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風林火山、中原を翔ける ~武田勝頼、三国志異聞~  作者: チャプタさん


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第十五話『裏切りの連鎖、呂布の最期』

水攻めにより、下邳かひ城内が腐敗した泥水と絶望、そして病的な猜疑心に沈む中、ついに、多くの者が薄々予感していた恐るべき事態が現実のものとなった。呂布りょふ配下の将、侯成こうせい宋憲そうけん魏続ぎそくらが、この地獄のような状況から逃れるため、そして己の命と、あわよくば恩賞を手に入れるため、密かに曹操そうそうへの降伏と、主君である呂布の裏切りを決意し、行動を起こしたのである。


彼らは、呂布の度重なる理不尽な猜疑心と、極限状態にあっても変わらぬ暴政に耐えきれず、そしてこのままでは曹操軍の水攻めと城内の飢餓、疫病によって、遅かれ早かれ犬死にするしかないという、骨の髄まで染み込んだ恐怖から、裏切りの道を選んだのだ。もはや彼らの心には、かつて僅かに抱いたかもしれない呂布への尊敬や、主君への忠誠心など、欠片も残ってはいなかった。


「もう駄目だ。呂布様は我らを救えぬ。このままでは皆殺しだ」

「曹操殿に降れば、命は助かる…うまくいけば、この功で恩賞も得られるかもしれぬ…」

「そうだ、この期を逃すな! 我らで呂布様を捕らえ、曹操殿への手土産とするのだ!」


彼らは、泥水と死臭が漂う城内の片隅で、人目を忍んで密かに集まり、囁き合った。計画は、呂布がいつものように酒に溺れ、側近たちの警戒も緩むであろう深夜に決行されることとなった。彼らは、僅かな手勢を掻き集め、決行の時を待った。


その、城を揺るがす不穏な動きを、張遼ちょうりょうは持ち前の鋭敏な感覚で、そして勝頼かつより陳宮ちんきゅうの諜報網からの断片的な情報で、いち早く察知していた。張遼は、忠実な部下の兵からの、かすかな、しかし確かな密告や、侯成らの尋常ではない、隠しきれない挙動から、裏切りが近いことを悟ったのである。彼は、血相を変え、勝頼の元へ駆けつけた。


「勝頼殿! 大変だ! 侯成、宋憲、魏続らが怪しい動きをしております! 間違いなく、今夜あたり、呂布様を裏切るつもりかと! 急ぎ、御館様(呂布)にお伝えし、備えねばなりませぬ!」


勝頼も、その報に顔色を蒼白に変えた。水攻めという絶望的な状況に加え、内部からの裏切り。たとえ呂布という主君を快く思っていなくとも、そして彼の自業自得であったとしても、主君が家臣に裏切られるという事態は、日本の武士として、そして人として見過ごすわけにはいかない、最も忌まわしい行為であった。


二人は、曹操軍の厳しい包囲と、城内の混乱、そして呂布の狂気という三重の危険を承知で、彼の居室へと向かった。しかし、そこにいたのは、既に酒に深く酔い、泥水にまみれた現実から完全に目を背け、阿諛追従する能力の低い側近たちに囲まれ、高笑いを上げている、かつての天下無双の猛将の、あまりにも無惨な、見る影もない姿であった。


「呂布様! 危険が迫っております! 侯成らが、今夜、謀反を企てているとの報が!」


張遼が、呂布の肩を揺すり、必死に、切羽詰まった声で訴える。その顔には、主君への最後の忠義と、この状況を覆したいという焦燥が滲んでいた。


しかし、呂布は、張遼の言葉を、酔いと猜疑心によって歪められた頭で理解した。彼は、血走った酔眼を二人へ向け、口元を歪ませ、嘲るように言った。


「何を…何を言うか…張遼! 貴様こそ…貴様こそ、あの東夷の男(勝頼)と組んで…わしを…わしを陥れようと…企んでおるのであろう! そのような…見え透いた嘘で…わしを…わしを惑わそうとしても…無駄だ! わしは…わしは誰よりも…強いのだ…誰にも…裏切られるなど…ありえぬわ…!」


呂布は、完全に猜疑心という名の毒に心を蝕まれていた。彼は、忠告に耳を貸すどころか、自らの疑念を晴らすため、側にいた兵に命じる始末であった。


「こ…こやつらを…捕らえよ…! 裏切り者どもめ…!」


その場に居合わせた陳宮ちんきゅうは、呂布のこの、あまりにも愚かで、あまりにも悲しい姿を見て、ついに、全てを悟った。ああ、この主君は、もう駄目だ。自らの猜疑心と慢心によって、完全に壊れてしまった。もはや、救うことは不可能だと。しかし、彼は、勝頼と張遼のように逃げることを選ばなかった。長年仕えた主君の、せめて最期だけは傍らで見届けようと。


