第十四話『下邳籠城、絶望の淵』
彭城での野戦に敗れ、多くの兵を失い、士気も地に落ちた呂布軍は、血と泥にまみれながら、最後の砦である下邳城へと逃げ込んだ。しかし、城壁の中に安息はなかった。追撃してきた曹操の大軍は、寸刻の猶予も与えず、城を幾重にも、そして圧倒的な兵力をもって包囲し、外部との連絡を完全に遮断した。城壁の外には、鎧の波が果てしなく広がり、不気味な沈黙をもって、城内への心理的な圧迫を続けている。
曹操は、力攻めだけでは、この堅固な下邳城を落とすのに時間がかかり、兵士たちの疲労も増すと判断した。軍師・荀攸や郭嘉ら知恵者たちの献策を受け入れ、ついに非情極まりない手段に打って出ることを決断したのである。それは、城の近くを流れる二つの大河、沂水と泗水の堤を切り、その膨大な水量と濁流をもって、下邳城を丸ごと水底に沈めんとする、恐るべき「水攻め」であった。
秋霖、冬の長雨が降り続く中、曹操軍の工兵部隊によって、連日にわたり河の堤が次々と切り崩されていく。一夜にして、轟々たる、地響きのような水音と共に、茶色い濁流が、堰を切ったように溢れ出し、奔流となって下邳城へと押し寄せた。城の周囲はみるみるうちに広大な濁流の海となり、水位は恐るべき速さで上昇し、城壁の低い部分や、城下の家々を、容赦なく、音を立てて飲み込んでいった。人々が逃げ惑う間もなく、城内は瞬く間に水浸しとなり、低い場所にある建物や倉庫は、完全に水没した。兵士も民衆も、水から逃れようと、わずかに残った城内の高台や、冷たい城壁の上へと、必死に、そして悲鳴を上げながら避難するしかなかった。
下邳城は、一夜にして、濁流の中に浮かぶ、孤立無援の孤島と化した。そして、その孤島は、生きながらにして落ちた地獄絵図そのものであった。
水は引かず、城内は常に腰まで、膝まで水に浸かったままであり、陰鬱な湿気と、腐敗した悪臭に満ちている。食料の備蓄は、水没によって大半が失われ、かろうじて残ったものも湿気と悪臭で腐敗が進み、急速に底をつき始めた。清浄な飲み水など、どこにもない。濁った汚水しか手に入らず、それを口にした者から、次々と高熱を発し、嘔吐を繰り返す疫病が蔓延し始めたのである。
飢えと渇き、そして病。兵士たちの士気は、もはや地に落ちていた。鎧は重く冷たく、武器を持つ気力すら失われ、ただ水に浸かり、泥にまみれながら、虚ろな目で降り続く雨や、灰色の空を見上げる者も少なくない。人としての矜持など、遥か彼方に消え失せたかのように、あちこちでわずかな食料や、乾いた場所を巡る、獣のような奪い合いが起こり、弱った者、病に倒れた者から、容赦なく死んでいく。水に浮かぶ餓死者の亡骸。病に倒れ、けいれんを起こす我が子を、泥水の中で抱きしめ、なすすべもなく嗚咽する母親の姿もあった。
勝頼は、この目を覆うべき惨状を目の当たりにし、全身の血が冷えるのを感じた。故郷、武田領で飢饉に苦しむ民を見たことはある。戦場での、壮絶な死も幾度となく見てきた。しかし、これは、戦ではない。自然の力と、敵の非道な策によって、人が、武将も兵士も民衆も、人としての尊厳すら失い、ただ飢えと病、絶望の中で、緩慢に、そして無様に死んでいくのだ。彼は、自らのわずかな食料を分け与え、病人の体を拭い、励まそうとするが、押し寄せる惨状の前では、焼け石に水であった。彼の心は、深い無力感と、このような非道な状況を招き、なお酒に溺れる呂布への、静かだが、内側で燃え盛るような、抑えきれない怒りに満たされていった。
当の呂布は、この絶望的な状況と、自らが招いた惨状から、完全に精神の均衡を失っていた。彼は、城内のかろうじて水没を免れた一室に閉じこもり、昼夜を問わず酒を浴びるように飲み、現実から、責任から、そして恐怖から逃避していた。正気と狂気の間を彷徨い、時には、僅かな失敗をした部下を、自らの不満のはけ口とするかのように見せしめのように厳しく罰し、あるいは、お気に入りの側近や愛妾・貂蝉にだけ、残された貴重な食料や美酒を与えては、一時的な安らぎと慰めを求めた。その言動は支離滅裂であり、最早誰も彼を、この窮地を脱する頼れる主君とは思っていなかった。彼の周りには、阿諛追従する者か、恐れおののく者しかいなかった。
