第4話:王宮の黒い噂
――毒を避け、ベランダを警戒したところで、死の魔の手は止まらない。
それがこの世界のルールなのだと、私は身をもって知ることになった。
「ねえ、聞いた? 王宮の、第一王子殿下のお話」
「ええ、もちろんよ。本当に信じられないわよね……」
私の自室。着替えを手伝ってくれている若いメイドたちが、主である私が鏡の前にいるのも忘れて、声を潜めて内緒話に興じていた。いつもなら窘めるところだけれど、今の私はこの世界の情報を一文字でも多く集めたい。あえて聞こえない振りをしながら、彼女たちの言葉に耳を傾ける。
「一昨日も、夜会からの帰路で激しい襲撃に遭われたのでしょう? それなのに、殿下はかすり傷一つ負わずに生還されたとか」
「どんな暗殺未遂に遭っても、必ず無傷で戻られるのよ。軍部の方々は『軟弱な王子では宿敵のヴァルド帝国に対抗できない』なんて言って、過激な派閥が何度も刺客を放っているらしいけれど……」
「毒を盛られても直前に気づいて杯を割られたり、暗殺者が侵入するたびに、まるで予知していたかのように警備が強化されているんですって。宮廷では『光神ルミエルの申し子』なんて噂されているわ」
鏡越しにメイドたちの盛り上がりを見て、私は内心で盛大に肩をすくめた。
(死なない王子、ねえ。……はぁー、羨ましいわよ、本当に)
毒を盛られただけで即死し、夜風に当たっただけでベランダから突き落とされる自分と比べて、その王子様はどれだけ強運なのだろう。
ループの苦しみなんて微塵も知らない彼女たちにとって、その第一王子は神に守られた無敵の英雄のように聞こえるのだろうが、私にとってはただただ不公平な「運の良さ」の象徴に思えた。
扉が静かに開く。
「お嬢様、お召し替えの最中に失礼いたします」
入ってきたのは、あの白髪の老執事――アルフォンスだった。
その姿を見た瞬間、メイドたちは怯えたようにぴしゃりと噂話を止め、深く一礼して逃げるように部屋を退出していった。
残されたアルフォンスは、いつものように完璧な手つきでブラシを取り、私のプラチナブロンドの髪を梳かし始める。頭皮に触れる絶妙な力加減が心地よい。
「ねえ、アルフォンス。王宮の第一王子殿下は、随分と『ご武運』に恵まれているみたいね」
髪を梳かされながら、私は鏡越しに老執事の目を盗み見た。
「……殿下のご運は、光神ルミエル様の祝福にございます。お嬢様も、そのお力にあやかりたいものでしょうか」
アルフォンスは表情を微塵も変えず、淡々と、しかし極上の敬意を込めてそう言った。
(祝福、ね……)
その言葉に、私は特に深い意味を見出さなかった。この老人はどこまで行っても堅苦しい、公爵家の「完璧な執事」という枠組みの中にいる。今は私の味方のフリをしてくれている(あるいは、本物の味方である)彼に、少しだけ苦笑を返すに留めた。
*
午後。
私は重厚なオークの机が並ぶ図書室に籠もり、グランベル公爵家の家系図と、この国の勢力争いが記された古い資料を広げていた。
「王族の王子様が暗殺されかけるのは、まあ、分かる。ベタな権力闘争ってやつでしょ」
私は資料の文字を指先でなぞる。
「でも、私はどうして? ただの公爵令嬢じゃない。なんでこんなに命を狙われなきゃいけないわけ?」
お茶に毒を盛られ、ベランダから突き落とされる理由が欲しかった。
家系図をじっくりと遡っていく。現公爵である父親の欄。そして、すでに亡くなっているという、私の実の母親の欄に目が止まった。そこには、目を疑うような記述があった。
『前公爵夫人――現国王の妹であり、王位継承権を……』
「……は?」
私の指先がぴたりと止まる。
前妻の娘である私。その亡き母は、王家の血をダイレクトに引く女性だった。
「え、もしかして……これのせい? 私、グランベル家を継ぐ権利だけじゃなくて、王家の継承権にもかすってるってこと……!?」
脳内で、バラバラだったピースが一気に噛み合う。
継母派が自分の息子をどうしても公爵にしたい理由。分家派の叔父が私を全力で排除したがる理由。私が生きているだけで彼らにとっては都合が悪く、かつ王宮の派閥にとっても、婚姻や権力の道具として扱われる。
「ただの女子高生だと思って転生したけど……この身体、とんでもない歩く地雷じゃないの……っ」
どっと冷や汗が溢れてくる。
午前中に聞いた「死なない王子」の噂を思い出し、私は自嘲気味に鼻で笑った。
「王子様はあんなに世界に守られているのに、私は王家の血なんていう呪いのせいで、誰にも守られずに理不尽に殺されるわけ? ……本当に、運がいい人が羨ましいわよ」
私とあっちの王子様とでは、持っている運勢の桁が違うのだ。
そうやって自分の不幸な境遇を王子との対比で自嘲する程度で、この時の私は、まさかその王子が「自分と全く同じ地獄」を共有しているとは、微塵も思っていなかった。
*
頭が痛くなり、私は気分転換に庭園を散策することにした。
運悪く、アルフォンスは当主である父親の急用で屋敷の離れへと向かっており、私の傍には最低限の護衛の騎士が二人いるだけだった。
美しく手入れされた薔薇の生垣を通り抜けた、その時。
――ぴつりと、小鳥のさえずりが不自然に途絶えた。
「お嬢様、下がって――」
護衛の騎士が剣を抜こうとした瞬間だった。
茂みから飛び出してきた、漆黒の衣装を纏った男たちの刃が、またたく間に騎士の喉を切り裂いた。まともな戦闘にすらならなかった。鮮血が薔薇の花弁を汚し、護衛たちがドサリと崩れ落ちる。
(分家派の、殺し屋……!?)
今回は、お茶を避けるとか、ベランダから離れるとか、そんな「対策」を練る余裕なんて微塵もなかった。
完全に逃げ場のない、開けた庭園。
騎士を一瞬で沈めたプロの暗殺者たちが、冷酷な瞳で私を包囲する。
「……あーあ」
迫り来る冷たい刃のきらめきを見つめながら、私の心に去来したのは、諦めにも似た深い溜息だった。
(結局、私の運勢は、あの王子殿下とは大違いってことね……!)
一閃。
首筋に、容赦のない冷たい鉄の感触が走る。
ドク、と視界が圧倒的な赤色に染まり、私の身体はまたしても地面へと崩れ落ちていく。
遠のく意識の向こう側で、あの不発弾の、ベタベタした沖縄の海の記憶が激しくフラッシュバックした。
異世界へ来てから三度目の死が、私の魂を暗闇へと引きずり込んでいく――。




