第六話
図書室での恋愛小説事件から数日が過ぎた。
クロードはあからさまに私を避ける……かと思いきや、事態は奇妙な方向へと転がっていた。
たしかに、彼と顔を合わせた直後は気まずそうに視線を逸らされる。しかし、夕食の席で沈黙に耐えきれなくなった私が、ふと図書室で読んだ戦術書の話を振ってみた時のことだ。
「あの本の第三章、東部戦線の奇襲部隊の配置ですが、少し陣形が甘い気がしますの」
「……あそこは地形的に沼地が多い。重装歩兵の機動力が落ちることを計算に入れた配置だ」
気がつけば、私たちは食後のデザートが運ばれてくるのも忘れて、熱熱と戦術論を戦わせていたのである。
王都の令嬢であれば「まあ、お花が綺麗ですわね」と微笑むところだが、辺境伯夫人の私が熱く語るのは「沼地における軽騎兵の有用性」だ。普通なら眉をひそめられる話題である。
しかし、クロードは私の意見を否定するでもなく、むしろ楽しげに瞳を輝かせて持論を展開してくる。食の好みだけでなく、思考の回路まで似通っていることに、私は驚きを隠せなかった。
その「価値観と趣味の完全一致」は、日常のあらゆる場面で露呈し始めた。
ある日の午後、図書室でのこと。
私は新しく入ったという北方魔物生態学の専門書を探して、奥の本棚へと足を踏み入れた。目当ての分厚い背表紙を見つけ、手を伸ばす。
すると、トンッと別の大きな手が、私と全く同じタイミングでその背表紙に触れた。
「あっ……」
驚いて隣を見ると、いつの間にかクロードが立っている。彼もまた、私と同じ本を読もうとしていたらしい。重なった手から、彼の高い体温がじんわりと伝わってくる。
「す、すみません、旦那様。先にお読みください」
「……いや。お前が先に読め」
慌てて手を引っ込めようとした私を制し、クロードは私の手の上から、そっと自分の手を重ねた。
ビクッと肩が跳ねる。至近距離で見下ろしてくるアメジストの瞳には、いつもの冷たさはなく、どこか熱を帯びたような色が浮かんでいた。
「お前も、この著者の考察が気になっていたのか」
「は、はい。前作のゴブリンの集団心理についての記述が、とても興味深かったので……」
「そうか。読み終わったら、感想を聞かせろ。俺も夜に読む」
言いながらも、彼はなぜかすぐに手を離そうとしない。
数秒間、ただ互いの視線が絡み合う。静まり返った図書室の中で、自分の心臓の音だけがやけにうるさく響いていた。
(おかしい。愛のない政略結婚のはずなのに、どうしてこんなに胸が苦しいの)
結局、彼がパッと手を離して執務室へ戻っていくまで、私は一歩も動くことができなかった。
◆
そして、決定的な出来事は、領内の城下町へ視察に出向いた日に起こった。
その日、私はクロードの隣を歩き、領民たちの暮らしぶりを見て回っていた。護衛には、先日修練場で手合わせをした副団長のアレクを含め、数名の騎士が同行している。
辺境の街は王都のような華やかさこそないが、活気に満ちていた。屋台からは香ばしい肉の焼ける匂いが漂い、子供たちが元気に走り回っている。
「奥様、こちらの果実をご存知ですか? 北の特産で、甘くて美味しいんですよ。実は、クロード様の好物でもあるんです!」
アレクが人懐っこい笑顔で、屋台に並んだ赤い果実を指差す。
修練場での一件以来、彼は私を「剣の腕が立つかっこいい奥様」として慕ってくれており、こうして気さくに話しかけてくるのだ。
「まあ、初めて見ましたわ。王都には出回らない品ですね」
「ええ! よろしければ、俺が一つおごりますよ。奥様にはこの前、剣の型を教えていただいたお礼もできていませんし」
そう言って笑うアレクの態度は、あくまで純粋な好意と敬意からくるものだった。私も、そんな彼に弟ができたような気持ちになっていた。
そして、私がアレクに微笑み返そうとした、そのとき――。
グィッ、と不意に、私とアレクの間に強引に割って入る大きな背中があった。
クロードだ。
彼はアレクを鋭い眼光で睨みつけると、私の腕をガシッと掴み、自分の背後へ隠すように引き寄せた。
「だ、旦那様?」
「お前の任務は周囲の警戒だろう。こんなところで何をほっつき歩いている?」
恐ろしく低いバリトンボイス。
その場にいた全員が、ピタリと動きを止めた。アレクは「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げ、慌てて数歩後ずさる。
「も、申し訳ありません! お、奥様とつい談笑を……!」
「言い訳は聞かん。屋敷に戻ったら、修練場を百周だ」
「ひゃ、百周ぅ!?」
容赦ない命令を下し、クロードは私の腕を引いたまま、ズンズンと歩き出してしまった。
私は彼に引きずられるようにして歩きながら、混乱で頭が真っ白になっていた。
(どうして、こんなに怒っているの?)
ただ屋台の果実の話をしていただけだ。
それなのに、彼が私の腕を掴む力は、苛立ちに震えているようにも感じられた。まるで、大切な物を他人に取られまいと必死になる子供のようだ。
「あの、クロード様。腕が、少し痛いのですが……」
路地裏の静かな場所まで来てようやく、私は恐る恐る声をかけた。
ハッとしたようにクロードが立ち止まる。そして、掴んでいた私の腕をパッと離した。
「……すまん」
気まずそうに視線を逸らし、彼は乱暴に自分の前髪を掻き上げた。
そのまま、ボリボリと頭を掻く。
「旦那様。アレク副団長は、ただ親切にしてくださっただけです。あのように厳しく接する必要は……」
「俺が気に入らないんだ」
私の言葉を遮るように、クロードは吐き捨てた。
「仮にも領主の妻が……俺以外の男と、楽しそうにするな……」
辺境伯としての威厳も何もない、不器用な言葉。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で、カチリと何かが嵌まる音がした。
(一生好きにならないと、愛さないと言われたのに……)
どうして、そんな風に特別扱いをしてくるのか。
どうして、そんなに切なげな瞳で私を見るのか。
(ああ……私、この人のことが好きだ)
やたらと趣味の合う感性。
図書室で手が触れ合った時の熱。
剣を交える時の、互いの魂が共鳴するような感覚。
冷え切った政略結婚になると決めつけていた自分の考えが、音を立てて崩れ去っていくのを感じる。
私はもう、彼への明確な恋心を誤魔化すことができなくなっていた。




