第四話
クロードとの早朝の密かな手合わせが、私の辺境生活の新しい日課となってから、およそ一ヶ月が経過していた。
「――そこだ、右が空いている!」
「くっ……!」
鋭い声と共に、私の木剣が下から弾き上げられる。バランスを崩した私に対し、クロードの切っ先が寸止めで私の喉元にピタリと止まった。
「……私の負けですわ」
「ステップは良くなったが、打ち込みの際の踏み込みが甘い。力で劣る分、体重を乗せることを意識しろ」
「はい、ご指導ありがとうございます」
私は素直に頭を下げ、木剣を下ろした。
最初の頃こそ「お飾り妻になんて態度のデカい男だろう」と反発心もあったが、彼の剣の指導は驚くほど的確で分かりやすい。何より、手合わせの最中だけは、あの『君を愛することはない』と冷酷に言い放った男と同一人物とは思えないほど、彼の瞳は生き生きとしている。
汗を拭う彼に、私は手持ちの水筒を差し出した。
「旦那様、どうぞ」
「……ああ。すまん」
少し気まずそうに視線を逸らしながらも、彼は水筒を受け取り、喉を鳴らして水を飲む。こうして見ると、ただの体格の良い不器用な青年にしか見えない。
朝の剣術稽古の時だけは、私たちは不思議と「政略結婚の冷え切った夫婦」ではなく、「剣を交える気安い同志」のような空気を共有できるようになっていた。
とはいえ、それ以外の時間帯の彼は、相変わらず私を避けるような態度を崩さない。
その日の午後。私は騎士団の修練場に隣接する見晴らし台で、一人でお茶の時間を楽しんでいた。
クロードから渡された戦術書を読み進めていると、下から威勢の良い掛け声が聞こえてくる。覗き込むと、辺境騎士団の若手たちが熱心に打ち込み稽古を行っている最中だった。
(……あ、あの子。重心が少し前のめりになりすぎているわね)
無意識のうちに、私は彼らの動きを分析してしまっていた。毎朝クロードの苛烈な剣撃を間近で見ているせいか、他人の剣の筋までなんとなく分かるようになってきているらしい。
「奥様!」
不意に、下から声が掛かった。見ると、赤毛の若い騎士――たしか、副団長を務めるアレクという青年だ――が、人懐っこい笑顔でこちらに手を振っている。
「こんな所にいらしたのですね! 見学ですか?」
「ええ。皆様の熱気にあてられて、つい見入ってしまいましたわ」
私が微笑み返すと、アレクは嬉しそうに目を輝かせた。
王都の騎士たちは、令嬢が修練場に近づくことさえ嫌がる傾向があったが、この辺境の騎士たちはどうやら違うらしい。実力主義というか、気性がさっぱりしている者が多いのだ。
「奥様は、剣術にご興味がおありなんですか? 王都の貴族の女性は、野蛮だと嫌がる方が多いと聞いていましたが」
「嫌がるどころか……実は私、少しだけ嗜んでおりまして」
つい口が滑ってしまった。しまった、と思った時には遅かった。また《《暴力的な女》》と思われるかと身構えた私だったが、アレクの反応は予想とは全く逆のものだった。
「えっ!? 本当ですか! 奥様が剣を!?」
驚きよりも、純粋な歓喜の声。周囲で稽古をしていた他の騎士たちも、その声に反応してわらわらと集まってきた。
「マジかよ、あの細腕で?」
「いや、でもよく見ると体幹がしっかりしてらっしゃるし……」
「奥様、よろしければ少し型を見せていただけませんか!」
彼らの好奇心に満ちたキラキラとした眼差しに、私はすっかり気圧されてしまった。
王都では絶対にあり得ない光景。令嬢が剣を握るなど、眉をひそめられるのがオチだ。だが、ここは魔物と隣り合わせの辺境。戦う力を持つ者は、性別に関わらず尊敬される気風があるらしい。
「そ、そんな、皆様にお見せするほどの腕前では……」
「おや、奥様は出し惜しみをされるおつもりですか? それとも、我々のような田舎騎士の剣など、見る価値もないと?」
「ち、違います! そういうわけでは……!」
完全に彼らのペースに乗せられてしまった。
気がつけば、私は見晴らし台を降り、修練場の真ん中に立たされていた。手には、アレクから半ば強引に手渡された木剣が握られている。
「……仕方ありませんわね。少しだけですわよ」
観念した私は、ふぅと息を吐き、足幅を開いて構えをとった。相手はアレク。手加減をしてくれているのは分かるが、それでも騎士の打ち込みは鋭い。
だが、毎朝クロードの容赦ない連撃を凌いでいる私にとって、アレクの剣は驚くほど素直で見切りやすかった。
――タァンッ!
