第十一話『裏切りと疑心、崩壊の序曲』
中原を睥睨する曹操の大軍は、ついに徐州の境内に深く侵入し、その先鋒部隊が下邳の城下から目と鼻の先にまで迫ってきた。城内には、まるで氷水が流れるかのような緊張が走り、兵士たちの間には、指揮官の号令よりも、いつ襲われるか知れぬという根源的な恐怖による動揺が広がっていた。呂布はようやく事態の深刻さを悟り、城門を固く閉ざし、城壁に兵を配し、迎撃の準備を命じた。しかし、その指示は依然として、迫りくる大軍という現実を直視しない、場当たり的な、その場しのぎの対応に終始しており、強固で効果的な防衛体制を築くには程遠い状況であった。
曹操は、武力による物理的な圧力と並行して、かねてより周到に計画していた呂布政権内部への調略を、この好機を逃さず本格的に開始した。王佐の才・荀彧や、若き天才軍師・郭嘉が練り上げた、人心の機微を巧みに突く策に基づき、弁舌巧みな満寵らが密使として、あるいは身分を隠した商人などに身をやつして、厳重な警戒網を掻い潜り下邳城下に潜入した。彼らの標的は、呂布政権内部に存在する、不満を持つ将や、日頃から呂布に冷遇されている者たち。彼らの心の隙間に入り込み、裏切りを唆すのである。
その標的となった一人が、呂布配下の将、郝萌であった。彼は、自らの武勇を高く自負しながらも、一向に呂布から認められず、重要な役目を与えられない現状に強い不満と焦燥を募らせていた。自分こそが、呂布の側近にふさわしいはずなのに…その鬱屈した心に、曹操からの密使が、囁きかけるように近づいたのである。
「郝萌将軍。貴殿ほどの、この乱世において稀なる武勇がありながら、呂布奉先の下では埋もれたまま。まことに惜しいことですな。我が主君・曹操様は、貴殿の才を高く評価しておられますぞ。もし、呂布を裏切り、城内で我らに呼応してくだされば、乱世で名を上げる機会はもちろん、将軍の位はもちろん、莫大な恩賞をお約束いたしましょう。呂布などに仕えていては、いずれ共に滅びるだけですよ」
甘い言葉と、具体的な見返り。郝萌の心に巣食っていた不満と、己の野心は、曹操の誘いに、まるで火をつけられたかのように燃え上がった。呂布への憎悪と、一気に成り上がれるという誘惑が、彼に主君への裏切りを決意させた。
建安元年(196年)のある夜。雨戸を打つ風の音だけが響く深夜、郝萌は、彼に日頃から恩を受けていた者や、呂布への不満を共有する一部の兵士たち数十名と共に、ついに反乱の兵をひそかに挙げた。目標はただ一つ、下邳城内にあって高枕を貪る呂布の寝所を急襲し、その首を挙げること。成功すれば、曹操への最大の手土産となり、新たな栄華が約束されるはずであった。
しかし、その不穏な、そして血腥い動きは、事前に軍師・陳宮と、猛将・張遼の知るところとなっていた。陳宮は、自らが血を削って強化した諜報網(城内に放った密偵や、目安箱に寄せられた不審な投書など)によって反乱の兆候を掴み、張遼は、信頼する部下の兵士からの、かすかな、しかし確かな密告で郝萌の企てを知ったのである。彼らは、この裏切りが、曹操軍の攻撃と連動する可能性を恐れた。
二人は、夜陰に乗じて、直ちに勝頼を呼び出し、事態を伝え、対策を講じた。言葉の壁は依然としてあったが、彼らの緊迫した表情と、描かれた簡単な図で状況を理解した勝頼も、事の重大さを瞬時に悟った。勝頼率いる特殊部隊「風林火山組」は、この不測の事態のために、幾度となく厳しい訓練を積んできた。彼らは、呂布の寝所周辺に、夜の闇に紛れて密かに配置され、反乱軍を待ち構えた。
深夜、呂布の寝所を目指し、松明も持たずに、ひそかに足音を忍ばせて進む郝萌とその手勢が、建物の角を曲がった、その刹那。
「反乱軍、見つけたり! 討ち取れい!」
張り詰めた静寂を破り、勝頼の号令が響き渡った! 呂布の寝所を守る兵士たちの間から、突然、闇に紛れていた「風林火山組」が躍り出た! 彼らは、事前に訓練された、水が流れるような見事な連携で反乱軍に襲いかかった。暗闇の中、鍛え抜かれた「風林刀」が妖しい光を放ち、一撃で敵兵の鎧を両断し、あるいは骨まで断ち切る。武田流の少人数連携戦術が威力を発揮する。五人一組となった兵士たちが、互いを援護し、盾となり、剣となり、郝萌軍を圧倒していく。郝萌軍は、予想外の場所での、予想外の迎撃と、異様な切れ味の刀による攻撃に混乱し、たちまち劣勢に追い込まれた。
