先生は魔法が使えるらしい
エレナ先生に勉強を教えてもらうようになって、しばらく経った。
最初のころは、机に向かっているだけでも少し緊張していた。
けれど。
今では、すっかり慣れた。
「では、今日も文字の復習から始めましょう」
「はい」
エレナ先生が紙を机の上に置く。
そこには、この世界で使われている文字が書かれていた。
最初のころは、見慣れない形ばかりで苦労した。
前世の日本語とは、まったく違う。
ひらがなでも、カタカナでも、漢字でもない。
それでも、毎日練習しているうちに、少しずつ読めるようになってきた。
「これは?」
先生が一文字を指差す。
「『ヴェ』です」
「正解です」
次の文字。
「これは?」
「『ルァ』」
「はい、正解です」
さらに次。
「『ティェ』」
「よくできました」
この世界の文字は、基本的には表音文字だ。
文字一つひとつが音を表していて、それらを組み合わせて単語になる。
ただ、前世の日本語とは使われる音の種類がかなり違う。
最初は変わった発音だと思った。
でも、俺自身はもう、この世界の言葉を普通に話している。
だから、文字を覚えるのは意外と簡単だった。
知らない音を一から覚える必要がない。
すでに話せる言葉に、文字を当てはめていけばいいのだ。
「この単語を読んでみてください」
「……『ヴァレ』」
「正解です」
読む。
そして、意味を教えてもらう。
知らない単語は覚える。
それを繰り返していく。
もちろん、まだ全部を読めるわけではない。
でも、少し前まで文字の並んだ紙は、意味の分からない模様にしか見えなかった。
それが今では。
「読めるって、やっぱり便利だな……」
思わず、そんなことを考えてしまう。
◇
文字のほかには、簡単な計算も教えてもらっている。
数を数える。
足し算をする。
引き算をする。
少しずつ難しい問題にも挑戦する。
前世で一度は勉強したことだから、ここは比較的簡単だった。
「レオン様は計算も早いですね」
「ありがとうございます」
そう言われると、少し嬉しい。
前世の知識が役に立っているのを実感できるからだ。
そして、勉強するのは文字や計算だけではない。
「アルバニア王国の王都はどこですか?」
エレナ先生が地図を指差す。
「ここです」
「そうです」
「王宮もここ?」
「はい。王都の中心にあります」
「へえ」
こんなふうに、自分が暮らしている国についても少しずつ教えてもらった。
アルバニア王国という国の名前。
王都がどこにあるのか。
王様がいること。
貴族と平民という身分があること。
自分の家が子爵家であること。
王都にはたくさんの人が暮らしていて、商人や職人など、いろいろな仕事をしていること。
そういった、この世界で生活するために必要な基本的なことだ。
難しい政治の話や、複雑な仕組みの話まではしない。
七歳の俺に必要なのは、まず身近な常識だからだ。
◇
こうして勉強を続けていると、俺の中に一つの考えが浮かんできた。
――この世界、思ったより発達している。
石鹸は普通にある。
紙もある。
本もある。
文字も使われている。
計算もできる。
商売も普通に行われている。
屋敷の設備だって、特別に不便だとは感じない。
「…………」
そういえば、俺は転生した直後、勝手にこの世界は前世よりずっと遅れているものだと思っていた。
異世界なんだから。
現代日本より不便で、知られていないものがたくさんあって、俺が前世の知識を使えば、いくらでも人を驚かせることができる。
そんなふうに、どこかで考えていた。
でも。
「違うよな」
俺は小さく呟いた。
この世界には、この世界の人たちの知識と技術がある。
何百年、何千年。
それだけの時間を、この世界の人たちだって生きてきたはずだ。
その間ずっと、何も考えずに生活してきたわけじゃない。
便利なものがあれば使う。
不便なものがあれば改善する。
必要なら、新しいものを作る。
それは前世の日本人だけじゃない。
「……この世界を馬鹿にするなよ、俺」
思わず苦笑した。
現代知識を持っているからといって、この世界の人たちより自分のほうが賢いわけじゃない。
むしろ、まだ七歳で、この世界のことを何も知らない俺のほうが、よっぽど無知だ。
「現代知識チート」とか言う前に、まずはこの世界に何があるのかを知らないと話にならない。
何ができて、何ができなくて、何が普通で、何が珍しいのか。
それを知らないままでは、前世の知識を持っていても、ただの自己満足だ。
「…………」
そう考えると、勉強を始めたのは正解だったと思う。
文字が読めるようになれば、この世界についてもっと詳しく調べられる。
本を読めるようになれば、俺の知らないことも、もっと分かる。
そうして、この世界のことを十分に知ったあとで。
それでも前世の知識が役に立つものがあれば、そのとき使えばいい。
「うん」
俺は一人で頷いた。
焦る必要はない。
◇
今日の授業も終わりに近づいた。
「では、今日はここまでにしましょう」
「はい」
エレナ先生が教材を片付け始める。
俺も紙をまとめた。
文字。
計算。
国のこと。
家のこと。
この世界で暮らすための基本的な常識。
少しずつだけど、分かることが増えている。
そして、俺にはまだ分からないことが一つある。
魔法だ。
ステータスには、
【スキル】召喚魔法
そう表示されている。
でも、使えない。
使い方も分からない。
魔力というものも、いまだに感じられない。
「……あとは」
俺は小さく呟いた。
「魔法のことが分かればなぁ」
完全に独り言だった。
でも。
「魔法、ですか?」
エレナ先生が反応した。
「え?」
俺は顔を上げる。
先生はこちらを見ていた。
「レオン様、魔法に興味があるのですか?」
「はい」
ここは素直に答える。
ずっと気になっていたことだ。
俺のステータスには、【召喚魔法】と表示されている。
でも、どうやって使うのか分からない。
魔力というものも、いまだに感じられない。
「魔法については、家族からもあまり詳しく聞けなくて……」
そう言うと、エレナ先生は少しだけ目を丸くした。
「そうだったのですか」
「先生は……魔法のこと、知っていますか?」
「ええ」
エレナ先生は頷いた。
「多少は」
そして。
「私、魔法を使えますから」
「…………え?」
思わず聞き返してしまった。
「魔法、使えるんですか?」
「はい」
あまりにも普通に答えるので、逆に驚く。
「エレナ先生が……?」
「そうですよ」
「…………」
ずっと探していた答えが、こんなに近くにあった。
しかも、毎日俺に勉強を教えてくれている先生だった。
「先生……」
「はい?」
「魔法って、どうやって使うんですか?」
思わず身を乗り出す。
エレナ先生は、そんな俺を見て少し笑った。
「ふふ。ずいぶん興味があるみたいですね」
「あります!」
即答だった。
今まで分からなかった魔法。
そのことを知るための手がかりが、ようやく目の前に現れた。




