第7話:辺境の天才子爵令息
アルヴェリア王国の南東部、遙か辺境に位置するバルド領。
ほんの数年前まで、ここは「王国から忘れ去られた不毛の地」と呼ばれていた。土地は痩せ、街道からは外れ、毎年飢饉の恐怖に怯える、没落寸前の貧乏領地――それが、かつてのバルド領の姿だった。
だが、今のバルド領には、眩しいほどの活気が満ちあふれている。
「おい、せーのっ!」
領民たちの威勢の良い掛け声と共に、川沿いに新設された巨大な木製の水車が、ゴトゴトと力強く回り始めた。川の激流を効率よくエネルギーに変えるそのシステムは、連動した歯車を通じて、精米や製粉の作業を一瞬で終わらせていく。
「すごい……! 若様、本当にこれまでの半分の時間で小麦が粉になりました!」
「信じられん、若様はやっぱり神の使いか、賢者の生まれ変わりに違いない!」
汗を拭いながら満面の笑みを浮かべる領民たちに囲まれ、僕――エリオット・フォン・バルドは、手にした設計図を丸めながら苦笑いを浮かべた。
「いや、ただの効率化だよ。これなら、今年の冬に領民が飢える心配はもうないはずだ。みんな、よく頑張ってくれたね」
優しく声をかけると、村人たちは恐縮したように、しかし心からの親愛を込めて何度も頭を下げた。
彼らが崇める「天才」の正体が、現代地球の基礎技術をこの世界の水準に落とし込んだだけの、ただの三十代の転生者だとは夢にも思っていないだろう。
(よし、これで農業と一次加工のラインは最低限、軌道に乗ったな)
僕は素朴な領民たちの笑顔に満足感を覚えながら、静かに息を吐いた。
*
「お兄様! おかえりなさい!」
石造りの古い領主屋敷に戻ると、八歳になる妹のリリアが、パタパタと足音を立てて可愛らしく出迎えてくれた。その小さな身体を軽く受け止めると、奥の食堂から、現当主である父親のレナードと母親のマリアンヌが、温かい眼差しを向けてくる。
「エリオット、今日も水車小屋の様子を見てきてくれたのか。本当に、お前が生まれてから我が領地は奇跡のように生まれ変わった。バルド家の当主として、いや、この領地を生きる一人の人間として、お前にどう感謝していいか分からないよ」
父はしみじみと語り、病弱な母も嬉しそうに頷く。
食卓に並ぶのは、僕が導入した四輪作農法によって収穫量が増えた新鮮な野菜と、川で獲れた魚のソテー。質素ながらも、飢えとは無縁の温かい団欒がそこにはあった。
(うん、悪くない。元エンジニアの知識さえあれば、この世界でも何とでもなるな。これぞ、誰もが憧れる勝ち組の異世界スローライフってやつだ)
家族に微笑み返し、料理を口に運びながら、僕は内心でそんな風に嘯いていた。
水車、製紙、石鹸、魔導具の改良。手掛けた事業はすべて大成功。周囲には自分を慕う優しい家族と領民がいる。
だが、その完璧な「成功体験」の裏側で、僕の笑顔にはどこか、完成しきっていないパズルのような――奇妙な虚無感が、常にベッタリと張り付いていた。
*
夜。領主の屋敷が静まり返り、家族が寝静まった頃。
僕は明かりも持たず、慣れた足取りで屋敷の地下へと続く階段を下りていた。
冷たい石壁の廊下の奥。厳重に鍵がかけられた厚い鉄の扉を開ける。
その先にあるのは、先ほどまでの温かいスローライフの風景とは一線を画する、無機質で、どこか狂気的な熱を孕んだ『隠し研究室』だった。
カチリ、と魔導具の灯りを点す。
照らし出された壁一面には、この世界の住人が見れば発狂するような精密さで描かれた、巨大な【地球の地図】。そしてその隣には、愛おしそうに微笑む「妻と娘の似顔絵」が貼られていた。
部屋の中央にある黒板には、幾何学的な計算式や数式がびっしりと書き込まれ、その目の前の作業台には、歪な、時空を捻じ曲げるような紫色の光を放つ魔導具の核が鎮座している。
「……今日の水車の効率は計算上、九十八パーセントか。この世界の文明レベルを底上げして、必要な素材を集める環境を作るのに、あと最低でも五年はかかるな」
僕は地図の中の、小さな島国――日本を指先でなぞった。
切なくなるほどの郷愁と、二度と戻れないかもしれない故郷への、底知れない渇望が胸を焦がす。
周囲の連中は、僕のことを「素晴らしい領地経営の天才」「英雄」と称える。だが、そんなものは僕にとって、ただの手段に過ぎない。辺境の王になりたいわけでも、富を築きたいわけでもない。
僕はただ、一刻も早く『帰還魔法』を完成させたいだけだ。
あの世界に置いてきてしまった、愛する妻と、まだ小さかった娘の元へ。
「待っててくれよ。……どれだけ時間がかかっても、この世界の物理法則を完全に書き換えてでも、僕は絶対にそっちへ帰るから」
そう呟いた僕の瞳には、家族を想う父親としての優しさと、目的のためなら世界の理すら破壊しかねない、研究者特有の狂気的な光が宿っていた。
地道な文明開発も、魔導具の研究も、すべてはこの地下室で行われている「時空魔法の実験」の資金と設備を集めるためのパーツに過ぎない。僕は机に向かい、定期的に起動させている【魂を過去の肉体へ飛ばす魔法陣】の出力データを調整し始めた。まだ未完成で、起動しても何も起こらない、失敗続きの魔法陣。
だが、実験は続けなければならない。いつか、繋がるその日まで。
*
ふと、デスクの隅に目を落とす。
そこには、僕がこの領地で独自に観測し、調べ上げてきた「時空の歪み」に関する魔力の観測記録シートが置かれていた。
パラパラと書類をめくっていた僕の手が、あるページで不自然に止まる。
「……なんだ、これ」
僕が地下室で時空魔法の実験を行うたびに、なぜか遙か遠くの【王都】の方向が、奇妙なほど強い魔力の拒絶反応――まるで時間が強制的に巻き戻っているかのような、異常な時空の歪みを示していたのだ。
僕は椅子から立ち上がり、地下室の小さな天窓から、遥か北にある王都の空を見つめた。
「……何か、僕の計算に入っていない、致命的な『誤差』がある気がするな」
天才エンジニアである僕の頭脳をもってしても、その異常振動の理由は分からなかった。
辺境の天才が首を傾げたその瞬間も、王都では二人の終わらない死の歯車が、狂おしく回り続けていた。