勝頼自身も、愛用の太刀を手に先頭に立って奮戦した。その太刀筋は、中原の武人にはない、鋭く、そして迷いのない軌道を描き、次々と反乱兵を斬り伏せていく。反乱軍の副将格の者が、勝頼の太刀によって胸を貫かれ、血を噴いて倒れた。さらに、張遼も、陳宮の指示を受けて別方向から駆けつけ、残る反乱軍を挟撃する。前後から挟まれた郝萌軍は、完全に包囲され、戦意を喪失した。
郝萌は、血まみれになりながらも必死に抗ったが、ついに勝頼と張遼によって追い詰められ、生け捕りにされた。他の反乱兵も、多くが斬り伏せられるか、恐怖に震えながら降伏し、郝萌の反乱は、夜が明ける前に、完全に鎮圧された。この、呂布の命を狙う反乱を、迅速かつ最小限の被害で鎮圧したことで、「風林火山組」は初めての実戦でその精強さと連携能力を天下に示すこととなり、勝頼の指揮能力と、陳宮の諜報術、張遼の武勇が改めて証明されることとなった。
反乱は鎮圧された。しかし、首謀者である郝萌が「生け捕り」にされたことは、呂布の心に、治癒することのない、取り返しのつかない深い傷と、猛烈な疑念の種を植え付けた。
(わしの家臣の中に…裏切り者が出た…! しかも…生きて捕らえられただと…? こやつ…曹操と通じておったはず…他にもわしを裏切ろうとしている者の名を…白状するのではないか…!? 誰だ…一体…誰が信用できるのだ…陳宮か? 張遼か? あの東瀛の男か!?)
呂布は、捕らえられた郝萌を前に激怒したが、その怒りの矛先は、反乱を起こした郝萌自身よりも、むしろ、この反乱を事前に知っており、そして郝萌を「殺さずに生け捕りにした」勝頼や張遼、そして陳宮にまで向けられ始めたのである。
(なぜ…奴らは反乱を事前に知っていた…? わしよりも先に…? わしに隠していたのか…? なぜ…郝萌をその場で殺さずに捕らえたのだ…? まさか…奴らが裏で糸を引いておったのではあるまいな…? あるいは…郝萌に何かを喋らせて…わしを陥れるつもりか!? わしからこの徐州を奪うための…陰謀か…!)
呂布の猜疑心は、一度芽生えると止めどなく膨れ上がり、功績を挙げたはずの彼らを褒めるどころか、かえって彼らを呼びつけ、詰問し、その行動に露骨な監視の目を光らせるようになった。勝頼たちが血と汗で育て上げた精鋭部隊「風林火山組」も、危険視され、活動を制限される始末であった。
陳宮と勝頼は、呂布のこの態度に深く、そして決定的に絶望した。郝萌の尋問によって、曹操の関与が明らかになれば、呂布もさすがに外部の脅威に目を向け、少しは危機感を抱き、彼らの言葉に耳を傾けるかと、かすかな期待を抱いていた。しかし、結果は逆であった。主君の猜疑心は、もはや誰の手でも、どのような事実でも、手の施しようがないほど深く、病的に根を張ってしまっている。
「…もはや…呂布様を…諫めても…無駄だ…」
陳宮は、虚ろな目で天井を仰ぎ、深い、深い嘆息を漏らした。その声には、長年の苦労と、主君への最後の期待が打ち砕かれた、絶望の色が滲んでいた。
「…この方は…ご自身の…猜疑心によって…自滅への道を…歩んでおられる…我々には…どうすることも…できぬ…」
勝頼もまた、陳宮の言葉に同意するしかなかった。唇を噛みしめ、握り拳を作る。忠誠を尽くそうとしても、力を尽くそうとしても、ただ疑われ、遠ざけられる。かつての武田家中で見た、内部の軋轢や、自身の置かれた苦い経験が、異郷の地で、より深刻な形で繰り返されている。
「陳宮殿…我らは…これから…どうすべきか…このまま…ここに…いては…」
二人は、夜陰に乗じて密かに今後、この呂布の傍でどう身を処していくか、あるいは呂布を見限るべきかについて話し合い始めた。張遼もまた、義に厚い彼にとって、呂布への、もはや形だけの忠誠と、勝頼・陳宮という真の器量を持つ者たちへの信頼の間で、深く苦悩し、心を痛めていた。しかし、城外には、彼らの会話など歯牙にもかけぬ、曹操の大軍が迫っている。今、動くべき時なのか、それとも耐えるべき時なのか、誰も明確な答えを見つけられずにいた…。
呂布軍の結束は、この郝萌の反乱という事件と、それに端を発した主君の病的な疑心暗鬼によって、決定的に崩壊の兆しを見せ始めた。内部に裏切りと不和の種が蒔かれ、それはもはや、呂布政権そのものを内側から蝕む、致命的な病となっていた。曹操は、下邳城の内部で起きているこの状況を、遠くから見守りながら、きっと満足げに、そして冷酷に、ほくそ笑んでいたことであろう。呂布政権の崩壊への序曲は、静かに、しかし確実に、悲劇的な音色を奏でられ始めていたのである。




