第二十一話『荊州の嵐、後継者争い』
建安十二年(207年)頃。この広大な、天下の要衝である荊州を治める荊州牧・劉表は、老齢に加え、長引く病に深く体を蝕まれていた。その容態は日増しに思わしくなく、彼の統治力には、見るからに陰りが見え始めていた。領内は、表向きは長年の劉表の支配によってかろうじて平穏を保っているものの、水面下では、劉表亡き後の跡目を巡る、血腥い、そして激しい動きが活発化していたのである。
劉表には、二人の息子がいた。正室の子である長男の劉琦は、情が厚く温厚な人物であったが、生来病弱であり、また、継母である蔡夫人(劉表の後妻)とその弟で、荊州水軍の都督として権勢を振るう蔡瑁、そしてその盟友である張允ら強大な蔡氏一派からは徹底的に疎まれていた。蔡瑁らは、自分たちの権力を劉表亡き後も盤石なものとするため、劉表と蔡夫人の間に生まれた次男・劉琮を後継者として擁立しようと、あらゆる手段をもって、密かに画策していたのである。劉琮自身も、蔡氏一派の傀儡となることを受け入れていた。
劉琦は、自身の周囲に、まるで鎌首をもたげる蛇のように危険が迫っていることを肌で感じ取り、深い孤独と悩みを抱えていた。彼は、父や弟、そして蔡氏一族の中で、完全に孤立していた。そして、彼が最後の望みを託し、頼ったのは、父・劉表の客将として、荊州北部の新野という小さな城に駐屯している劉備玄徳であった。劉備は、漢王室の末裔であり、その仁徳の人柄は、荊州の民衆からも、そして劉琦自身からも深く慕われていた。
新野の劉備の元へ、ある夜、劉琦がやつれ果て、まるで亡霊のような姿で密かに訪れた。顔色は悪く、目には深い恐怖と絶望が宿っている。
「玄徳殿…玄徳殿…どうか…どうか、この琦をお助けくだされ…!」
劉琦は、劉備の前に崩れ落ちるように膝をつき、嗚咽しながら窮状を訴えた。
「継母上や…蔡瑁らは…弟の琮を…無理矢理にでも跡継ぎにせんと…そして…そして某を…亡き者にしようと…企んでおりまする…! 宴と偽って…毒を盛ろうと…暗殺者を差し向けようと…某は…いつ殺されるか…分からぬ身…どうか…どうか…この琦を…お救いくだされ…!」
その悲痛な訴えに、劉備は深く、深く同情し、何とかこの孤立無援の若者を力になりたい、救いたいと思うものの、彼の胸には、複雑な立場ゆえの苦悩が渦巻いた。劉表は、戦乱に疲弊した自分を、客将として温かく迎え入れてくれた恩人である。その劉表の家の、しかも後継者争いという最もデリケートな内紛に、部外者である自分が介入することは、果たして許されることであろうか。義を重んじる劉備にとって、それは主家の内紛に乗じる不義となりかねず、あまりに忍びない道に思えたのである。
劉備は、この難問を、近頃ようやく、あの隆中の草廬から三顧の礼をもって迎え入れた若き軍師、諸葛亮孔明に相談した。まだ、劉備の軍師となって間もない諸葛亮であったが、その深く澄んだ眼差しは、既に天下の大勢を、そして未来の行く末をも見通しているかのように見えた。
「我が君。荊州は、北に天下を制しつつある曹操、東に強大な水軍を擁する孫権を抑え、西の豊かな益州へも通じる、まさに天下を分かつための要衝にございます。この地を失えば、我が君の覇業は、水泡に帰しましょう」
諸葛亮は、冷静に、しかし確信をもって、そして将来への道筋を示すように進言した。
「劉琦様は、正統な後継者候補であり、また我が君を頼っておられる。ここは、劉琦様をお助けし、蔡瑁らを排除することで、荊州を我が君の足がかりとする道を、真剣に模索すべき時かと存じまする。これは、個人の義理を越えた、天下を救うための大局にございます」
その、あまりにも現実的で、そして劉備の情を断ち切るかのような明晰な分析力と進言に、劉備は改めてこの若き軍師の天才ぶりに感嘆したが、同時に、主家の家督争いに乗じること、そして劉表への恩を無下にすることへの抵抗感も、依然として拭えずにいた。天下を救うという諸葛亮の示す壮大な戦略と、仁徳を重んじ、目の前の義理人情を大切にしたいという劉備の抱く理想。二人の間には、早くも、埋めるのが難しいかもしれない、微妙な緊張感が漂っていた。