陳宮は、頬はこけ、眼窩は落ちくぼみ、やつれ果てた顔で、この泥水の中に沈む城と、そこに生きる人々の惨状を見つめていた。彼は、もはやこのままでは城兵全員が飢えと病、あるいは内部からの裏切りによって犬死にするか、曹操に蹂躙されるかしかないと悟っていた。最後の、そして無駄になるであろうと知りながらも、陳宮は、呂布に僅かに残された理性に訴えようと、彼の元へ赴いた。泥水に膝をつき、額を床に擦り付けるようにして、悲痛な声で諫言した。
「呂布様…呂布様! もはや…籠城は…限界にございます…! このままでは…城兵は…民は…皆…飢えと病で…死に絶えましょうぞ…! どうか…どうか…この期に及んで…ご決断を…! 一か八か…城外へ…打って出て…曹操軍の包囲網を…突破し…活路を開くか…あるいは…あるいは…」
陳宮は、言葉に詰まりながらも、最後の可能性を口にした。
「…曹操に…降伏するしか…我らに…道は…ございませぬ…!」
その声は、長年の苦労と、主君への最後の、そして絶望的な忠告が混じり合い、悲痛な、そして血を吐くような響きを帯びていた。
しかし、呂布の反応は、陳宮の想像を、悲痛な期待を遥かに超えて、冷たく、そして残酷であった。呂布は、陳宮を汚物を見るかのような目で見た。
「降伏だと…? この呂奉先が…あの曹操などに…頭を下げると申すか! 笑止千万! 愚かなことを申すな! 打って出るだと? この泥水の中を…どうやって戦えと申すのだ! 馬鹿を申せ!」
呂布は、陳宮の現実的な忠告を一蹴した。そして、酔いと猜疑心に満ちた目で、陳宮を、その顔を、ねめつけるように睨みつけた。
「…陳宮…貴様…さては…さては…曹操と…通じておるのではないか…? わしに…わしに降伏を…勧めるなど…! 裏切り者の…言い草よ…! 郝萌のように…! 貴様も…わしを売るつもりか…!?」
「そ…そのようなことは…断じて…断じてございませぬ…! 呂布様…!」
陳宮は、愕然とし、全身から血の気が引くのを感じた。長年仕え、自らの全てを捧げてきた主君から、この窮地で、まさかこのような、あまりにも不当で、あまりにも心を抉る疑いをかけられるとは…。その瞬間、陳宮の中で、呂布への最後の忠誠心、最後の希望が、音を立てて崩れ去った。彼は、ついに、呂布への諫言を諦めた。この主君は、もはや救いようがない。自らの愚行と猜疑心によって、破滅への道を、自ら選び取ったのだ、と。陳宮は、泥水に膝をついたまま、力なく項垂れるしかなかった。
勝頼と張遼もまた、この絶望的な状況と、呂布の狂気、そして陳宮が受けた仕打ちに、深い無力感と、そして激しい憤りを覚えていた。彼らは、わずかに残った、勝頼や張遼に個人的な信頼を寄せる兵士たち(風林火山組や陥陣営の生き残りなど)を集め、互いに顔を見合わせ、何とか士気を繋ぎ止めようと奮闘していたが、それも、もはや限界に近かった。
「張遼殿…もはや…これまでか…」
勝頼が、泥水に手を突きながら、力なく呟く。彼の言葉は、最早絶望の色しか含まれていない。
「…勝頼殿…我らも…このままでは…犬死にだ…潮時かもしれませぬな…」
張遼もまた、憔悴しきった顔で、苦渋の表情を浮かべながら応えた。二人は、暗黙のうちに、この泥沼と化した城から、そして狂気に支配された主君の傍から、脱出する可能性を、僅かでも探り始めていた。しかし、城は曹操軍によって厳重に包囲され、水に囲まれている。飢えと病、そして見張りの兵が目を光らせる中で、脱出は、不可能に近いように思われた。
下邳城は、水と飢えと病、そして内部の不和と、呂布の病的な猜疑心によって、まさに絶望の淵に立たされていた。城壁の向こうでは、曹操軍が、獲物が弱りきるのを、静かに、冷酷に待っている。城内の空気は、死臭と絶望、そして裏切りの予感に満ちていた。裏切りの足音が、すぐそこまで、静かに、しかし確実に迫っていた。呂布と、彼と共に籠城する者たちの運命は、風前の灯火。その炎が、いつ消えるのか、それはもはや時間の問題であった。




