第二話
王都を出発してから、馬車に揺られることおよそ十日。私たちは、王国最北端に位置するヴァレンシュタイン辺境伯領に到着した。
道中、クロードと同じ馬車に乗り合わせることもあったが、互いに交わす言葉は事務的なものばかり。彼は常に書類に目を通すか、窓の外の険しい山脈を無言で見つめているだけ。私も持参した本を読みふけり、息の詰まるような沈黙をやり過ごしていた。
たまに視線が絡むと、彼はまるで火の粉に触れたかのようにさっと目を逸らす。その度に、彼がどれほど私を疎ましく思っているかが伝わってきて、溜息を漏らすのを我慢するのに苦労した。
やがて視界が開け、切り立った崖の合間に堅牢な城塞都市が見えてくる。
王都の優美な建築物とは違う、実用性と防衛に特化した無骨な灰色の石造りの屋敷。それが、私の新しい家となるヴァレンシュタイン辺境伯邸だった。
「到着したぞ。降りろ」
馬車が中庭で止まるなり、クロードは私を気遣う素振りすら見せずにさっさと降りてしまう。エスコートの手など最初から期待していなかったので、私は一人でドレスの裾を持ち上げ、石畳の地面へと降り立った。
屋敷の玄関には、老齢の執事と数名の使用人、そして武装した騎士たちが並んで待ち構えていた。
王都の華やかな令嬢が辺境にやって来たということで、彼らの目には微かな警戒心と好奇心が入り混じっているように見受けられる。
「おかえりなさいませ、旦那様。そして、奥様。ヴァレンシュタイン領へ、ようこそおいでくださいました」
白髪の執事が深々と頭を下げる。私は張り付けた笑みを口元に浮かべ、優雅にカーテシーを返す。
「初めまして。エレノア・ヴァレンシュタインと申します。至らぬ点も多々あるかと存じますが、これからよろしくお願いいたしますわ」
凛とした声で挨拶すると、使用人たちの間にほんの少し安堵の空気が流れたのが分かった。どうやらまともな女が嫁いできたらしいと判断されたのだろう。
「セバス、彼女の部屋は東塔の角部屋だ。長旅で疲れているだろうから、今日は休ませてやってくれ。私は執務室に向かう」
「かしこまりました」
クロードは早口で用件だけを伝えると、振り返りもせずに屋敷の奥へと消えていった。到着したばかりの妻を放り出して仕事に向かうその後ろ姿を見送りながら、私は内心で肩をすくめる。
見事なまでの放置主義。お飾り妻としては、干渉されないのはありがたい限りだ。
案内された東塔の角部屋は、予想以上に日当たりが良く、広々としていた。
華美な装飾こそないが、調度品は上質で手入れが行き届いている。窓からは、険しくも雄大な北の連峰が一望できた。王都の箱庭のような景色とは違う、荒々しい自然の力強さに、不思議と心が躍る。
「奥様、お荷物の整理は私どもがいたしますので、どうぞお寛ぎください」
「ありがとう。少し休ませてもらうわね」
侍女たちに礼を言い、私は長椅子に腰を下ろした。ようやく、一人きりの時間だ。重いドレスを脱ぎ捨てて、ゆったりとした部屋着に着替えると、深い安堵のため息が漏れる。
「さて、辺境でのお飾り妻生活、どうやって楽しもうかしら」
愛する夫の帰りを待つ必要もなければ、夜な夜な社交界の茶会で作り笑いを浮かべる必要もない。与えられた予算の範囲内で領地の経営に口を出さず、大人しくしていれば文句は言われないはずだ。
その日の夕食。食堂の長いテーブルの端と端に座り、私とクロードは無言で食事をとっていた。カチャカチャと銀食器が皿に触れる音だけが虚しく響く。
だが、目の前に運ばれてきた料理を見て、私は思わず目を見開いた。
メインディッシュは、王都では珍しいホロホロ鳥の香草焼き。付け合わせには、蜂蜜で煮込んだカブのソテー。そして、デザートには木苺のタルト。
どれもこれも、私が大好きなものばかりなのだ。特にカブの蜂蜜煮など、王都の貴族は「田舎臭い」と敬遠しがちな家庭料理である。
(偶然……よね?)
