第十六話『放浪の軍師、再会の誓い』
下邳城の陥落から、寒風吹きすさぶ数ヶ月の時が流れていた。あの泥水と絶望に満ちた城を、九死に一生を得て脱出した武田勝頼と張遼。そして、僅か数十名にまで減った「風林火山組」の生き残りと、保護された劉備の夫人たち(甘夫人、糜夫人)は、曹操軍の執拗な追撃を、飢えと寒さ、そして絶望に耐えながらかわし、当てもなく、ただ南へ、南へと、文字通り命からがらの逃避行を続けていた。
その道程は、筆舌に尽くしがたい苦難の連続であった。食料は常に底をつき、野草や木の根を齧る日も続いた。雨露を凌ぐ場所さえない吹きっさらしの野山で、凍える夜を過ごすことも度々あった。兵士たちは疲れ果て、傷が悪化したり、熱病に倒れたりして、一人、また一人と、静かに隊列から脱落していく。その亡骸を、土に埋めることすらできないこともあった。勝頼自身も、泥水に浸かり続けた体は冷え切り、疲労困憊し、心身ともに限界に近かった。
(もはや…これまでなのか…? 何のために…生き延びたのだ…? 故郷を…遠く離れたこの異郷の地で…仲間を…失いながら…野垂れ死ぬのが…わしの…わし、武田勝頼の…運命なのか…?)
夜空を見上げれば、故郷の甲斐の星は見えず、見慣れぬ星々が、ただ冷たく瞬いているだけ。故郷を失い、主君を失い、多くの仲間を失い、そしてこの異郷で、陳宮殿という唯一の理解者をも失ったであろうという悲しみと、このような惨状から誰も救えない己の無力感が、鉛のように彼の心を蝕んでいく。何度も、全てを投げ出して、この凍える夜の闇に溶けてしまいたい衝動に駆られた。
しかし、その度に、勝頼をかろうじてこの世に繋ぎ止め、奮い立たせたのは、傍らにいる仲間たちの存在であった。
「勝頼殿、しっかりなされよ! 貴方様が、こんなところで…こんなところで諦めては、我ら生き残った兵士たちも、そして…そして天の陳宮殿も…浮かばれませぬぞ…!」
張遼は、自身も泥まみれで傷つき、やつれ果てながらも、常に勝頼の傍らにあり、その変わらぬ忠義と、鍛え抜かれた武勇で、目に見えぬ敵や困難から彼を支え続けた。生き残った「風林火山組」の兵士たちも、ボロボロになり、顔には死相すら浮かびながら、それでも黙々と勝頼の指示に従い、劉備の夫人たちを背負い、あるいは手を引いて守り続けた。彼らの、言葉には出さぬとも、ただただ勝頼を信じ、共に生きようとする強い信頼と、そこにかける期待が、勝頼の心に、かろうじて、消えかけの希望の灯を、チロチロと灯し続けていた。
「…そうだな…張遼殿…皆…まだ…終われぬのだな…生き延びねば…生き延びて…必ずや…!」
勝頼は、唇を噛みしめ、泥水に濡れた拳を握り締め、再び前を向いた。まだ、見果てぬ夢がある。陳宮の期待に応えねばならない。
一方、その頃、天下は陳宮公台は白門楼で処刑されたと報じていたが、死んだはずの男が、人知れず中原の片隅を、追手から身を隠しながら、放浪の旅を続けていた。陳宮である。彼は、白門楼での処刑寸前、呂布軍時代からの旧知であり、陳宮の才を深く惜しむ曹操配下の文官・毛玠の機転と、寸秒を争う処刑場の混乱に乗じて、奇跡的に命拾いしたのであった。毛玠は、陳宮に気づき、危険を承知で、偽の死体とすり替えるという、まさに命懸けの手筈を密かに整え、彼を逃亡させたのである。
「公台殿、今は、今は生き延びるのです。この乱世に、貴方の知恵が必要とされる時が、必ずや、必ず来ましょう。その時のために…」
毛玠の、涙ながらの言葉を胸に、陳宮は追手から身を隠し、飢えと寒さに耐えながら、旅を続けていた。その痩せた顔には、疲労と共に、主君を見捨ててしまったことへの自責の念が深く刻まれている。
しかし、彼の胸には、一つの、燃えるような強い想いがあった。それは、武田勝頼という異邦の武将の安否であった。
(勝頼殿は…勝頼殿は無事であろうか…? あの義に厚く…民を慈しむ御仁ならば…必ずや…必ずや生き延びておられるはず…某が…最後に希望を託した…あのお方ならば…)
彼は、呂布という愚かな主君の下で潰えかけた自らの理想と、天下泰平への希望を、あの異邦の武将にこそ託していたのだ。勝頼こそが、この血腥い乱世に真の「仁」と「義」をもたらし、力ではなく民心をもって天下を泰平に導くことができる唯一の人物かもしれない、と。
陳宮は、持ち前の情報網――かつての部下や知人、あるいは各地に密かに潜ませていた間者――を、自ら危険を冒しながら駆使し、文字通り、勝頼たちの行方を、血眼になって追った。そして、数ヶ月後、荊州と揚州の境に近い、中原の辺境の地で、ついに、それらしき一行の、かすかな噂を掴んだのである。「東瀛から来た異様な鎧の武将と、屈強な生き残りの兵たちが、曹操軍の追撃を、驚くべき粘り強さでかわしながら南へ向かった」と。
