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風林火山、中原を翔ける ~武田勝頼、三国志異聞~  作者: チャプタさん


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第十八話『風林火山の旗、再び』

険しい山間に、まだ土塁と木の柵が剥き出しになったまま、建設途中の勝頼かつより軍の砦は、突如として押し寄せてきた賊徒・小豪族連合軍の攻撃に、たちまち騒然となった。敵兵はその数、千数百。まるで山津波のように押し寄せてくる。対する勝頼軍は、疲労困憊の生き残り兵と、集まってきたばかりの寄せ集めの兵を含めても、まだ千にも満たない。しかも、城砦は完成どころか、主要な防御施設もできておらず、防備は全く十分とは言えない。


「怯むな! 兵士たち! 各々、持ち場を守れ! 城壁に取り付かせるな!」


張遼ちょうりょうが、喉を破らんばかりの大音声で兵士たちを叱咤するが、敵の勢いは凄まじく、蜘蛛のように土塁や木の柵に取り付こうとする敵兵が後を絶たない。矢が雨のように降り注ぎ、石が飛び交う。混乱と恐怖が、集まったばかりの兵士たちの間に広がっていく。


陳宮ちんきゅう殿…」


勝頼は、未完成の城壁の上から、冷静な目を保ちつつ戦況全体を見つめ、隣に立つ陳宮に語りかけた。彼の顔には、焦りではなく、この窮地をどう乗り越えるかという、武将の厳しい判断力が宿っていた。


「敵の狙いは、我らがこの地に根を張る前に、芽のうちに叩き潰すことでしょう。このままでは、資材も兵糧も尽き、じり貧となる。長期戦は不利。短期で…何か、敵の意表を突く手段で、決着をつけねばなりませぬな…」


「御意…御館様」


陳宮もまた、険しい表情で頷く。彼の頭の中では、この絶望的な兵力差と未完成の砦という状況で、勝利を掴むための計算が、凄まじい速さで回っていた。正攻法では、万に一つも勝ち目はない。


勝頼は、自ら愛用の日本の太刀を手に、先頭に立って防戦の指揮を執った。彼は、未完成ながらも、日本の山城の考えを取り入れた防御施設――狭い虎口こぐちや、敵が登りにくい石垣(乱積み)の原理を応用した土塁の配置、曲輪くるわ間の連携――を最大限に活用するよう指示した。狭間さまからは、「風林火山組」の兵士たちが放つ、鍛えられた正確さを持つ矢が、敵兵の隙間を射抜く。土塁を登ろうとする敵には、上から転がすための石や丸太が準備され、熱湯(あるいは煮えたぎらせた油)が浴びせかけられる。


「放て!」「落とせ!」


勝頼の、静かだが芯の通った、そして鋭い指示が飛ぶ。泥まみれになり、血を流しながら戦う彼の姿は、寄せ集めの兵士たちに、異邦の将の武威と、そして何よりも、彼らを見捨てずに共に戦っているという安心感を与えた。絶望的な状況下でも、彼らは歯を食いしばり、必死に持ち場を守り抜こうとした。


しかし、敵の攻撃も、その数に任せて執拗であった。山越の賊徒の頭目や、土地の支配を奪われることを恐れた小豪族の首領たちは、勝頼たちの持つ、まだ少ないながらも貴重な物資、あるいはその首に懸けられた(であろう)曹操からの懸賞金を狙い、手下の兵士たちを、まるで使い捨ての駒のように強引に突撃させてくる。城砦の各所で血が流れ、味方の損害も、刻々と増えていった。


「…このままでは…兵が尽きる…じり貧だ…」


戦況を見守っていた陳宮が、掠れた声で呟いた。彼の顔には、焦燥と、そして深い苦悩が浮かんでいた。しかし、その目に、諦めの色はなかった。彼は、この状況を打開するための、常識外れの策を、脳裏に思い描いていた。