アレクの振り下ろした木剣を、私は最小限の動きで受け流し、そのまま手首を返して彼の脇腹に軽く切っ先を当てた。
「っ……!?」
「そこまで。脇が甘いですわよ、副団長殿」
周囲が一瞬の静寂に包まれ、直後、割れんばかりの歓声が沸き起こった。
「すげえ!!」
「今のは見事な受け流しだ! 王都の騎士団直伝の型か!?」
「奥様、俺にも! 俺とも手合わせをお願いします!」
騎士たちが目を輝かせて押し寄せてくる。私は戸惑いながらも、その熱狂的な空気に、いつの間にか心の底から楽しんでしまっていた。
彼らは私を「暴力的な女」とは呼ばない。ただ一人の剣士として、純粋な敬意を持って接してくれている。
こんなに居心地の良い場所が、この世界にあったなんて。
「順番に、順番にですわよ! 怪我をしても知りませんからね!」
私が笑顔で木剣を構え直した、まさにその時だった。
「――そこで何をしている」
地を這うような、恐ろしく冷たい声が修練場に響き渡った。ピタリと、騎士たちの動きが凍りつく。
群衆が割れた先に立っていたのは、顔に濃い影を落としたクロードだった。
「だ、旦那様! これは、その……」
アレクが慌てて弁解しようとするが、クロードは彼を一瞥もせず、真っ直ぐに私の方へと歩み寄ってきた。
そのアメジストの瞳には、かつてないほどの激しい怒り――いや、何かに苛立っているような、得体の知れない感情が渦巻いている。
(怒られる……。やっぱり、令嬢が他の男たちの前で剣を振り回すなんて、辺境伯の妻として恥ずかしいことだったんだわ)
私は血の気を引き、木剣を持つ手をだらりと下げた。朝の稽古は許されても、人前で出しゃばることは許されないのだ。
だが、私の目の前に立ち止まったクロードの口から出た言葉は、予想とは全く違うものだった。
「……なぜ、俺以外の男と剣を交えている」
低く、押し殺すような声。そこには「はしたない」という非難ではなく、まるで大切なおもちゃを他人に触られた子供のような、理不尽なまでの独占欲が滲んでいた。
「え……?」
「お前の剣の相手は、俺だと決まっているだろう」
クロードは私の手から木剣を乱暴に奪い取ると、呆然とするアレクたちに向かって鋭く言い放った。
「貴様ら、遊びは終わりだ。これより俺が全員の稽古をつけてやる。死ぬ気でかかってこい!」
突然の鬼団長の宣言に、若手騎士たちから「ひぃっ」と悲鳴が上がる。私は、ただその場に立ち尽くしていた。
彼以外の男と剣を交えたことに対して、彼がなぜあれほどまでに怒りを見せたのか。
(まさか……嫉妬? いや、彼に限ってそんなはずは……)
『君を愛することはない』
あの冷徹な言葉と、今の彼の行動が、どうしても結びつかない。私の胸の奥で、小さな、けれど確かな疑問の種が芽吹き始めていた。