陳宮は、その噂を頼りに、疲弊した体に鞭打ち、最後の力を振り絞り、険しい山道を進んだ。そして、ある日の夕暮れ時、彼は、山中深くにある、打ち捨てられた古い寺院にたどり着いた。寺院は崩れかけ、冷たい風が吹き抜けていた。そこには、焚き火のわずかな明かりが揺れ、旅の疲れで地面に倒れ伏すように眠り込んでいる兵士たちと、寒さに震え、憔悴しきった様子の女性たち、そして、焚き火の前で、遠い故郷の空を思うかのように、ただ静かに座り込んでいる、一人の武将の姿があった。
泥水に汚れ、やつれ果ててはいたが、間違いない。武田勝頼だ。
陳宮は、安堵と、そして喜びと、何よりも「生きていてくれた」という感謝で、思わず駆け寄ろうとしたが、長旅の疲労と空腹で足がもつれてしまい、その場に崩れ落ちそうになった。その、わずかな物音に、焚き火を見ていた勝頼がハッと顔を上げた。
夕闇が迫る中、ボロボロの身なりではあったが、確かに見覚えのあるその顔。知性と、乱世の苦悩を秘めた、あの双眸。そして、何よりも、彼の心に深く刻まれた、軍師・陳宮公台の面影。
「……陳宮…殿…?」
勝頼は、まるで夢でも見ているかのように、信じられないといった表情で、掠れた声で呟いた。あの陳宮殿が生きている? 白門楼で、呂布殿と共に処刑されたと思っていた、あの陳宮殿が…? しかし、そこにいるのは、間違いなく、陳宮その人であった。
「勝頼…殿…! ああ…ああ…ご無事で…! 生きて…生きておられたか…!」
陳宮もまた、目の前の勝頼の姿を確かに確認し、張り詰めていた糸が切れたかのように、安堵と喜び、そして感動で声が震え、涙が溢れそうになった。
二人は、互いの無事を確かめるように、言葉もなく、しかし強い感情をもって、互いに向かって駆け寄った。そして、まるで全てを失った子供のように、互いの存在に縋り付くように、固く抱き合った。いや、どちらからともなく、その場で膝から崩れ落ち、泥まみれのまま、互いの肩にすがりつくようにして、しばし、再会の喜びと、これまでの苦難を分かち合うように、その場を離れられなかった。周囲で、物音に目覚めた張遼や兵士たちも、陳宮の姿を見て、驚愕し、やがて歓喜の声を上げた。
「公台殿! 公台殿ではないか! 生きておられたか!」
「軍師殿! ああ、生きていてくださった!」
涙ながらに、陳宮に駆け寄り、その無事を喜ぶ兵士たち。それは、絶望の淵にあった彼らにとって、あまりにも大きすぎる希望の光であった。
やがて、再会の興奮がわずかに落ち着きを取り戻すと、陳宮は、改めて勝頼の前に進み出て、深い、深い敬意をもって、泥水に濡れた地面に、額が触れるほどに頭を下げた。
「勝頼殿…いや、これよりは、我が主君とお呼びいたします。某、陳宮公台にございまする。某は、呂布殿の下では、真にこの才を捧げるべき主君を見出すことができませなんだ。某の見る目がなかったのです。されど…されど、貴方様こそ…あの下邳の惨状にあって…民を慈しみ…兵を思い…義を貫かれた…貴方様こそが…この血腥い乱世を終わらせるに足る…真の『仁』と『武』を兼ね備えた…稀代の英傑。この陳宮…これよりは、貴方様を我が主君と仰ぎ…この身命を賭して…貴方様の天下取りの…お手伝いを…仕る所存…! どうか…この陳宮を…お側に…置いてくだされ…!」
その言葉は、形式的なものではない。長年、真の主君を求めて彷徨った軍師の、心の底からの、偽りのない、魂を込めた忠誠の誓いであった。
勝頼は、陳宮の震える手を取り、力強く立たせた。彼の目にも、熱いものが込み上げてくるのを、もう止めることはできなかった。陳宮が生きている。陳宮が自分に仕えると言ってくれている。あの才気溢れる軍師が…!
「公台…! 公台…! 生きていてくれたか…! ああ…本当に…本当に生きていてくれたのだな…! わしは…わしはもう…一人ではないのだな…!」
絶望の淵に沈み、一人孤独に耐え続けてきた勝頼の心に、陳宮の存在は、あまりにも大きすぎる、確かな希望の光として、再び力強く灯った瞬間であった。
「公台…ありがとう…わしは…もう諦めぬ…そなたと共に…この異郷の地で…もう一度…もう一度、風林火山の旗を…掲げようぞ!」
「ははっ!」
陳宮は、涙を拭い、決意に満ちた、力強い声で頷いた。その目には、未来への希望が宿っていた。
故郷を失い、主君を失い、多くの仲間と、そして希望すら失いかけたかと思われた二つの魂が、この辺境の地の古い寺院で、再び巡り合い、固い絆で結ばれた。それは、乱世に生まれ落ちた、新たな伝説の始まりを告げる、運命の再会の誓いであった。彼らの前途には、依然として、曹操という巨大な敵、そして中原の苛烈な戦乱という、多くの困難が待ち受けているであろう。しかし、もはや彼らは一人ではない。武田勝頼と陳宮公台。龍と虎は、再び翼を得て、この広大な中原の空へと、共に翔け上がろうとしていたのである。




