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風林火山、中原を翔ける ~武田勝頼、三国志異聞~  作者: チャプタさん


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第十九話『鳳龍の噂、荊州の名士』

辺境の山中で、最初の試練である賊徒・小豪族連合軍の攻撃を乗り越え、武田勝頼たけだかつよりの軍勢は、荊州けいしゅう南部にささやかながらも、奇跡的な勝利によって得られた、確かな拠点を築いた。陳宮ちんきゅうの指揮の下、未完成の砦は着実に補強され、内政も徐々に整い始め、飢えと病に苦しんだ兵士たちの体力が回復し、訓練も進んでいた。だが、この乱世で天下を望むには、あまりにも兵力も、物資も、そして何よりも人材が不足していた。特に、陳宮を補佐し、共に国策を練り、この新興勢力を大きく育てるほどの、優れた頭脳を持つ者が、どうしても必要であった。


ちょうどその頃、中原の戦乱から奇跡的に隔絶され、比較的安定していた荊州には、多くの名士や学者が、その身の安全を求めて集まっていた。しかし、荊州のぼくである劉表りゅうひょうは、老齢と病のため、その統治力に陰りが見え始めており、集まった人材を十分に活かしきれていないという評判も立っていた。この荊州は、さながら、未だ掘り起こされていない宝石が眠る、人材の宝庫のような様相を呈していたのである。


陳宮は、かつての知人、買収した商人、そして各地に放った間者など、細々とではあるが、自らが命懸けで築き上げた情報網を駆使し、荊州各地に隠棲する有能な人物の噂を熱心に集めていた。夜遅くまで、油灯の下で古い地図や手紙を読み解き、誰に、どのような才があるのか、ひたすらに情報を整理する。そして、彼の耳に、数多の噂の中でも、ひときわ、彼の心を掴む二人の若者の評判が届いたのである。


一人は、襄陽じょうよう近郊の隆中りゅうちゅうという地に庵を結び、農夫の姿で晴耕雨読の生活を送る、諸葛亮しょかつりょう孔明こうめい。まだ齢二十代半ばと若いというが、その才知は深淵の如く計り知れず、天下の情勢を論じさせれば、当代の誰をも凌ぐと噂され、人々は密かに彼を「臥龍がりょう」(伏せた龍)と称しているという。


もう一人は、同じく襄陽の近郊に住む、龐統ほうとう士元しげん。容貌は冴えず、人付き合いも悪いというが、一度言葉を交わし、その非凡な見識に触れれば、当代の誰をも凌駕すると言われ、「鳳雛ほうすう」(鳳凰の雛)と呼ばれている。


巷間では、「臥龍、鳳雛、そのいずれか一人でも得ることができれば、天下をも取るに足る」とまで、真しやかに囁かれていた。


「臥龍に…鳳雛…まこと…そのような…稀代の麒麟児が…この荊州に…眠っていると…?」


勝頼は、陳宮からその話を聞き、その蒼白な顔に、強い興味と、そしてかすかな興奮の色を浮かべた。彼は、故郷の武田家にも、山本勘助やまもとかんすけという、仕官するまでは身分も知れず不遇であったが、後に父・信玄の右腕となり、武田家を天下に伍する勢力に押し上げた不世出の軍師がいたことを思い出す。真の才能は、時に世の片隅に埋もれているものなのだ。


「公台…ぜひとも…ぜひとも、その者たちに…会ってみたい…我らの旗の下に…加わるよう…説得することは…できぬだろうか…?」


勝頼は、言葉を探しながらも、切なる思いを込めて言った。


「はっ。御館様。某も同じ考えにございます。これほどの才を持つ者たち、既存の権力者にも見向きもせぬと言います。我らのような、辺境の弱小勢力からの誘いなど、容易に首を縦には振りますまい。しかし、彼らが仕えるべき『天』を選ぶというならば、我らもその『天』たりうる器であると示すべきです。まずは、御館様が直接、隆中と襄陽に赴かれ、誠意をもって語り合うことが、彼らの心を動かす唯一の道かと存じます」


陳宮は、勝頼の覚悟を確認し、静かに、しかし力強く提案した。こうして、勝頼と陳宮は、拠点の守りと、まだ揺籃期の組織の内政を張遼ちょうりょうに任せ、劉備の夫人たちも張遼の保護下に置き、わずか数名の、最も信頼できる供回りを連れて、荊州の名士たちを訪ねる、人材探しの旅に出ることとなった。法正ほうせいも、荊州の地理や人物に詳しいことから、この旅に同行を志願した。


彼らがまず訪ねたのは、襄陽の北、草蘆に隠棲する、「水鏡先生すいきょうせんせい」として名高い、司馬徽しばきという高名な隠士であった。古風で質素な庵で、静かに暮らす司馬徽は、突然訪れた、異国の鎧を身に着けた武将とその一行に、わずかに驚きながらも、穏やかな、しかし全てを見通すかのような眼差しで迎え入れた。


勝頼は、中原の慣れぬ作法ながらも、陳宮と法正の助けを借りて、最大限の敬意をもって丁寧に礼を尽くし、自らの素性と、天下を仁義をもって治めたいという志、そして呂布の下で叶えられなかった理想を語った。司馬徽は、勝頼の言葉(陳宮と法正が言葉を選び、補足する)に静かに耳を傾け、そのやつれ果てた顔の中にも宿る、消えぬ覇気と、異文化の中で培われたであろう、中原の武人にはない独特の感性、そして何よりも、傍らの陳宮が絶対の信頼を寄せている事実に、非凡なものを感じ取った。


