第一話
王都の神殿で執り行われた結婚式は、どこまでも厳かで、ひどく白々しいものだった。
数多の貴族たちが並ぶ豪奢な礼拝堂。ステンドグラスから差し込む七色の光に祝福されながらも、私と彼の間に交わされた誓いの言葉は、冷めたスープのように味気ない。誓いの口づけすら、ヴェール越しの額にほんの一瞬だけ唇が触れただけという冷ややかな有様だった。
誰の目から見ても、愛のない政略結婚であることは明白。
親族どころか結婚式を仕切る神父さえも苦笑いを浮かべる始末だった――。
そして今、花嫁の寝室と呼ばれる豪奢な部屋(要するに初夜を迎える場所)で、私はひとり静かに息を吐き出す。
幾重にも重なる純白のドレスから、ゆったりとしたシルクのネグリジェに着替えると、ようやく肩の荷が下りた気がした。鏡の前に座り、侍女に結い上げられていた金糸の髪を解き下ろす。我ながら手入れの行き届いた髪が、肩を伝って背中へと滑り落ちていった。
部屋を満たすのは、微かな薔薇の香りと、新郎を待つ重苦しい沈黙だけ。
不意に、無駄に重厚な部屋の扉がゆっくりと開かれた。
振り返ると、そこに立っていたのは私の夫となった男――辺境伯クロード・ヴァレンシュタインだ。
背が高く、騎士として鍛え上げられた分厚い胸板と、広い肩幅。夜の闇を溶かし込んだような漆黒の髪に、氷のように冷たいアメジストの瞳が私を見下ろしている。
王都の令嬢たちがこぞって扇の影から熱い視線を送るほどの美丈夫だが、その表情には新婚の甘さなど微塵も浮かんでいない。
「……待たせたな、エレノア」
低く響くバリトンの声。ただ名を呼ばれただけなのに、私の背筋に冷たいものが走る感覚を覚えた。
「いえ。お疲れ様でございました、旦那様」
ソファから立ち上がり、私は完璧な淑女のカーテシーで彼を出迎える。
(これから、この男に抱かれるのね……)
虫唾が走る思いを抑えて、私は粛々とした顔を崩さない。
しかし、クロードは私に近づこうとはしなかった。扉の前に立ったまま、見えない壁でも作るかのように腕を組む。
しばしの沈黙の後、彼は薄い唇をゆっくりと動かした。
「単刀直入に言おう」
静かな、けれど有無を言わさぬ冷徹な響き。
「俺は、君を愛することはない」
その言葉が部屋に落ちた瞬間、空気が一段と冷え込んだように感じられた。
初夜の寝室で、花嫁に向かって放たれる最も残酷な宣告。普通の令嬢であれば、ショックのあまり泣き崩れるか、青ざめて弁明の機会を求めるところだろう。
しかし、私はわずかに目を伏せただけで、顔色一つ変えなかった。
そんな、私の内心はというと……。
(私だってお前のことなんて、これっぽっちも愛してやる気なんてないわよ!)
