第五話
修練場でのあの一件以来、クロードの様子が明らかにおかしい。
翌朝。
いつものように裏庭へ向かうと、そこにはすでに彼が待ち構えていた。
それだけならいつもの光景なのだが、彼が私に手渡してきたのは木剣ではなく、真新しい、女性の手に合わせて作られた特注の模擬剣だった。
柄には滑り止めの革が丁寧に巻かれ、重心も完璧に調整されている。
「だ、旦那様。これは……?」
「その木剣を使え。お前の手に合っていない粗悪品を使わせて、怪我でもされたら俺の寝覚めが悪い」
彼が視線を逸らしながらぶっきらぼうにそう言うと、私の心臓がトクンと跳ねた。
(いや、いやいや。ありえないから! あのクロード様に、この私が……)
顔が熱くなってくるのを気合で無理やり抑え込む。
「……ありがとうございます、クロード様」
「勘違いするな。辺境伯夫人たるもの、いざという時に自衛できないようでは困るというだけの話だ。それより、構えろ」
言い訳がましく早口でまくし立てた後、彼はすぐに剣を構えた。私も新しい剣の感触を確かめながら、彼に向き直る。やはり、この剣は信じられないほど使いやすい。
――カーンッ!
激しい打ち合いが始まった。しかし、今日のクロードの剣撃は、いつもよりずっと熱を帯びていた。
昨日、他の騎士たちと手合わせをしたことに対する怒り――いや、苛立ちのようなものが剣に乗って伝わってくる。
「踏み込みが遅い!」
「っ、旦那様の方こそ、大振りすぎますわよ!」
負けじと打ち返しながら、私は彼の瞳を真っ直ぐに見据えた。アメジストの瞳が、至近距離で私を捉えている。その視線の熱さに、思わず息が詰まりそうになる。
政略結婚の冷え切った関係。お飾り妻。
そんな言葉は、二人の間で火花を散らす剣戟の中には存在しなかった。ただ純粋に、互いの力量を認め合い、全力でぶつかり合っている。
(どうして……どうしてあなたは、そんな目で私を見るの?)
嫌っているはずの私を、どうしてそんなに真っ直ぐに見つめるのか。疑問は尽きないが、今は目の前の剣に集中するしかなかった。
◆
その日の夕食後。
私は食後の紅茶を楽しむため、いつものように図書室へと足を運んだ。
本棚の間を歩きながら、次は何を読もうかと物色していると、奥の閲覧席から微かな物音が聞こえてきた。
そちらへ向かうと、高い背もたれの革張りソファに、クロードが深く腰掛けているのが見えた。膝の上に分厚い革表紙の本を開いたまま、彼は静かに寝息を立てている。
「……珍しい。旦那様がこんなところで寝入ってしまうなんて」
領地経営の仕事と、騎士団の訓練。そして毎朝の私との手合わせ。鉄人に見える彼でも、さすがに疲労が溜まっていたのだろう。寝顔を見るのは初めてだった。
起きている時の険しい表情が嘘のように、その寝顔は幼さすら残しており、穏やかだった。十数年前、私に負けて大泣きしていた少年の面影が、そこには確かにあった。
(本当は、あなたはどんな人なの?)
気づけば、私は彼に近づき、そっとその寝顔を覗き込んでいた。長いまつ毛。高い鼻梁。
美しい顔立ちに見惚れていると、不意に、彼の膝からずり落ちそうになっていた本が目に留まる。
「……え?」
その本のタイトルを見て、私は思わず声を漏らしそうになった。
『辺境に咲く一輪の薔薇~不器用な騎士の密かな恋~』
ごつい革表紙でカモフラージュされていたが、中身は間違いなく、王都の令嬢たちの間で流行している、激甘な恋愛小説ではないか。
しかも、よく見ればページの端が何箇所も折られ、「花束を贈るタイミング」や「気の強い令嬢へのアプローチ方法」といった箇所に、几帳面な字でアンダーラインまで引かれている。
(待って。クロード様が、これを……? 裏で恋愛指南書を読み漁っている?)
混乱で頭が真っ白になった。
しかも、この本のヒロインは『剣を嗜む気の強い令嬢』という設定だ。
その時、クロードの長いまつ毛が震え、ゆっくりと瞳が開かれた。寝起きのぼんやりとしたアメジストの瞳が、至近距離にいる私を捉える。
「……エレノア?」
寝起きの掠れた低い声で名を呼ばれ、私の心臓が信じられないほどの速さで高鳴り始めた。
「あ、あの、旦那様が寝ていらしたので、その……風邪を引かれるかと」
慌てて取り繕おうとしたが、クロードの視線が自分の膝の上、つまり私に見られてしまった恋愛小説へと落ちた瞬間。彼の顔から、スッと血の気が引くのが分かった。
「っ……!!」
バタンッ! とものすごい勢いで本を閉じ、クロードは弾かれたように立ち上がった。その顔は、耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染まっている。
「こ、これは違う! アレクの奴が忘れていった本を、たまたま、少し確認しただけで……っ!」
しどろもどろになりながら弁明する姿は、威厳ある辺境伯のそれとは程遠い。私は驚きのあまり、言葉を失って彼を見つめ返していた。
(どうして、そんなに慌てているの? まるで、好きな人に秘密のラブレターを見られた少年みたいに……)
ドクン、ドクンと、自分の脈打つ音がうるさいほどに耳に響く。もしかして。もしかして、あの初夜の宣言は、本当は……。
「……忘れてくれ」
クロードは本を小脇に抱えると、逃げるように足早に図書室から出て行ってしまった。
残された私は、冷え切ったはずの結婚生活の中で、思いもよらない「熱」に触れてしまったことに、ただ一人、呆然と立ち尽くしていた。




