白い狼が、少しだけ近づいてくれました
しばらくすると。
「レオン!」
カイルとアリシアが戻ってきた。
「持ってきたぞ!」
カイルの手には、水の入った器がある。
アリシアも、食べ物を持ってきていた。
「これなら食べてくれるかな?」
「とりあえず、置いてみよう」
俺たちは狼の子供から少し離れた場所に、水と食べ物を置いた。
「…………」
狼は、じっとこちらを見ている。
まだ警戒しているらしい。
「少し離れよう」
俺たちはゆっくりと後ろへ下がった。
狼はすぐには動かなかった。
俺たちの様子を窺うように、何度も顔を動かしている。
やがて。
一歩。
ゆっくりと、水の器へ近づいた。
さらに一歩。
こちらを警戒しながら、器に顔を近づける。
そして。
ぺちゃ。
「飲んだ!」
カイルが嬉しそうに声を上げた。
「静かに」
アリシアが小声で注意する。
「分かってるって」
カイルも慌てて声を潜めた。
狼は一度こちらを見たものの、逃げることはなかった。
そのまま、少しずつ水を飲み続ける。
ぺちゃ。
ぺちゃ。
やがて、空になった器から顔を上げた。
「よかった……」
アリシアが、ほっとしたように笑う。
水を飲み終えた狼は、今度は食べ物へと近づいた。
まずは匂いを嗅ぐ。
それから、少し迷うように鼻先を動かし――。
ぱくっ。
肉を口にした。
「食べた!」
カイルがまた声を上げる。
「だから、静かにってば」
アリシアが小さく注意した。
「……ああ、悪い」
カイルは口元を押さえた。
俺も思わず笑ってしまった。
「これなら、ひとまず大丈夫そうだな」
もちろん、これだけで安心はできない。
狼がどうしてあそこに倒れていたのかも分からないし、怪我をしている可能性だってある。
それでも、水を飲んで、食べ物を口にしてくれた。
今の俺たちにできることとしては、悪くない一歩だろう。
◇
それから、俺たちは毎日、狼の子供のところへ通うようになった。
水を持っていく。
食べ物を持っていく。
そして、少し離れた場所から見守る。
最初のうちは、俺たちが近くにいるだけで緊張していた。
少し動けば、すぐにこちらを向く。
近づきすぎると、低く唸ることもあった。
もちろん、俺たちも無理に近づこうとはしなかった。
以前、手を伸ばしたら噛まれたからな。
あれは、なかなか痛かった。
……いや、今でも指を見ると思い出すくらいには痛かった。
そんなこともあり、俺たちは狼の警戒心を刺激しないよう、一定の距離を保つことにした。
水と食べ物を置いたら、少し離れる。
狼が飲んだり食べたりしている間は、なるべく騒がない。
それを毎日繰り返した。
すると、少しずつ変化が現れ始めた。
俺たちが近くにいても、水を飲むようになった。
食べ物を置いても、すぐに逃げることはなくなった。
さらに数日が経つ頃には、俺たち三人が座っている前でも、普通に食事をするようになっていた。
「慣れてきたな!」
カイルが嬉しそうに言う。
「最初はあんなに怖がってたのにね」
アリシアも笑顔を浮かべていた。
俺も、食事を続ける狼の子供を見つめる。
「そうだな。でも、まだ触るのは無理そうだけど」
そう言った瞬間。
狼の子供が、こちらを見た。
「…………」
俺も見返す。
以前、手を差し出したら噛まれた。
だから、もう無理に触ろうとは思わない。
こちらが触りたいからといって、相手が触られたいとは限らないのだ。
今は、こうして同じ場所にいられるだけでも十分だろう。
◇
それから、さらに数日が経った。
ある日も、俺たち三人はいつものように狼の子供のそばに座っていた。
カイルが何か話し、アリシアがそれに相槌を打つ。
俺は二人の会話を聞きながら、狼の様子を窺っていた。
すると。
狼が、ゆっくりと立ち上がった。
「ん?」
カイルが顔を上げる。
狼は俺を見る。
次にカイルを見る。
そして、アリシアを見る。
まるで、三人を一人ずつ確かめているようだった。
「…………」
俺たちは、動かずに様子を見守った。
すると狼は、そのままこちらへ向かって歩き始めた。
とことこ。
ゆっくりとした足取りで、まずはカイルの前までやってくる。
「え?」
カイルが驚いた声を漏らした。
狼は気にする様子もなく、カイルの手元に鼻先を近づける。
くんくん。
匂いを嗅いでいるらしい。
「…………」
カイルは緊張した様子で、じっとしていた。
いつもの勢いはどこへやら。
狼が目の前にいると、さすがに大声を出す気にはなれないようだ。
しばらくすると、狼はカイルから離れ、今度はアリシアのところへ向かった。
「わたし?」
アリシアが小さく呟く。
狼はアリシアの手に鼻先を近づけ、同じように匂いを嗅いだ。
アリシアも、驚きながらじっとしている。
そして最後に。
狼は俺のところへやってきた。
「…………」
俺は少しだけ緊張した。
何しろ、最初に手を差し出したとき、真っ先に噛まれたのは俺だ。
今回も噛まれたらどうしよう。
そんな考えが頭をよぎる。
だが、狼は俺の手に鼻先を近づけると、静かに匂いを嗅いだ。
くんくん。
そして。
噛まなかった。
「…………」
俺は思わず、ほっと息を吐いた。
「……大丈夫そうだな」
小さく呟く。
狼は俺の手から顔を離すと、その場に腰を下ろした。
場所は、俺たち三人の真ん中。
「…………」
カイルが、ゆっくりと笑顔になった。
「こいつ、俺たちのことを覚えてくれたんじゃないか?」
「そうかもしれないね」
アリシアも嬉しそうに狼を見つめる。
「みんなのこと、分かってくれたのかな」
「そうだといいな」
俺も自然と笑みがこぼれた。
以前は、俺たちが少し動くだけでも警戒していた。
それが今では、自分から近づいてきて、すぐそばに座っている。
それだけでも、大きな変化だった。
◇
「触ってみてもいいかな?」
アリシアが、そっと尋ねてきた。
狼は逃げていない。
今なら、触れるかもしれない。
そう思う気持ちは、俺にもあった。
けれど。
「まだ、やめておいたほうがいいんじゃない?」
俺はそう答えた。
「そうだな」
カイルも頷く。
「もう少し仲良くなってからだな」
せっかく、ここまで警戒を解いてくれたのだ。
無理に触って、また怖がらせてしまっては意味がない。
俺たちは、手を伸ばさずにそのまま座っていた。
狼も逃げようとはしなかった。
ただ、三人の近くで静かに座っている。
その距離が、少しずつ縮まっていた。
(フェンリルなのかどうかは、まだ分からないけどな)
カイルは、今でもフェンリルだと信じているらしい。
俺も、本当にそうだったら面白いとは思う。
でも、今はそれよりも大切なことがあった。
弱っていた狼が、少しずつ元気になっている。
俺たちを怖がらなくなってきている。
それが、素直に嬉しかった。
「明日も来ような!」
カイルが言った。
「うん!」
アリシアも頷く。
狼の子供は、俺たちの言葉が分かっているのか、いないのか。
ただ。
「きゅぅ……」
小さく鳴いた。
俺たちは顔を見合わせた。
そして、三人そろって笑った。
まだ仲間ではない。
誰かの主人になったわけでもない。
それでも。
少しずつ。
俺たちと白い狼の距離は、近づいていた。




