第4話:陥落する砦と、裏切り者の影
一ヶ月。
精神をすり減らすような、退屈で、それでいて一瞬の油断も許されない膠着状態。それが、ある日突然、唐突に――そして最悪の形で打ち破られることになった。
「申し上げますッ!! 『第三砦』が……第三砦が突破されました!!」
深夜の司令部に、血相を変えた伝令の絶叫が響き渡った。
南方要塞を構成する重要な防衛拠点の一つ、第三砦。そこは強固な城壁と魔法結界に守られ、帝国軍の散発的な攻撃など容易く弾き返してきた要衝である。
地図を囲んでいた将軍や幕僚たちは、伝令の言葉に一瞬、意味が理解できずに完全に凍りついた。
「突破されただと……!? 馬鹿なことを言うな!」
白髪の将軍が、怒声を張り上げて伝令の胸倉を掴んだ。
「敵の大規模な攻城魔法は観測されていない! 城壁を物理的に破壊するような兆候もなかったはずだ! 門の防衛兵は何をしていた!? 結界はどうしたのだ!」
「わ、分かりません! 外からの攻撃を受けたわけではなく……突如として、内側から城門が解放されたとしか……ッ!」
その言葉が意味する絶望に、司令部の空気が一瞬にして氷点下へと落ち込んだ。
内側から開けられた。
理由はともかく、現実として門は開いている。そして、百戦錬磨の帝国軍がその致命的な隙を見逃すはずがなかった。
開け放たれた第三砦の門を足がかりとして、暗闇の中から湧き出した帝国軍の精鋭たちが、雪崩を打って要塞の防衛線へと猛然となだれ込んでくる。三万の軍勢という黒い津波が、堅牢な防波堤の『穴』を見つけ、そこから一気に要塞全体を飲み込もうとしていた。
「――予備兵力を全軍投入する!!」
司令部のパニックを切り裂いたのは、レオンの鋭い咆哮だった。
彼はすでに剣帯を締め直し、血走った目で幕僚たちを睨みつけていた。
「第三砦を完全に占拠されれば、そこから内部全体へ敵が浸透する! 俺が先陣を切る! 予備の騎兵隊を率いて敵の橋頭堡を叩き潰し、何としても砦を奪還するぞ!」
「で、殿下! 第一王子たるあなたが自ら最前線に出るなど……!」
「黙れ! 今ここを防げなければ、明日には我々の首が城壁に並ぶことになるんだぞ!」
将軍の制止を振り切り、レオンは夜の戦場へと飛び出していった。
◆ ◆ ◆
第三砦の内部は、すでに阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
突如としてなだれ込んできた帝国兵に、守備兵たちは陣形を整える暇もなく次々と屠られていく。血肉が飛び散り、悲鳴と怒号が入り混じる中、レオンは愛馬を駆り、予備兵力を率いてその死地のど真ん中へと突撃した。
「押し返せ!! 一人たりともここから先へは通すなァッ!」
レオンは第一王子としての華麗な剣技を捨て、泥臭く、ただひたすらに命を刈り取るための剣を振るった。
敵の槍を弾き、首を刎ね、返り血を全身に浴びながら前進する。
だが、第三砦にはすでに帝国軍の精鋭部隊が陣取っていた。重装甲に身を包んだ敵将が、巨大な戦斧を振りかざしてレオンの前に立ち塞がる。
馬から飛び降りたレオンと敵将との、凄惨な一騎打ち。
「死ねェ、王国のひよっこが!!」
「舐めるなッ!」
火花が散り、鋼と鋼が激突する音が夜気を震わせる。
激しい打ち合いの末、レオンは敵将の隙を突き、喉元に剣を突き立てた。しかしその瞬間、死に体の敵将が放った最後の一撃が、レオンの脇腹を深く切り裂いた。
「――ッ!!」
強烈な痛みが走り、豪奢な鎧の隙間からどす黒い鮮血が染み出す。
だが、レオンは傷口を押さえることすらしなかった。己の血と敵の返り血で真っ赤に染まった鬼神のような姿のまま、彼は剣を高く掲げ、血を吐くような声で兵たちを怒鳴り飛ばした。
「敵将は討ち取った!! 門を閉ざせ! 一匹残らず叩き出せ!!」
自ら血を流し、最前線で戦い抜く第一王子の姿に、パニックに陥っていた王国軍の兵士たちは我に返り、士気を取り戻した。凄まじい反撃の末、彼らはなんとか帝国軍を砦の外へ押し出し、再び分厚い城門を閉ざすことに成功したのである。
