第三話
辺境での生活にすっかり馴染んだ頃、私はある密かな日課を始めていた。
夜明け前の、まだ誰も起きていない静寂の時間。
薄暗い廊下を忍び足で抜け、屋敷の裏手にある小さな枯れ庭へと向かう。そこは普段使用人たちも寄り付かない、すっかり放置された空間だった。
冷たい朝露に濡れた草を踏みしめながら、私は木箱の裏に隠しておいた物を取り出す。
厨房から勝手に拝借してきた、太くて真っ直ぐな薪の棒だ。
「……ふぅ」
深く息を吸い込み、冷たい北の空気を肺いっぱいに満たす。
肩幅に足を開き、両手でしっかりと薪を握りしめた。木肌のざらついた感触が、手のひらに心地よい重みとして伝わってくる。十数年のブランクがあっても、体は構えの基本を忘れていなかった。
風を切る鋭い音。
――シュッ!
踏み込みと同時に、薪を真っ直ぐに振り下ろす。
ただの素振りだ。誰かを打ち負かすためでも、強さを誇示するためでもない。早朝の冷たい空気の中で、自分の心と体に向き合うための、静かな儀式のようなもの。
王都の屋敷では、監視の目があってこんな真似は絶対にできなかった。けれど、放置主義のクロードと、広大な敷地を持つこの辺境伯邸なら、誰にも見つからずにひっそりと汗を流すことができる。
「よし、もう十回」
前世のトラウマを振り払うかのように、私は夢中で素振りを繰り返した。
息が上がり、額に薄っすらと汗が滲む。ドレスの下の筋肉が、嬉しそうに悲鳴を上げているのを感じる。やはり、私はお茶会で優雅に微笑むよりも、こうして体を動かしている方がずっと性にあっているのだ。
だが、その日の朝は、いつもと少しだけ違っていた。
「……何をしている」
背後から掛けられた低い声に、私はビクッと肩を震わせた。
手に持っていた薪を取り落としそうになるのを必死に堪え、恐る恐る振り返る。
そこには、乗馬服姿のクロードが立っていた。
どうやら、彼も早朝の冷気を楽しむために散歩へ出ていたらしい。漆黒の髪は朝露に濡れ、アメジストの瞳が、奇妙なものを見るように私と、私が握りしめている薪を交互に見つめている。
(終わった……っ!)
血の気が引く音が聞こえた気がした。
よりにもよって、彼に。私を『暴力的な女』と蔑み、忌み嫌っている彼に、こんな野蛮な真似を見られてしまうなんて。
「あ、あの……これは、その」
言い訳を探そうと必死に頭を回転させるが、令嬢が早朝に薪を振り回している理由など、どう繕っても不自然すぎる。
また罵倒される。軽蔑の眼差しで見下される。
そう覚悟して、私はギュッと目を閉じた。
カラン、と。
彼の手から何かが放り投げられ、私の足元に転がった。
驚いて目を開けると、それは訓練用の立派な木剣だった。
「そんな歪な薪では、手首を痛めるぞ」
クロードの表情は相変わらず険しいままだが、その声には不思議と嘲りは混じっていなかった。
呆然とする私をよそに、彼は自分も木剣を抜き放ち、ゆったりとした動作で構えをとる。
「……旦那様?」
「少し、体がなまっているな。……一手、手合わせするか?」
信じられない言葉だった。
私を嫌悪しているはずの彼が、剣を交えようと誘っている。からかわれているのか、それとも十数年前の借りを返そうという腹積もりなのか。
迷う私に対し、クロードは軽く顎をしゃくって木剣を拾うよう促した。
「……本気ですか?」
「俺が嘘を言っているように見えるか?」
挑発するようなその瞳に射抜かれ、私の中で何かが弾けた。
お淑やかな令嬢の仮面が、音を立ててひび割れていく。
私は足元の木剣を拾い上げ、手の中で重心を確かめた。薪とは比べ物にならない、しっくりと馴染むバランスの良さ。
「怪我をしても、知りませんわよ」
気がつけば、私の口からは好戦的な言葉が飛び出していた。
クロードの口角が、ほんのわずかに持ち上がったような気がした。
「今の俺に勝てるなどと思わぬことだ」
――次の瞬間、私は地面を蹴っていた。
挨拶代わりの鋭い突き。
十数年前のあの日のように、彼の意表を突く一撃。
しかし、大人の男に成長し、辺境で死線をくぐり抜けてきた彼の反応は、子供の頃とは全く違っていた。
――ガァンッ!
乾いた破裂音が朝の空気を切り裂く。
クロードは私の突きを難なく弾き返し、そのまま流れるような動作で反撃に転じてきた。
重い。一撃一撃に込められた力が、私の細腕を容赦なく痺れさせる。
「っ……!」
私は必死にステップを踏み、彼の連撃を躱した。
力では絶対に勝てない。ならば、スピードと小回りで翻弄するしかない。
右へ、左へ。彼の太刀筋を見極め、隙を突いては打ち込み、すぐに離脱する。
カキン! ガキンッ!
木剣が激しく交差する音が、誰もいない庭に響き渡る。
驚くべきことに、私たちの呼吸は恐ろしいほど噛み合っていた。
私が踏み込めば、彼はそれを予想していたかのように受け流す。彼が打ち下ろせば、私はその軌道を本能で察知して躱す。まるで、長年一緒に踊り続けてきたパートナーとのダンスのように。
「……はぁっ、はぁっ」
「どうした、もう息が上がっているぞ」
余裕の表情で迫るクロードに対し、私は負けじと鋭い横薙ぎを放つ。
ギリギリで躱されたものの、彼の前髪を数本切り裂くことに成功した。
「っ、この……!」
気がつけば、私は笑っていた。
王都の茶会で浮かべていた作り笑いではない。腹の底から湧き上がる、純粋な喜びと高揚感。
剣を交えることが、こんなにも楽しいなんて。
十数年間抑え込んできたものが、汗と共にすべて浄化されていくような感覚だった。
やがて、互いに肩で息をするようになり、自然と打ち合いは止まった。
木剣を下ろし、私は荒い息を整えながら彼を見上げる。
クロードもまた、汗を拭いながら私を見つめ返していた。そのアメジストの瞳には、いつもの冷たさはなく、どこか熱を帯びたような光が宿っている。
「やはり……腕は、だいぶ鈍っているな」
「悔しいですがっ、そのよう、ですねっ……ふぅっ」
乱れた息を整えようとするけれど、肩が上がってしまう。
どうにか上気する体を落ち着かせて、私はすまし顔を作った。
「旦那様こそ。随分と逞しくなられたのですね。昔のように、足掛けで転がせるかと思いましたのに」
意地悪く言ってやると、クロードは「ふん」と鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「昔の俺と一緒にするな。……それに、お前のその無駄な動きの多いステップは、実戦では命取りになる。明日から少し矯正してやる」
「えっ?」
「明日も、同じ時間にここへ来い。寝坊はするなよ」
言うだけ言って、彼は私に背を向け、足早に屋敷へと戻っていってしまった。
一人残された私は、手の中の木剣と、彼の広い背中を交互に見つめ、ポカンと口を開ける。
(明日も、ここへ来い? それって、明日も私と剣の稽古をしてくれるっていこと?)
かつて「暴力的な女」と罵り、結婚初夜には「愛することはない」と突き放したはずの男が、まさか私と剣の稽古をするだなんて――。
「……本当に、意味が分からないわ」
呟きながらも、私の口元は自然と緩んでいた。
冷え切っているはずの私たちの結婚生活に、ほんの少しだけ、予想外の風が吹き込んだ朝だった。




