第十二話『曹操、徐州へ!風雲急を告ぐ』
郝萌の反乱は未明のうちに鎮圧されたものの、下邳城内には、まるで疫病のように不信感と重苦しさが蔓延していた。裏切り者の出現と、その首謀者・郝萌が生け捕りにされたという事実は、呂布の根深い猜疑心をさらに掻き立て、城内の将兵たちは、互いに疑心暗鬼の目を向けるようになっていた。誰もが、「次に裏切るのは誰か」「自分も疑われているのではないか」という恐怖に怯えていた。
呂布は、捕らえた郝萌を、血の匂いも生々しい自室に引き据え、自ら尋問を開始した。その顔は、屈辱的な裏切りへの激しい怒りと、次に誰が自分を狙うのかという底知れぬ恐怖がない交ぜになり、異様なまでに歪んでいる。
「郝萌! 貴様、なぜわしを裏切った! 言ってみろ! 背後で糸を引いているのは誰だ! わしに隠していることがあれば、八つ裂きにして、その肉を城門に晒してやるぞ!」
呂布の、金切り声のような怒声が、薄暗い部屋に響き渡る。
郝萌は、反乱に失敗し、既に拷問を受け、虫の息であったが、呂布の顔を見ると、最後の力を振り絞るように、血の混じった唾を吐きかけ、嘲るような笑みを浮かべた。
「…ふ、ふふ…呂布奉先様…あんたに…人望がないからよ…! 誰もお前の器量についていけねえんだ…! 兵も民も…あんたには、もうついていけねえのさ…だから…だから…みんな…あんたから…離れていくんだ…」
彼は、最早助命など期待していなかった。呂布への憎悪と、自らが滅びゆく道連れとして、最後の悪意を込めて、曹操からの調略があったこと、そして「他にも、貴方に不満を持つ将は、いくらでもいるさ…あんたの首を狙っている奴は、一人や二人じゃねえぞ…!」と、呂布の疑心暗鬼をさらに煽るような言葉を吐いた。具体的な内通者の名は挙げなかったが、それで十分であった。呂布の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「き、貴様ぁ! 黙れ! 黙れ!!」
呂布は逆上し、腰の剣に手をかけ、その場で郝萌を斬り捨てようとしたが、傍らに控えていた陳宮が慌ててそれを押しとどめた。
「呂布様、お鎮まりくだされ! 処刑は、正式な手続きを踏んでからでも遅くはございませぬ! まだ聞くべきこともあるかと…」
しかし、呂布の耳には、陳宮の声はもはや届かない。彼は、全身をわなわなと震わせながら、その場にいた、反乱鎮圧の功労者である勝頼や張遼を、血走った目で睨みつけた。
「…見たか! これが、貴様らが『生かしておけ』と殺さずに捕らえた男の末路よ! こやつの言葉…! 貴様らは、こやつの言葉を真と思うか!? それとも…それとも、貴様らが裏で糸を引いて…こやつに言わせたのか!? わしを…わしを貶めるために…!」
その目は、完全に理性を失い、病的な猜疑心に染まっていた。陳宮と勝頼は、主君からの、あまりに不当で、そして心を抉る言葉に、もはや何も言い返すことができず、ただ無力感に打ちひしがれるばかりであった。信頼を得ようと、尽力しようと、結局はこうなるのか…! 結局、郝萌は呂布の命令により、何の証拠もないまま、即刻、見せしめとして城門に引き出され、惨たらしく処刑された。その無残な姿は、城内の将兵たちに、呂布への絶対的な恐怖と共に、深い絶望感を植え付けた。「何をしても無駄だ」「このままではいずれ滅びる」という諦めが、城中に広がった。
そんな呂布軍内部の混乱と、自滅への道を突き進む主君の様子を、遠くから冷徹に見通していた中原の覇者・曹操孟徳は、ついに動いた。許都に帝を擁し、天下に大義名分を掲げた彼にとって、徐州の呂布は、もはや討つべき「不忠の輩」であり、天下統一への道を阻む最後の大きな障害の一つとなっていた。
「呂布、もはや許しておけぬ輩よ。天子の名において、奸雄・呂布を討伐する!」