「勝頼殿…! 策がございます! 夜襲を仕掛けましょうぞ!」


「夜襲…か? この…寡兵で…あの数に…?」


勝頼は、一瞬驚いた。夜襲は奇策だが、成功すれば大勢を覆しうる。だが、この兵力差で、包囲する敵陣へ踏み込むのは、あまりにも危険が大きすぎる。


「はい。敵は、我らが籠城すると思い込み、数に任せて油断しております。夜陰に乗じ、精鋭をもって敵の本陣、あるいは兵糧庫を奇襲するのです。闇の中、敵の指揮系統を麻痺させ、混乱に陥れるのです。成功すれば、敵は総崩れとなり、あるいは恐れて撤退するやもしれませぬ!」


陳宮は、声に力を込めて語った。この奇策に、彼らの全てを賭けるのだ。


「…よし、分かった。公台…その策、乗ろう! この命…この砦…そして皆の未来…全てを賭ける! 風林火山組と…張遼殿…そしてわしで…夜襲を…決行する!」


勝頼は、陳宮の目に宿る覚悟を見て、自らも腹を括った。生き残った兵士たちと、新たな希望のために。


その夜。月も隠れた漆黒の闇の中、張り詰めた空気の中、勝頼、張遼、そして風林火山組の中から選りすぐられた、精鋭中の精鋭、総勢百名ほどが、音もなく、まるで影のように砦の裏手から密かに抜け出した。彼らは、陳宮が放った間者(あるいは地元に詳しい山越族の協力を得た者)の手引きで、敵陣の具体的な配置や、油断している箇所、そして本陣や物資置き場の位置を、正確に探り当てていた。


泥水を避け、草木に身を隠し、足音を忍ばせて敵陣に近づく。まずは、砦の見張りを装って城砦周囲を巡回している敵の見張りの兵を、日本の忍び術を応用した、素早く、そして全く物音を立てない技で、静かに始末する。敵兵は、何が起こったのか分からぬまま、声もなく地面に倒れ伏した。


そして、砦の城壁から打ち鳴らされた、二度打ちの太鼓を合図に、一斉に敵の本陣と、その隣にあると思われた物資置き場(彼らは兵糧庫と呼んでいたが、実際には食料だけでなく、武器や天幕なども含む野戦の拠点であった)へと、咆哮と共に突入した!


「な、何事だ!」「敵襲だーっ! どこだ、敵は!」


油断しきっていた敵陣は、寝込みを襲われたかのように大混乱に陥った。どこから敵が来たのか、どれほどの数なのかも分からない。勝頼と張遼は、愛用の得物を手に、先頭に立って、まるで嵐のように敵兵を薙ぎ倒しながら本陣深くまで暴れ回った。風林火山組の兵士たちは、鍛え上げられた少人数連携で、五人一組となり、互いを援護し合いながら、次々と敵兵を討ち取っていく。同時に、用意していた松明を、物資の山や天幕に次々と投げつけ、火を放った。


炎が上がり、混乱の中、賊徒の頭目や小豪族の首領たちは、何が起こったのか全く分からぬまま、ただ狼狽するばかり。指揮系統は完全に麻痺し、兵士たちは、恐怖に駆られて四方八方へ逃げ出し始めた。もはや戦どころではない。


勝頼たちは、目的を果たし、敵が総崩れになったと見るや、深追いはせず、再び闇の中へと、素早く、そして静かに姿を消した。彼らが通った後には、炎上する物資と、無数の敵兵の死体が残されるばかりであった。


夜が明け、朝靄の中に現れたのは、見るも無惨な、もぬけの殻となった敵の陣営であった。夜襲によって頭目を失い(夜襲の混乱の中で同士討ちした者、逃亡した者、勝頼らに討たれた者)、野戦の拠点となる物資を焼かれ、指揮系統が完全に破壊された賊徒・小豪族連合軍は、完全に戦意を喪失し、夜のうちに散り散りになって逃げ去った後だったのである。