チラリとクロードの様子を窺うが、彼は相変わらず難しい顔をして自分の食事を黙々と口に運んでいるだけ。私が何を食べていようが、興味もないといった様子だ。
不思議に思いつつも、長旅の疲れもあってか食欲には抗えず、私は一口食べてみる。
「……美味しい」
思わず声がこぼれるほど、絶妙な味付けだった。香草の風味が肉の旨みを引き立て、カブは口の中でとろけるほど甘い。気づけば、私はあっという間に皿を平らげていた。
翌日からの生活も、私にとっては驚きの連続だった。
屋敷の案内を受けた際、最も楽しみにしていた図書室へ足を踏み入れた時のこと。
天井まで届く本棚に囲まれた空間は、古い紙とインクの匂いに満ちていて、それだけで胸が高鳴る。私は胸を躍らせながら本棚の背表紙を指でなぞっていった。
「……嘘でしょう?」
そこに並んでいたのは、淑女が好むような恋愛小説や詩集ではなく、各国の戦術記、魔物生態学の専門書、そして泥臭い冒険譚ばかりだった。
実は、私はこういうジャンルの本が大好物なのだ。王都の実家では「令嬢が読むものではない」と母親からすべて取り上げられてしまったため、隠れてこっそり読むしかなかった代物たち。
(辺境伯の屋敷だから、こういう武張った本が多いのは当然かもしれないけれど。それにしても、私の趣味にドンピシャすぎるわ)
目を輝かせながら分厚い戦術指南書を引き抜いた私を、案内役のセバスが穏やかな眼差しで見守っていた。
「奥様、お気に召す本はございましたか?」
「ええ、とても! こんなに素晴らしい蔵書があるなんて、感激ですわ。あの、図書室の本は自由に読んでも構わないのかしら?」
「もちろんでございます。旦那様からも、奥様が退屈されないよう、お好きなものを読ませて差し上げるようにと申し付かっておりますゆえ」
セバスの言葉に、私は首を傾げる。
(あのクロードが……私の退屈を気遣って?)
いや、単に「暇を持て余して自分にまとわりつかれては困る」という事務的な配慮だろう。事実、到着してからの数日間、彼と顔を合わせるのは夕食の時くらいで、会話らしい会話は一切交わしていないのだから。
けれど、食の好みにせよ、図書室のラインナップにせよ、この屋敷の環境は私にとって異常なほど居心地が良い。
王都での息苦しい生活が嘘のように、私は辺境での日々を満喫し始めていた。
朝は小鳥のさえずりで目覚め、美味しい朝食をとり、日中は図書室で好きなだけ本を読み耽る。天気の良い日は、広大な中庭を散策して北方の珍しい植物を観察する。
誰にも咎められない、自由で穏やかな時間。
「……悪くないわね、この生活」
素直な思いを口にするのはどうにも癪だったから、そんな控えめな言葉で収めたが、本当のところ言うのであれば、それは私の思う理想のスローライフというやつだった。
◆
そんな、ある日の午後。
読みかけの冒険譚を抱え、中庭の木陰にあるベンチに座っていた私は、ポツリとそう呟いた。心地よい風が吹き抜け、木漏れ日が本のページで揺れている。
遠くから、騎士たちの気合いの入った掛け声と、木剣が激しく打ち合う音が聞こえてきた。どうやら、訓練場で若手騎士たちの稽古が行われているらしい。
――コォォンッ!
そんな鋭い打撃音のたびに、私の指先がピクリと反応する。
十数年間、一度も握っていない剣。もう二度と「暴力的な女」とは呼ばれないために、深く封印したはずの衝動が、胸の奥で微かにうずくのを感じた。
(いけない。私はもう、淑女として生きると決めたのだから)
パタン、と本を閉じ、私は訓練場の音から逃れるように立ち上がる。
心のどこかで、あの汗と土の匂いをひどく懐かしく感じている自分を、完全に誤魔化すことはできなかった。
そして――まさかその数日後、私が再び剣を握ることになるとは、この時の私は知る由もなかったのである。