「……承知いたしました」
抑揚のない声でそう返すと、クロードの眉がわずかに動く。私がもっと取り乱すと思っていたのかもしれない。
彼が私を愛さないことなど、結婚が決まった日から分かりきっていた。むしろ、こうして真っ直ぐに宣言してくれた方が、今後の身の振り方が明確になって助かるというものだ。
なぜなら、私とクロードの間には、到底埋めることのできない長く続く確執があるのだから。
目を閉じれば、今でも鮮明に蘇る記憶がある。
それは私が十歳、彼が十三歳の時のことだ――。
当時の私は、レイテ伯爵家のじゃじゃ馬娘として名を馳せていた。ドレスよりも動きやすいズボンを好み、刺繍の針よりも木剣を握りしめて領地の騎士たちに混ざって泥だらけになって駆け回る、お転婆を絵に描いたような少女。
対するクロードは、次期辺境伯として厳しく育てられた誇り高き少年であった。
事の発端は、両家が親睦を深めるために開かれた合同の狩猟祭。そこで子供たちの余興として行われた剣術大会で、私とクロードは決勝戦で対峙することになった。
体格も力も、三つ年上の彼の方が圧倒的に上回っている。周囲の大人たちは皆、クロードの圧勝を疑っていなかったし、彼自身も「女の子相手だから手加減してやるよ」と余裕の笑みを浮かべていた。
だが、私は本気だった。手加減されることへの反発心もあったのだろう。私は開始の合図と共に獣のように踏み込み、クロードの木剣を容赦なく弾き飛ばした。
驚愕に見開かれた彼の瞳。体勢を崩したクロードに対し、私は足掛けで地面に転がし、その首筋にピタリと木剣の切っ先を突きつけたのだ。
『勝者、エレノア・レイテ!』
審判の声が響き渡った時の、あの静まり返った周囲の空気。大人たちの困惑した顔と、両親の引きつった笑いは今でも忘れられない。
そして何より、私の足元で土にまみれたクロードの姿だ。
次期辺境伯としてのプライドを、年下の、それも女である私に完膚なきまでにへし折られた屈辱。震える拳を握り締め、顔を真っ赤にした彼は、大粒の涙をボロボロとこぼしながら私を睨みつけた。
『お前みたいな、暴力的な女なんて……っ!』
泣きじゃくりながら放たれたその言葉は、まるで鋭い刃となって私の胸に突き刺さった。
『一生、好きにならないからな! 顔も見たくない!』
それが、クロードの口から発せられた私への呪いの言葉だった。
あの日以来、私は剣を握るのをやめた。髪を伸ばし、フリルのついたドレスに身を包み、息の詰まるようなコルセットを締めて、理想的な淑女としての仮面を被って生きてきたのだ。
『暴力的な女』というレッテルは、私にとって深いトラウマとなり、心の奥底にずっと黒い染みのようにこびりついている。
それなのに、よりにもよってその彼と政略結婚させられるとは、運命の女神はどれほど性格が悪いのだろう。
両家にとって辺境防衛と中央のパイプ役という重要な意味を持つ婚姻であり、親族から泣きつかれた私に逃げ道はなかった。恐らく、クロードも辺境伯としての義務から嫌々この結婚を承諾したに違いない。
「……私の言葉が聞こえなかったのか?」
回想から引き戻すように、クロードの低い声が落とされる。私は静かに顔を上げ、彼の冷たい瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「聞こえております。クロード様は、私を愛することはない、と。ご心配には及びません。私とて、子供の頃から毛嫌いされている相手に愛を乞うほど、厚かましくはございませんので」
「っ……」
私のあけすけな物言いに、クロードが一瞬だけ息を呑む。
どうやら、彼も十数年前の出来事を鮮明に覚えているらしい。気まずそうに視線を逸らしたのを見て、私は心の中で小さくため息をついた。
「この婚姻が、両家の利益のためのものであることは十分に理解しております。辺境伯夫人としての責務は最低限果たしますが、それ以上の関係を求めるつもりはありませんわ。旦那様も、どうかお気になさらず、お好きになさってください」
愛人が欲しければどうぞご自由に。そう暗に告げると、クロードの顔が微かに険しくなった気がした。だが、彼は反論することなく、苛立たしげに組んでいた腕を解く。
「……そうか。君がそのつもりなら、構わない」
吐き捨てるようにそう言い残すと、彼はベッドに向かうことなく、部屋の隅にある長椅子へと歩いていく。どうやら、初夜の真似事すらするつもりはないらしい。
上着を脱ぎ捨て、そのまま長椅子に横たわって背を向けてしまったクロードを見て、私は安堵の息を漏らした。
愛されないことは、悲しくなどない。
むしろ、あの堅苦しい王都の社交界から離れ、干渉してこない夫と共に辺境でのんびりと暮らせるのだ。見方を変えれば、お飾り妻というのも悪くない身分である。
「おやすみなさいませ、旦那様」
返事のない背中に向かって小さく告げ、私はひとりで広い天蓋付きのベッドに潜り込んだ。シーツの冷たさが心地よい。
明日からは、魔物の脅威と隣り合わせだという辺境の地への長い旅が始まる。王都のしがらみをすべて置いていけると思うと、不思議と心は軽かった。
私を嫌う夫の寝息を遠くに聞きながら、私はゆっくりと瞳を閉じる。
こうして、愛のない、冷え切った私たち夫婦の生活が幕を開けたのである。