「…勝った…のか…? 我らが…勝ったのか…?」


砦に残っていた兵士たちは、城壁の上からその光景を見下ろし、まるで夢でも見ているかのように、信じられないといった表情で、茫然と呟いた。


「そうだ! 見ろ! 敵はもういない! 我らは…我らは勝ったのだ!」


勝頼の声が、勝利の喜びと、安堵、そして誇りをもって、山間に響き渡る。砦からは、苦しい防戦を乗り越え、奇跡的な勝利を掴んだ喜びが爆発し、割れんばかりの大歓声が上がった。死を覚悟した苦しい戦いを、陳宮の知略と勝頼たちの武勇、そして兵士たちの結束で乗り越えた。その経験が、寄せ集めであった兵士たちの心を、一つにした。


この勝利により、勝頼軍は、敵が残していった大量の武器や物資(焼失を免れたもの)を手に入れ、さらに逃亡した兵の一部を吸収し、その基盤をわずかながらも、しかし確かに強化することができた。そして何より、この奇跡的な勝利は、彼らに大きな自信と、この乱世を生き抜いていけるという、確かな誇りを与えた。


数日後、砦の中央広場に、全ての兵士たちが集められた。その中央には、一本の新しい旗が、砦の中で最も高い場所で、高々と掲げられようとしていた。それは、勝頼の故郷、武田家の誇り高き軍旗、「風林火山」の旗であった。鮮やかな赤地に、黒々とした墨で、武田菱ではなく、孫子の兵法の一節、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の四句が力強く書かれている。


勝頼は、その旗の前に立ち、集まった兵士たちに向かって、力強く語りかけた。言葉はまだ完全ではないが、彼の情熱と、陳宮が側に立ち、彼の言葉を補い、兵たちに正確な意味を伝える。


「皆、見よ! これが…我らが軍旗! 『風林火山』である!」


勝頼の声が響き渡る。兵士たちは、その旗を見上げ、静かに耳を傾けた。


「この旗は…我が故郷…武田家の…誇り…武田の武士たちの魂! 戦においては…風の如く…疾く駆け抜け…林の如く…静かに潜み…火の如く…激しく侵し掠め…山の如く…揺るがず…動かざるべし! その…意味は…陳宮殿が…説いてくれよう…!」


陳宮が、孫子の兵法におけるこの一節の奥深い意味、そしてそれが戦においていかに重要であるかを、兵士たちに分かりやすく、しかし情熱を込めて解説する。兵士たちは、その言葉に、武田家の武の強さの秘密の一端を見たかのような感嘆の声を上げた。


勝頼は、さらに続けた。その目は、未来を見据えている。


「されど! 我らが…目指すは…単なる武勇にあらず! 力にあらず! この旗の下…我らは『仁』の心を…胸に戦う! 民を慈しみ…弱き者を助け…義を重んじ…決して…不義は行わぬ! それが…この…風林火山の旗の下に…集う者の…真の…真の誇りである! 我らと共に…仁義の世を…築こうではないか! 異論のある者は…今すぐ…ここを去るがよい!」


勝頼の言葉は、迷いも、偽りもない、彼の心の叫びであった。兵士たちは、その言葉に静まり返り、勝頼の、そして陳宮の真摯な眼差しを見つめた。そして、誰からともなく、「応!」という、腹の底からの力強い声が上がり、それはやがて、山間に響き渡る、広場全体を揺るがす大歓声へと変わっていった。寄せ集めであった彼らの心は、この「風林火山」の旗の下に、そして勝頼の掲げる「仁」の理念の下に、今、確かに一つになろうとしていた。彼らは、この異邦の将に、この乱世を生き抜くための、そしてより良い世を築くための希望を見出したのだ。


荊州南部の辺境に、新たな、そして異質な風が吹き始めた。武田家の軍旗、「風林火山」の旗は、孫子の兵法の意味に加え、勝頼の「仁」の理念という新たな意味を伴って、再びこの広大な中原の地に、高々と、そして猛々しく翻ったのである。それは、まだ小さな、しかし希望に満ちた狼煙であったが、やがて天下を揺るがす大きな炎へと燃え広がっていく、その確かな始まりであった。

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