一方、荊州南部の零陵郡辺境に拠点を構え、着実に勢力を拡大しつつある武田勝頼・陳宮の軍勢もまた、この荊州中枢での不穏な動きを、固唾を飲んで見守っていた。彼らにとっても、天下を望むならば、この荊州という要衝で起きる動乱は、決して対岸の火事ではなかった。陳宮が放った情報網からは、劉表の病状、蔡氏一派の動き、そして劉琦が劉備に助けを求めたという情報まで、刻々と寄せられていた。
「ふむ…劉表殿の容態、いよいよ思わしくない様子。もはや、余命幾ばくもないかと。いよいよ、後継者争いが、目に見える形でも本格化しそうですな」
軍議の席で、陳宮が最新の情報を報告する。傍らには、鬼気迫る鋭い視線を地図に向ける軍師・法正孝直の姿もあった。
法正が、待ちきれないとばかりに、鋭い視線で地図上の荊州を睨みながら進言する。
「劉表亡き後の混乱は、我らにとっても、この荊南で勢力を拡大する絶好の機会となります! 蔡瑁・張允らは、己の保身のため、間違いなく北の曹操に靡き、荊州を売り渡すでしょう。ならば、我らは、正統な後継者候補である劉琦様、あるいは、我らが恩義を受けた新野の劉備殿と連携し、蔡瑁らを排除し、曹操に対抗する形を取るのが、この乱世において、我らが最も利を得、さらに勢力を拡大する道かと存じます!」
陳宮も頷く。「うむ、法正殿の言う通り。北の曹操、東の孫権も、必ずやこの機を狙って動くはず。彼らは荊州を喉から手が出るほど欲しております。我らは、彼らの動きをも見極めつつ、漁夫の利を得る…いや、漁夫の利を得るだけでなく、この荊州という地を、我らの手中に収める…そのような大胆な策を講じるべきでしょうな」
勝頼は、二人の軍師の、冷徹なまでの分析と、野心的な提言に静かに耳を傾けていた。勢力拡大は、もちろん望むところである。しかし、彼はそれだけではなかった。彼の心には、常に故郷の民、そしてこの異郷で出会った人々の顔があった。
「二人の軍師の言う通りであろう…この荊州の動乱は…我らにとって好機やもしれぬ…だが…忘れてはならぬのは…この荊州の民のことだ…」
勝頼は、訥々と、しかし確かな響きをもって語りかけた。
「この…後継者争いや…大勢力の介入によって…民が…再び戦火に苦しみ…飢えや病に…苛まれるようなことがあってはならぬ…我らが動くならば…それは…この荊州に…真の安寧をもたらすためでなければ…ならぬ…」
そして、勝頼は付け加えた。彼の心の中には、劉備という人物への、下邳での恩義と、彼が掲げる「仁」への共感、そして曹操という、かつて故郷を滅亡に追いやった信長と同じ、冷徹な覇道への警戒心が、複雑に、そして激しく交錯していたのである。
「劉備殿が…伝え聞く通りの…『仁徳の士』であるならば…彼と…無益な争いをすることは…わしの…本意ではない…むしろ…曹操の…容赦ない覇道が…この荊州に…及ぶよりは…あるいは…彼と…手を結ぶ道を探るべきやもしれぬな…」
各勢力の思惑が、まるで煮え滾る釜のように渦巻く中、水面下での動きは、ますます活発化していた。曹操は、荊州の内部情報を探るため、満寵らを再び密使として襄陽へ送り込んだ。その目的は、劉表の病状、後継者争いの行方、そして蔡瑁らを曹操に靡かせるための調略であった。江東の孫権もまた、腹心の魯粛を荊州へ派遣し、劉表後の情勢を探らせると共に、劉備との連携を探っていた。
勝頼・陳宮軍もまた、法正の指示の下、強化された独自の諜報網を駆使し、劉表陣営、劉備軍、そして曹操、孫権それぞれの動きに関する情報収集に全力を挙げていた。すべての情報は、陳宮と法正のもとに集められ、来るべき嵐に備え、様々な策が練られていた。
荊州の主、劉表の命の灯火が、今にも、今にも消えようとしている。その死は、この天下の要衝・荊州に、そして天下全体に、間違いなく大きな嵐を呼び起こすことになるであろう。北の曹操、東の孫権、そして荊州内部の劉表後継者争いと、それに巻き込まれる劉備。そして、辺境からその機会を虎視眈々と窺う勝頼・陳宮・法正軍。四つの勢力が、この天下の要衝・荊州を巡って、いかなる動きを見せるのか。誰もが息を殺し、その時を待っていた。嵐の前の、不気味なほどの静けさが、荊州全土の空を覆っていた。




