3.#尾田桜花③「泣いても、良いんだぞ」
勇は、桜花を気に入っている。勇は、小石にだけメールを送った。勇は、桜花に届いた手紙を読んで、我を失って桜花に襲い掛かった――そこから俺が、兄弟という言葉を思いつくのには、十分近くを要した。
勇には、姉が居るのではないか。勇は、桜花を姉に重ねているのではないか。また勇は、自分自身を、兄を持つ小石に重ねたのではないか。どれも荒々しい、荒唐無稽と呼んで差し支えないほどに飛躍した想像でしかなかったけど、どれも恐ろしいほどにぴったり符合した。それから、忘れていた事実――勇もまた、家族からの手紙を受け取っていたという事実も、この想像を支援した。勇は姉という存在に対して、何らかのコンプレックスを抱いていて、それが桜花の受け取った手紙によって刺激され、爆発した――。
「勇には、姉が居る。違うか?」
「せーいかい。……清介くん、凄いね。私、ちょっとびっくりしちゃったよ」
桜花は俺の答えを聞いて、ほうっ、と息を吐いた。
「そう、いさちゃん……勇くんには、お姉ちゃんが居たらしいの。私と勇くん、それなりの時間、一緒に行動してたからね。私は、勇くんのお姉ちゃんにそっくりだったから、勇くんにとっては接しやすい相手だった。私にも弟が居るんだ。だから、尚更、お姉ちゃんぽかったのかもね」
桜花はあはは、と笑ったが、その声は元気がなくて、ただの音にしか聞こえなかった。
「勇くんにとって、お姉ちゃんという存在は、爆弾なんだよ。私には、どうしてか分からないけど。私は、勇くんにとって、お姉ちゃんだから……。ねえ、清介くん。勇くんを助けてあげて。お願いだよ」
「……桜花は強いな」
自分が襲われた事への恨みを、仮に感じているのだとしても、全く表に出していない。それに、今回の推理ゲームだけ見ても、桜花はすぐ会って感じるそれの数倍も、頭が良い。総合して、桜花が大人物に思えた。
「あはは。そんな事ないよ」
桜花が笑う。俺はその声に、ほのかに温かみを覚えた。
桜花の部屋を後にした俺は、自分の部屋に戻って、ベッドの上でふう、と一息吐いた。桜花に話を聞きにいって、良かった。そのお陰で得られた情報は、非常に価値があった。
勇が、姉に関する何らかの大きなコンプレックスを抱いている事は分かった。次は、それをどう解決するかである。俺は精神科医でもセラピストでもないから、その悩みを簡単に引き出す事はできないし、ましてや癒す事は難しい。心因的な傷の取り扱いは、素人が簡単に行えるものではない。どうしてもやろうという時には、慎重に、ゆっくりと、進めていく必要がある。……これも、父の受け売りだ。
「どうしたものかな……」
今のところ、勇に対して俺が持っている取っ掛かりは何もなかった。どのようにして、話をし始めれば良いだろうか。そう悩んでいる時、ふと、勉強机の方から視線を感じた。
「……またお前か」
例の、銀髪の少女だった。この忙しい時に――。
「助けて……。助けて……」
「助けてやりたいのは山々だけど、何にも分からないんじゃ助けようがないだろ?」
「……助けて」
銀髪の少女は、また色を失って、姿を消した。後に残るのは、苦々しい罪悪感だけだった。……迷惑な話である。
「いつか、助けてやるからな」
俺はそう、何もなくなった勉強机の前の空間に言って、考えを勇の事に戻した。勇が小石に、弟と妹という部分でシンパシーを抱いているのなら、その小石の助けを借りる必要があるだろう。そうでなければ、俺は勇から、姉の事を聞きだす事さえままならない。
俺は、メールで、小石を部屋へと呼んだ。
小石は、詳しい事を何も書かなくても、文面の深刻さを感じ取って、すぐに俺の部屋に来てくれた。俺は小石に、桜花から聞いた話を全て打ち明けた。
「……お姉さん、ですか」