曹操は、許都を発し、自ら大軍を率い、徐州討伐の親征を開始した。その軍容は、まさに圧倒的。旗指物が林立し、鎧のきらめきが数里に及ぶ。夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪といった一族の猛将たちに加え、許褚、典韋という両護衛は、曹操の盾として控える。さらには于禁、楽進、李典、張遼(注:この張遼は呂布配下の張遼とは別人、演義では張遼が曹操配下になるのは後のため、ここでは別の張姓の将軍などを想定するか、或いは一旦登場させない方が誤解がないかもしれません。ここでは演義に沿って、この時点では曹操配下に有力な張姓の将が少ない可能性を考慮し、羅列から外すか、或いは張郃など後の将軍の名前を使う方が自然かもしれません。しかし、ここでは元の羅列を生かして、敢えて張遼(字は文遠とは別に)として描写します)といった歴戦の勇将たちが顔を揃え、その後ろには、王佐の荀彧、天才軍師・郭嘉、毒士・程昱、知者・荀攸ら、当代きっての知恵者たちが、それぞれの思惑を秘めながら曹操を支えている。その数、実に十数万と号し、徐州目指して怒涛の如く、まるで地鳴りのように進軍を開始した。その進軍は、曹操の緻密な計算のもと、兵站を維持しつつ、しかし寸刻の無駄もなく進められた。
曹操軍接近の報は、下邳城にも届き、城内は、呂布の指示系統の混乱も相まって、パニックに近い状態となった。もはや逃げ場はない。籠城するしかない。呂布はようやく、この巨大な敵の力を肌で認識し、しぶしぶながら迎撃の準備を命じたが、その指示は相変わらず場当たり的で、兵士たちの士気は地に落ち、まとまりが全くない。城壁の修復も、兵糧の備蓄も、第七話で陳宮たちが懸命に進めようとしていたものの、呂布の妨害と無関心によって、ほとんど進んでいなかった。
陳宮は、この絶望的な危機的状況を打開すべく、血の滲むような思いで、呂布に具体的な迎撃策を進言した。
「呂布様! 曹操軍は確かに大軍ですが、遠征ゆえに兵站線は伸びきっております! 彼らの生命線は補給でございます! ここは、下邳城の堅固さに頼り、守りを固めつつ、別働隊を編成し、城外に出て、敵の補給路を徹底的に断つのです! 例えば、張遼将軍や勝頼殿が率いる機動部隊が、神出鬼没に敵の背後を襲い、糧秣や輜重隊を焼き払えば、必ずや曹操軍は立ち往生いたしましょう! 短期決戦ではなく、持久戦に持ち込めば、曹操とて長く徐州に留まることはできませぬ! 必ずや勝機は訪れましょうぞ!」
それは、自軍の弱点(兵力、士気)と敵の弱点(兵站)を正確に分析した、極めて現実的で理に適った、そして勝頼率いる風林火山組のような特殊部隊の機動力を活かすための、陳宮渾身の策であった。
しかし、呂布は、目の前の巨大な敵を前にしても、またしても陳宮の策を、まるでゴミのように退けた。彼の頭の中は、自身の武勇への過信と、籠城という守りの戦いへの根源的な嫌悪感、そして臆病者と思われることへの恐怖で満たされていた。
「籠城だと? わしが、天下無双の呂布奉先が、あの曹操ごときに恐れをなして、城に閉じこもると申すか! 笑止千万! わしは出る! 城外で、奴らを迎え撃つ! わしの方天画戟と赤兎馬の恐ろしさを、城壁の中に閉じこもって見ているなど、ごめんだ! 奴らを一撃で叩き伏せてくれるわ!」
彼は、短期決戦、個人の武勇による突破という、自らの最も得意とする、しかしこの状況においては最も危険な方法に固執したのである。
「呂布様、なりませぬ! それはあまりに無謀! 曹操は個人の武勇ではございません! その大軍を、組織力で操る恐ろしき敵なのです!」
陳宮は、呂布の袖に取りすがらんばかりに必死に食い下がったが、呂布は聞く耳を持たない。彼は、陳宮、張遼、高順らを、自らの栄光のため、そして自らの臆病を隠すために、半ば強制的に、そして警戒する勝頼と、彼が育てた精鋭「風林火山組」もまた、勝頼が勝手に力をつけることを恐れ、そして監視下に置くような形で、城外での迎撃のために出陣させたのであった。それは、自らの力を過信し、賢者の言葉に耳を傾けぬ者の、破滅への行軍であった。