「…呂布様…」


陳宮は、静かに、しかし確固たる声で呟いた。その眼差しは、諦めと、そして深い悲しみを湛えている。


「…某は…某は…呂布様の軍師として…最後まで…お傍にいるのが…務めに…ございます…」


彼は、そう言うと、覚悟を決めたかのように、その場に、泥水に浸かったまま立ち尽くした。それは、長年、呂布という嵐のような男に仕え続けた軍師が、最後に選んだ、静かな、そして血を吐くような別れの言葉のようにも聞こえた。陳宮は、混乱に乗じて、勝頼と張遼に目配せし、「行け! 生きろ!」と無言で促した。彼らを無事に、この地獄から逃がすこと。それが、陳宮にできる、長年、呂布という主君に仕え続けた末の、最後の、そしてたった一つの仕事だと考えたのかもしれない。


勝頼と張遼は、陳宮の、言葉にならない、しかし確かな覚悟を悟り、歯を食いしばった。もはや呂布を救うことは不可能。いや、むしろ彼の傍にいては、自らも疑われ、命を落とすことになるだろう。今は、生き延びることだけを考えねばならない。陳宮の犠牲を無駄にはできぬ。二人は、呂布の側近たちの制止を振り切り、呂布の捕縛に駆けつけた侯成らと鉢合わせする前に、その場を後にした。


その夜、呂布の最期を決定づける計画が実行された。侯成、宋憲、魏続らは、呂布が酒に深く酔い、側近たちも油断している隙を突き、集めた手勢を率いて呂布の寝所へ、まるで獲物を狩るように音もなく忍び込んだ。呂布は、襲撃に気づき、泥酔しながらも僅かに抵抗するが、多勢に無勢。多くの兵に取り押さえられ、もはや天下無双の武勇を発揮する間もなく、なすすべもなく縄を打たれた。かつて虎牢関で十八鎮の諸侯を震え上がらせた猛将の、あまりにも呆気なく、そしてあまりにも無惨な最期であった。呂布の逮捕を知った他の裏切り者たちも、次々と城門を開け、曹操軍を城内へ引き入れた。


城内の混乱を知った勝頼と張遼は、直ちに、呂布ではなく勝頼と張遼に個人的な忠誠を誓っていた「風林火山組」の生き残りの兵士たち数十名を集めた。


「皆、聞け! 呂布将軍は…裏切り者どもによって…捕らえられた! もはや、この城に留まる理由はない! 我らは、ここを脱出し…新たな地で…再起を図る! 覚悟はよいか!」


勝頼の、絞り出すような、しかし確かな言葉に、泥水にまみれた兵士たちは「応! 勝頼様と共に!」と力強く応えた。彼らの忠誠は、もはや滅び去った呂布ではなく、この絶望的な状況でも見捨てずにいてくれた、異邦の将に向けられていた。


張遼が、事前に調べておいた、曹操軍の包囲の中でも比較的手薄と思われる城壁の一角を、地図上で指し示す。そこは、泥水の深さも考慮された、まさに一か八かの脱出路であった。


「勝頼殿、脱出路はここしかありません! 某が先陣を切って、突破口を開きます! 奥方たち(劉備の夫人たち)を、頼みますぞ!」


張遼は、静かに、しかし決意の炎を瞳に宿して言った。


「うむ…! 張遼殿…ご武運を…! 必ず…生き延びるぞ…!」


勝頼と張遼、そして、劉備の夫人たちを抱え、あるいは支えながら、数十名の「風林火山組」の兵士たちは、死の匂いが充満する下邳城壁の一角から、決死の脱出を試みた。泥水の中を進み、縄梯子を使い、冷たい城壁を降りる。彼らは、曹操軍の包囲網と、泥水という自然の障壁、そして城内に残る裏切り者たちの追っ手から逃れるため、必死に闇夜を進んだ。


しかし、夜明け前、城外に出たところで、すぐに曹操軍の哨戒部隊に見つかり、追撃を受ける。暗闇の中、泥水に足を取られながらの、壮絶な逃避行となった。背後からは追撃の鬨の声、矢の雨。


「夫人たちを守れ! 勝頼殿を逃がすのだ!」


「風林火山組」の兵士たちは、勝頼と夫人たちを逃がすため、文字通り盾となり、追撃してくる曹操軍の兵士たちに立ち向かった。日本の刀を抜き放ち、武田流の連携で応戦するが、多勢に無勢。次々とその命を散らしていく。勝頼も張遼も、振り向くこともできず、涙をこらえ、歯を食いしばり、ただ前へ、前へ進むしかなかった。犠牲になった兵士たちの断末魔が、夜の闇に響き渡る。