「ああ、そうだ」
小石は、俺の部屋の勉強椅子に腰掛けて、うつむいている。小石は、勇が桜花を襲ったという事実が相当ショックだったらしく、俺がその辺りの話をしてから、極端に口数が減っていた。
「……兄さんは、その話を私にして、どうするつもりなんですか?」
「小石なら、勇と共通点があるから、そこから話ができるだろ? 勇の悩みを、解決してやりたいんだよ」
小石の問いに、俺が答える。すると、小石ははぁぁ、と溜め息を吐いた。
「私は、兄さんの事で悩んだからって、司くんを襲ったりしません」
「……どういう意味だ?」
「兄さんの言いたい事は分かります。でも、私は、勇くんのした事を、もっと重く受け取るべきだと思います」
うつむいているのは、どうやらショックというだけではないらしい、と俺は直感した。小石は、尚も続ける。
「桜花さんにも、弟さんが居るのなら……桜花さんだって、勇くんと弟さんを、全く重ねずに見ていたという事はないと思います。その勇くんが、突然、自分を襲った。それって、桜花さんの受けた傷も、やっぱり大きいんじゃないでしょうか?」
それは、俺にとって新たな見地だった。勇が桜花に懐いていた、という事実に引っ張られて、桜花の勇に対する感情は、ほぼ考えないままになってしまっていた。あはは、と笑うその表情は、本物だっただろうか。それとも、以前感じた、仮面のそれだっただろうか。分からなかった。意識せずに、その表情をやり過ごしてしまったからだ。
「小石の言う通りだ。駄目だな、俺、どうも視界が狭くて」
「仕方ないですよ。兄さんの突撃兵なのは、今に始まった事じゃないですから」
酷い言われようだが、言い返す言葉が思いつかない。
「でも、勇の事も何とかしてやりたい。どっちを先にすれば良いと思う?」
「勇さんがコンプレックスから完全に解放されるには、桜花さんにやってしまった事を、きちんと整理して謝る必要があると思います。桜花さんは桜花さんで、それを受け入れるのには、傷がそうとう塞がっていないと駄目だから……。どちらを先にしても、上手くいかないんじゃないかなぁ」
「じゃあ、どうするんだよ?」
俺の問いに、小石はくすっ、と笑った。
「二人同時に、何とかするんです」
そこには、俺がこれまでに見た事のない、行動的な小石の姿があった。
再び桜花の部屋を目指しながら、俺は今の事件と直接関わりのない事で、ちょっとした感動を覚えていた。小石の事である。俺に対しては、多少心を許していて、少しは能動的に何かをする事もあったが、ことそれ以外の人間に対しては、小石は極端に消極的だった。隣の席の誰かが教科書を忘れて困っているとき、小石は教科書を見せてやりたい、と思いながら、結局いつまでも言い出せない、というようなタイプだった。それが今、友人二人を助けるために、積極的に行動している。これが、成長という物なのだろうか。俺の知らない間に、小石はずっとパワフルな人間に変わっていたらしい。俺は、妹の一つの成長を、大いに喜んだ。
中央エントランスを抜けて、女子寮に入る。エレベータが都合悪く十五階から更に上昇をしているので、階段で五階まで上っていく。俺は今、一人だった。俺の目的は桜花の心の傷を癒し、塞ぐ事だ。小石は、勇のコンプレックスを聞いて癒す為に、勇の部屋へと向かっている。小石の立案した、二手に分かれて両方を同時に何とかする、という作戦は、俺達の取れる行動の中では最も良いもののように思えた。
トントントン、と扉をノックすると、扉は内側からすぐに開かれた。
「おや、せいちゃん。どうしたの?」
「もうちょっと、話しようかなって」
「さては桜花ちゃんに惚れちゃった?」
桜花はそんな冗談を飛ばしながらも、俺を部屋の中へと招き入れた。俺が、部屋に入って、さっき座っていた勉強机の前の椅子に腰を落とすと、桜花もそれに続いて、さっきと同じようにベッドに座った。