しかし、その日の猛攻を凌ぎ切り、帝国軍を一時撤退させたレオンたちを待っていたのは、勝者の歓声ではなかった。
夜明けの光に照らされた砦を包んでいたのは、重く、底冷えのするような沈黙。
そこにいる全員の頭の中に、冷たい謎がこびりついて離れなかった。
『――なぜ、砦の門は開いたのか?』
◆ ◆ ◆
戦傷の応急処置を受けたレオンが司令部に戻ると、そこには葬式のような空気が漂っていた。
脇腹の傷が脈打つように痛むが、レオンの心臓を抉っているのは肉体の痛みなどではない。
「……外からの攻撃でも、魔法による破壊でもなかった。門を開けたのは、間違いなく内側の人間だ」
レオンが絞り出すように言うと、幕僚たちは青ざめた顔で顔を見合わせた。
内部崩壊。それは、圧倒的な敵に包囲された籠城戦において、最も恐れるべき事態である。
もしも一般の兵士たちに「我々の中に、帝国に門を開ける裏切り者がいる」という事実が伝わればどうなるか。昨日まで背中を預けていた戦友すら信じられなくなり、疑心暗鬼が軍全体を蝕み、要塞の指揮系統は一晩で完全に瓦解するだろう。
「いいか、今の事実は絶対に漏らすな。公式には『敵の未知の魔法兵器による小規模な城壁の崩壊』と発表する。この事実を外部に漏らした者は、軍律に背いたとみなし、即座に処刑する!!」
レオンは部下たちに厳命を下した。
だが、いくら口を塞いだところで、毒はすでに要塞の奥深くに回っている。
『(第二王子派の工作か……? それとも、純粋に帝国に買収された裏切り者か?)』
椅子に腰を下ろしたレオンの胃の腑が、ギリギリと焼け焦げるように痛んだ。
己の愚かな采配ミスで軍を南に集結させ、帝国を刺激し、この大戦争を引き起こした。そのせいで兵たちを無駄に死なせているばかりか、援軍も来ない孤立無援の状況。その上、自分の足元では味方の皮を被った裏切り者が蠢き、背後から刃を突き立てようとしている。
自分が「第一王子」という威厳を保とうとすればするほど、足元の泥沼は深く、ドロドロと彼を絡め取っていくようだった。
「将軍。情報を一切漏らさずに、極秘裏に犯人をあぶり出せ」
「殿下……それは、極めて困難な作業です」
将軍は苦渋に満ちた表情で首を振った。
情報を漏らさずに裏切り者を探すということは、裏を返せば「誰もが犯人である可能性を考慮しながら、平然と日常の指揮を執り続ける」ということを意味する。一歩でも間違えれば、不自然な探り合いが司令部そのものを空中分解させかねない。
「やらねばならない! 次、門を開けられれば終わりだぞ!」
「…………はっ」
悲痛な命令を受けた将軍と幕僚たちは、重い足取りで会議室を出ていく。
立ち込める重苦しい空気の中、皆が視線を床に落とし、決して他人の顔を見ようとはしなかった。昨日まで共に戦線を死守してきた信頼できる仲間たちが、今は全員『犯人候補』としてしか見られない。
「誰を疑えばいい?」という無言の問いが、見えない重い鎖となって司令部の全員を縛り付けていた。
やがて誰もいなくなった司令室で、レオンは一人、椅子に深く沈み込んだ。
ズキリと痛む脇腹の傷を押さえながら、暗い闇の奥底へと自分の精神がゆっくりと引きずり込まれていく感覚を味わう。
『(……誰も信じられない。誰も頼れない)』
アリシアを遠ざけ、エリオットを後方に下げたのは自分だ。全てを一人で背負うと決めた。
その結果が、味方の顔色を窺い、仲間に怯えながら戦うこの無間地獄だというのか。
「……それでも、この要塞は俺が守る。たとえそれが、仲間を疑い続ける地獄の果てであったとしても……」
暗い部屋の中で、自分自身に言い聞かせるように呟いた声は、空虚な響きとなって石壁に吸い込まれていった。
血を流し、精神をすり減らしながら、ただ一人見えない敵と戦い続ける王子の孤独な姿だけが、そこにあった。