「ふむ…東瀛の…武田殿か。貴殿の志、しかと聞き届けた。臥龍・鳳雛に会うてみるがよい。彼らは、確かにこの世に二人とない、稀なる逸材じゃ」


司馬徽は、静かに、しかし含みのある言葉で語った。


「されど…彼らが…貴殿に仕えるかは…天命次第じゃろうな。龍も鳳も…自らが仕えるべき『天』…あるいは、その『天命』を担うに足る主を選ぶものゆえ…」


司馬徽は、そう言って、多くを語ろうとはしなかった。しかし、その言葉には、勝頼が臥龍・鳳雛を得るためには、単なる説得ではなく、何か決定的なものが必要であるという示唆が込められていた。


次に一行は、諸葛亮の岳父である黄承彦こうしょうげんや、龐統の叔父である龐徳公ほうとくこうといった、荊州の知識人の中でも名高い隠士たちとも交流を持った。勝頼は、彼らに対し、常に謙虚な姿勢で天下の情勢や人の道を教え請い、その知識を貪欲に吸収しようとした。また、時には、日本の文化――例えば、質素ながらも精神性を重んじ、心静かに己と向き合う茶の湯の作法で、携えてきた茶器で茶を点てたり、故郷を偲んで詠んだ、異国情緒溢れる和歌を披露したり――を紹介した。その異質でありながら奥深い文化と、勝頼自身の実直で誠実な人柄は、荊州の名士たちに強い印象を与え、「あの東瀛の将軍は、ただの武人ではない」「単なる力だけでなく、高潔な心と、独特の文化を持っている」という評判を、彼らの間で静かに広めることになった。


しかし、肝心の臥龍・鳳雛との接触は、容易ではなかった。陳宮が「臥龍の庵は、その主のように捉えどころがない」と評した隆中の諸葛亮の庵を、勝頼は三度も訪ねた。だが、いつも庵を守る童子に「あるじは遠出しております」「遊びに出かけております」と告げられるばかりで、ついに会うことは叶わなかった。龐統に至っては、襄陽の市場で偶然見かけたものの、彼は酒に酔っぱらったふりをして奇矯な言動を繰り返し、勝頼たちの呼びかけにも、まともに取り合おうとはしなかった。


(やはり…これほどの人物…一筋縄では…いかぬか…)


勝頼と陳宮は、焦燥と、そしてわずかな落胆の色を隠せなかった。天下を望むには、臥龍か鳳雛、そのどちらかを得ることは必須だと感じていたからだ。


だが、この荊州での人材探しの旅は、全くの無駄ではなかった。勝頼たちが荊州の名士たちとの交流を深め、その評判を高める中で、臥龍・鳳雛に匹敵する、あるいはそれ以上の、別の、しかし極めて有能な人物が、勝頼たちの噂を聞きつけ、自ら接触してきたのである。


その男の名は、法正ほうせいあざな孝直こうちょくといった。彼は、元は遠く離れた益州えきしゅう劉璋りゅうしょうに仕えていたが、その暗愚さに愛想をつかし、真の主君を求めて荊州へ流れてきていた。しかし、ここ荊州でも、劉表に重用されることはなく、己の才を持て余し、不遇を託っていたのである。


法正は、荊州の名士たちの間で囁かれ始めた、武田勝頼という異邦の将の噂、特にその「仁」の理念と、陳宮という当代屈指の軍師が仕えているという事実に興味を抱いた。そして、自ら陳宮に面会を求め、彼と語り合った。陳宮は、法正の、鋭く物事の本質を見抜く怜悧な頭脳と、現状への強い不満、そして乱世を動かしたいという秘めたる、しかし燃えるような野心を見抜き、これは臥龍・鳳雛に劣らぬ、いや、もしかすると今の我らにとっては、それ以上の得難き人材であると確信した。


陳宮は、満を持して法正を勝頼に引き合わせた。勝頼は、法正のやや陰のある、しかし光を宿した瞳の奥に、非凡な知性と、乱世を生き抜いてきた強靭な意志を感じ取った。勝頼は、法正に対し、隠し事なく、自らの出自や、故郷で叶えられなかった民への思い、そしてこの異郷で仁義をもって天下泰平の世を築きたいという、自らの展望を、誠実に、そして情熱を込めて語った。


法正は、勝頼の異邦人らしからぬ、海のように広い器の大きさと、その瞳に宿る、決して諦めぬ覇気、そして何よりも、陳宮公台という当代屈指の軍師が、これほどまでに心酔し、絶対の信頼を寄せている事実に、強い衝撃を受け、そして心を動かされた。この男ならば、あるいは…長年探し求めた真の主君かもしれない、と。


「…分かりました。武田殿…いや、御館様。この法正、喜んで貴方様にお仕えいたしましょう。某の、長年磨き上げてきた知謀、そしてこの乱世を見る目、全てを…貴方様の天下取りのために、存分にお使いくだされ!」


法正は、深く、深く頭を下げた。彼の加入は、陳宮にとって、自らの重荷を分かち合える、頼れる右腕を得たことを意味し、勝頼軍の知略面を、臥龍や鳳雛を得ることは叶わずとも、大きく、そして確実な力で強化することになるのであった。


臥龍・鳳雛という、天下に名高い二人の天才軍師を得ることは叶わずとも、法正孝直という、優れた知謀を持つ大きな収穫を得て、勝頼たちの荊州での人材探しの旅は終わった。彼らは、陳宮と法正という二人の軍師を得たことに意気揚々と、自分たちの拠点へと帰還する。しかし、彼らのこの荊州での動き、特に臥龍・鳳雛への接触の噂や、法正の加入は、既に荊州の支配者・劉表や、その客将である劉備玄徳にも、警戒心を抱かせるには十分であった。荊州の地を巡る、新たな、そして水面下での、人物や勢力の駆け引きの幕が、静かに、しかし確かに上がろうとしていたのである。

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