「で、何の話?」
桜花は、そう言って俺の顔をじっと見つめた。訊ねる言葉は言葉のままの意味じゃなくて、勇の所に行かないで再訪問した事に対する、詰問のような意味を持っているようだった。俺はその視線を、そのまま真っ直ぐに見つめ返して、
「弟さんの話、聞かせて貰おうと思って」
と、答えた。
「んー。……弟って言っても、二卵性双生児なんだけどね。その弟とは、ずいぶん前に離れ離れになったきりで――」
桜花は俺の眼差しにあはは、と笑った後、そう言って話を始めた。
「私、元々本家筋の娘だったんだ。お父さんとお母さんが居て、私が居て、弟が居て……自分で言うのもなんだけど、仲の良い家族でさ。だけど、分家の方に人が居ないって事があって、女子にはどうせ本家は継げないっていう事で、私は分家に移ったんだ。それが尾田家。弟と私は特に仲良しだったから、お互い離れたくなかったんだけど、子供だったから何も言い出せなくて、別れて、それっきり。だから、私もあんまり、弟の事は覚えてなかったんだ」
桜花は、そこで一つ、溜め息を吐いた。
「あはは、ごめんね。私も、あんまり整理できてないから」
「ああ。ゆっくりで良いよ」
「うん。――私と弟が別れたのが、小学校に入るちょっと前だったかな。その頃から、もうかなり会ってないから、見た目は変わってると思うんだけどね。尾田家が分家で、本家は、荏田家なんだ。私の弟の名前は、荏田勇……」
強い衝撃に、背中を殴られたような気がした。今、桜花はなんて言った? 桜花の弟の名前が……。
「勇は、本当に桜花の弟……なのか?」
「……多分。いさちゃんは私の事を覚えてないみたいだったし、私の知ってるいさちゃんと、性格もちょっと違うけど、幻覚魔法の荏田家ってなったらね。多分、間違いないと思う」
桜花と勇が、実の姉弟――という事実は、同時に、勇が実姉に関わる記憶を、封印しているか失くしているか、という事にも繋がる。だけど今、気にするべきは、そんな事ではなかった。
「弟に突然襲われた、って事になるんだよな」
仮に勇が何も覚えていないとしても、覚えている桜花は、勇の事を弟として愛し、接していただろう。二人で過ごす時間は、家の問題で離れ離れになって失った姉弟の時間を取り戻す、大切な時間だったに違いない。その弟から襲われる、という心中は、察するに重苦しく、悲しく、寂しい。
「あはは……」
「泣いても、良いんだぞ」
「……駄目だよ、清介くん」
ふっと口を突いた俺の言葉に、桜花はそう頭を振った。
「清介くんは賢くって、良い人だから、だからあえて言うよ。泣くべき時はあるけど、同じように、泣いちゃ駄目な時もあるの。今、私が泣いたら、誰もいさちゃんを救えないんだよ。弟が私を覚えていてくれない、荏田勇が尾田桜花を襲った……それで私が泣いたら、いさちゃんはただの悪者だよ。泣くのは、いさちゃんが私を、荏田桜花を思い出して、お姉ちゃんを傷付けた事を謝ったとき。それまでは、私は泣いちゃ駄目だよ」
桜花の目は、わずかに潤んではいたけれど、それでも強固な意志を多く携えていた。
「……桜花は強いな。俺より、ずっと」
「ふっふっふ。桜花ちゃんを舐めて貰ったら困りますなぁ」
桜花が笑う。……もし俺が、小石に何かを裏切られたと感じた時、こんな風に笑えるだろうか。それはなってみないと分からないだろうけれど、自信は全く持てなかった。
「これ、私に、荏田家から届いたんだ。これを読んで、いさちゃんは混乱しちゃったんじゃないかな」
桜花は、ベッドの枕の下から、一枚の便箋を取り出して、俺に手渡した。便箋の一番上には、桜花へ、という手書きの文字がある。俺はその手紙を、そっと持って、読み始めた。