追撃隊の将、楽進がくしんは、泥水の中、必死に抵抗する異様な部隊の凄まじい奮戦と、その中心で、弱き女性たちを命がけで守ろうとする異邦の将の姿に、どこか心を動かされたのかもしれない。彼は、ある程度の損害を与えた後、そして、敵の主要な将(勝頼、張遼)が逃げたことを確認したか、あるいは単純に深追いは危険と判断したか、「深追いは無用! 引き上げい!」と兵を引き上げた。勝頼たちは、多くの犠牲を払いながらも、九死に一生を得て、追撃を振り切ることに成功したのであった。


翌朝、昇る朝日が、泥水に浸かった下邳城を照らし出した。城は完全に曹操軍の手に落ちた。捕らえられた呂布は、縄を打たれたまま、曹操の前に引き出された。かつて天下無双と謳われた猛将は、見る影もなくやつれ果て、泥まみれになり、見苦しく命乞いを繰り返した。


「曹操殿! 某を生かしておけば、貴殿の天下統一に必ず役に立ちましょう! 某は忠実に仕えますゆえ…!」


しかし、曹操は、冷たい目で呂布を見下ろし、その裏切り多き生涯と、自らの猜疑心と暴政によって自滅した愚かさを鑑み、処刑を命じた。「貴様ほど裏切りを繰り返した男を生かしておけば、いずれ我が身も危うい」と。かつて天下無双と謳われた猛将、呂布奉先は、白門楼の下に露と消えたのである。その最期は、あまりにも呆気なく、そしてあまりにも哀れであった。


一方、共に捕らえられた軍師・陳宮は、呂布の命乞いを、そしてその最期を、静かに見守っていた。彼は、最期まで堂々とした態度を崩さなかった。曹操はその才能を惜しみ、座を勧め、配下に加わるよう丁重に誘ったが、陳宮はこれを拒否した。


「曹操殿。某は、呂布将軍に仕えた身。主君の愚行を止められなかったのは、某の不徳。敗れた以上は、死あるのみ。二君に仕えるつもりは毛頭ございませぬ。どうか、速やかに処断くだされ」


陳宮は、潔く死を受け入れる覚悟を、静かに、しかし揺るぎない意志を示した。曹操も、その高潔な意志を汲み、処刑を命じるしかなかった…かに見えた。


しかし、処刑が執行される寸前、予期せぬ、そして巧妙な混乱が処刑場に起こった。処刑の執行役人の中に、陳宮の旧知であり、その才を深く惜しむ者が、密かに手を回していたのだ。混乱に乗じ、陳宮の姿は、曹操軍の兵士や民衆が入り乱れる雑踏の中へと、まるで煙のように消えた。処刑されたのは、別の罪人であったとも、あるいは用意周到にすり替えられた別の死体であったとも言われる。曹操の元には、陳宮処刑の報告がなされたが、その真相を知る者は、処刑場の混乱を引き起こしたごく少数の者たちだけであった。陳宮は、この乱世から、一度姿を消したのである。


勝頼は、多くの犠牲を払いながら、泥水と血にまみれて、下邳の城を遠く離れた場所から、昇る朝日を見つめていた。城の陥落を悟る。彼の心は、深い疲労と、そして、呂布の最期と、陳宮という、この異郷で唯一心を許せた忠義の軍師を失ったであろうという悲しみ、そして己の無力さへの痛切な思いに、打ちひしがれていた。故郷を失い、新たな場所を失い、そして仲間を失った。


しかし、隣には、全身傷つきながらも、なお鋭い眼光を失わない猛将・張遼がいる。彼は黙って、勝頼の傍らに立っている。そして、背後には、共に地獄を潜り抜け、生き残った僅かな、しかし勝頼に絶対的な忠誠を誓う兵士たちがいる。守るべき、劉備の夫人たちも、不安げな表情を浮かべながらも、彼らに付き従っている。


(…終われない。こんなところで、終わらせてはならない。多くの犠牲を払い、陳宮殿が、あの覚悟を示してまで逃がしてくれたのだ…その思いを無駄にはできぬ…!)


勝頼の心に、深い悲しみと無力感の中から、小さな、しかし確かな、熱い炎が、再び灯り始めていた。この異郷の乱世で、もう一度、生きる道を見つけ、そして己の信じる義と仁をもって、立ち上がるのだ、と。風林火山の旗は、もはや手元にはない。だが、その精神は、まだ彼の心の中に、確かに翻っていたのである。ここから、彼の、真の、そして孤独な戦いが始まるのだ。そして、彼がまだ知らぬところで、運命の糸は、再び彼と、乱世から一度姿を消したあの軍師とを結びつけようと、静かに、しかし確実に動き始めていたのである。

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