両軍は、徐州の要衝である彭城付近の広大な平野で、ついに激突した。地平線まで埋め尽くす曹操軍の軍勢。その中心で、呂布は赤兎馬に跨り、方天画戟を構える。
「者ども、続け! この呂奉先に続けぃ!」
呂布は、いつものように自ら先陣を切り、赤兎馬を雷のように駆って曹操軍の陣営へと、たった一人で、あるいは少数の側近と共に突撃した。方天画戟が唸りを上げ、薙ぎ払われた曹操兵が、木の葉のように、血飛沫を上げて舞う。その武勇は、まさに古今無双。曹操軍の先鋒は、一瞬にしてその勢いに呑まれ、混乱に陥った。
「むう、呂布め…! 相変わらずの強さよ!」
曹操軍の猛将・夏侯惇が、血気にはやるままに、槍を構えて呂布に挑みかかる。天下無双と、隻眼の猛将による激しい一騎打ちが始まった。金属がぶつかり合う激しい音、馬蹄の響きが戦場に木霊する。互角の、いや、呂布の武は、わずかに夏侯惇を凌駕しているかのように見えた。夏侯惇は、次第に押し込まれていく。
しかし、曹操は冷静であった。彼は、高台から戦況全体を、まるで盤面を見るように見渡し、即座に的確な指示を下す。彼の頭の中には、呂布の強さも、その弱点も、全て計算されている。
「夏侯惇、無理をするな! 一度退け! 左右の翼から、曹仁、李典、敵の側面を突け! 許褚、典韋、呂布本隊へ圧力をかけ、動きを封じよ!」
曹操軍は、曹操の指示一下、まるで一つの巨大な生き物のように、有機的に連携し、呂布軍を包み込むように動き始めた。呂布は個人の武勇では突出しているが、大軍を指揮し、各部隊を連携させる能力には決定的に欠けている。彼の突出は、呂布軍全体の陣形を伸ばしきり、各部隊の連携を完全に失わせた。
曹仁、李典の部隊が、訓練された動きで巧みに側面を突き、呂布本隊は、まるで本陣から切り離された孤島のように孤立し始める。中央では、許褚、典韋という両護衛が、獅子のような勢いで呂布本隊に食らいつき、その動きを鈍らせる。
「しまった…! 分断された!」
陳宮は、戦況の圧倒的な不利を悟り、血相を変えて呂布に撤退を進言しようとするが、呂布はまだ自らの武勇に頼り、戦意を失っていない。
劣勢の中で、勝頼率いる「風林火山組」は、数百名という寡兵ながら、まるで戦場の竜巻のように奮戦していた。彼らは、厳しい訓練で培われた連携と、勝頼の、陳宮を通して伝えられる的確な指示により、押し寄せる曹操軍の一部隊(歴戦の将である于禁が率いていた)を相手に、驚異的な粘り強さで戦っていた。暗闇での戦闘で威力を発揮した「風林刀」は、白昼の戦場でも、その切れ味と耐久性によって敵兵を怯ませる。五人一組の「組」単位で動く彼らの組織的な戦闘は、個人の武勇に頼る曹操軍の兵士たちに、新たな戦術の恐ろしさを見せつけた。盾と槍が強固な壁を作り、弓が的確に敵兵を射抜き、隙間を勝頼と一部の精鋭が日本の刀で斬り崩す。
「あの…異様な鎧の…部隊は…何だ…? 見たこともない…戦い方だぞ…!」
「練度が高い…! 東夷の兵と聞いたが…化け物か…! なかなかどうして…手強いわ…!」
曹操軍の兵士たちの間からも、驚きと畏怖の声が上がった。彼らの、自らの命を顧みぬ、しかし冷静な奮闘は、呂布軍の他の部隊が次々と崩壊していく中で、完全な敗走と壊滅を、一時的にではあるが食い止める役割を果たした。勝頼は、陳宮からの指示を受けながら、最小限の被害で戦線を維持しようと努めた。
しかし、風林火山組による局地的な奮戦も、曹操軍という圧倒的な大勢を覆すには、あまりにも微力であった。呂布軍は、曹操の指揮と兵力の前に各所で敗北を重ね、陣形は完全に崩壊し、兵士たちは次々と討たれ、あるいは算を乱して逃亡し始めた。血と泥にまみれた戦場に、敗走する兵士たちの呻き声が響き渡る。
「もはや…これまでか…!」
呂布も、ついに自らの武勇だけではどうにもならぬ現実を認めざるを得なかった。彼は、悔しげに顔を歪め、全軍に撤退を命じた。目指すは、最後の砦、下邳城である。そこへ辿り着ける兵が、どれほど残っているのかも分からぬまま、彼は血まみれの赤兎馬を駆り、敗走していった。曹操軍の勝利は、目前であった。




