表情が変わらないのが、逆に可笑しい。
「……この、天邪鬼」
「あまのじゃく?」
「人の心に付け込んで惑わす、悪戯好きの小鬼のことよ」
「会ったことがあるの?」
「今、目の前にいるわ」
アサギはふふ、と微笑む。スイは、昨日と同じように、アサギから一歩分の距離を空けて座り込みながら、眉根に皺を寄せた。
「……鬼になった覚えはない」
「冗談よ」
草地に手をつき、仰向いて空を見上げる。花の香を孕んだ風が、髪の間を吹き抜けていく。
「人を外れているのは、私の方だわ」
居心地が悪そうに身じろいだスイの方を見ないように、ごろりと寝転がる。長い黒髪が、草の上にばさりと広がる。
周囲に立ち並ぶ木々は瑞々しい若葉に彩られ、背景に聳える山々には溶け残った雪が白くかかる。八分咲きの桜から花弁がはらりと舞い降りて、水面をくるくると回る。
「綺麗ね」
同じように見入っていたスイの方を見上げる。スイはちらりとアサギを窺ってから、こくんと頷いて、同じように柳を見上げた。
「この風景が、良く見えるから。あの木の上は、気に入ってる」
「そうだったのね。……って、そうならそれを先に言いなさいよ」
その理由を口にしていたなら、焦る必要もなかったのに。思わず突っ込みを入れると、スイは今更気付いたのかぽかりと口を開けると、気まずげに顔を背けた。
「あ、」
ふわりと揺れた髪に、色を添える薄紅を見つけて、アサギは小さく声を上げた。
「スイ。少し動かないでいてくれるかしら」
身体を起こしつつ何気なく手を伸ばすと、スイの肩がピクリと跳ねた。ぱっと向き直り、アサギの手が近付くのと同じ速度で、座ったまま後退る。
アサギは眉を顰めた。
「逃げる必要はないわ。髪に花びらがついていたから、取ろうとしただけよ」
当惑の滲んだ声に、スイは大きく瞬いてから、慌てたように自らの頭をぱたぱたと払う。しかし、花弁のついているのは逆側だ。
アサギは奮闘するスイから目を逸らして睫毛を伏せ、スイとの間に空いた距離を見つめた。
「やはり、妖に触れられるのは怖いかしら」
「……怖い」
「そうよね」
目一杯に手を伸ばしても、触れられない程度の距離。それが、スイから与えられた、彼女との間の隔たりだ。
分かってはいたものの、いざ目に見える形で示されると切ないものだ、とアサギは思う。
「驕りだったわね。ごめんなさい」
受け入れてもらえる、なんて。
自嘲するように、呟く。
「違う」
急に、静かな声と共に影が落ちる。アサギは首を巡らせて右手を見上げた。こちらを見下ろすスイの顔が、思ったより近くにあってギョッとする。
「あなたのことが怖かったわけじゃない。ただ、」
言いながら腰を下ろしたのは、アサギから半歩程度しか離れていない位置。
手を伸ばしたらどころか、静止していても衣の裾が今にも当たりそうだ。
「触れたら、消えてしまいそうな気がしたから」
感情の読み取り辛い瞳に一瞬、言い表しがたい色が過って。起伏の少ない声が、染み渡る。
次の言葉を繋ぐまでに、一拍以上の間を要した。
「――そう簡単に消えはしないわよ、私は」
「そうかもしれない。でも、」
「消えないわよ」
スイの言葉を遮るように、半ば強引に手を伸ばす。
髪に触れる一瞬、スイが半ば絶望したような顔で目を閉じた。
「ほら、取れたわ」
「――、?!」
ぱっと見開いたスイの目が、アサギの指に摘ままれた花弁を捉え、信じられないとでもいうように自分とアサギを何度も見比べる。
「ほら、消えなかったでしょう」
なおも確かめるように自らの身体にぱたぱたと触れるスイに微笑みかける。
やっと落ち着いたのだろうか。スイが目を上げて、泣きそうな顔でアサギを見る。
「……うん」
もう、会えなくなるかと思った、と。
落とされた声に少しの罪悪感を覚えて、アサギはスイを抱きしめる。
初めて触れた彼女の身体は華奢で、見ていた以上に小さかった。




