第3話:死にゲー異世界のチュートリアルが厳しすぎる
あれから、数日が経過した。
あの朝、床にぶちまけられてジュワジュワと絨毯を腐食させた紅茶を見て以来、私は徹底して警戒を続けていた。
けれど、拍子抜けするくらい、その後の日々は穏やかだった。
「お嬢様、本日の朝食でございます。厨房の全食材を私が直々に検分し、毒見も済ませております」
「あ、うん。ありがと、爺さん」
未だに本性の掴めないあの老執事は、文字通り寝食を忘れるほどの献身ぶりで私に仕え始めていた。
私の口に入るものは、水の一滴、パンの一切れに至るまで、すべて彼が自ら毒見をしている。そのお陰か、ここ数日は体調を崩すこともなく、喉を焼かれるあの不快な感覚に襲われることもなかった。
(なーんだ。意外とやれるじゃん、この異世界生活)
ふかふかのソファーに深く腰掛け、私は小さく息を吐いた。
最初の毒殺さえ回避してしまえば、あとは有能な(あるいは、そう演じている)爺さんを盾にして、安全な公爵令嬢ライフを満喫できるんじゃないか。そんな淡い期待すら、胸の内に芽生え始めていた。
*
夜。
豪奢な自室のベッドに入ったものの、どうにも目が冴えて眠れなかった。
私は気晴らしに夜風に当たろうと、薄いネグリジェのままベランダへと足を進める。
キィ、と静かに大窓を開けると、ひんやりとした心地よい風が頬を撫でた。
見下ろせば、微かに光が灯る王都の夜景。遮るもののない広い空には、日本の街中では絶対に見られなかった満天の星々が輝いている。
「綺麗だな……」
胸を突く圧倒的な美しさに息を呑むと同時に、ふと、あの親友の顔が頭をよぎった。
「あんたも、どっかの世界でこんな風に夜景見てんのかな。……それとも、やっぱりうちだけがこんな目に遭ってんのかな」
二次元の男しか勝たんと言っていた、うるさいあいつ。
もしあいつがこの世界にいたら、「うわ、何このテンプレ背景! 画質良すぎ!」とか言って、はしゃいでいたかもしれない。
切ない独り言は、静かな夜の闇に溶けて消えた。
――その、刹那だった。
背後に、不自然な「無音の気配」が湧き上がった。
「え――」
振り返る間もなかった。
私の背中に、大人が全体重をかけたような、暴力的なまでの質量が叩きつけられる。
ドンッ!!!
「――っ!?」
一瞬で、視界が上下に反転した。
浮遊感。足が床から離れ、私の身体は冷たい夜風を切り裂いて、ベランダの外へと放り出される。
眼下に広がるのは、遥か下に位置する、暗く硬質な石畳。
(あ、これ死んだ)
落下していくコンマ数秒、時間の感覚が極限まで引き伸ばされる。
見上げた自室のベランダ。そこには、夜の闇に同化するようにして立ち、私を見下ろしている冷徹な黒い人影の姿が、はっきりと網膜に焼き付いた。
ドゴォンッ!!!!
激突。
毒殺の時のジワジワとした苦しみとは全く違う。
全身の骨が、内臓が、一瞬にして木っ端微塵に粉砕される、脳が焼き切れるほどの猛烈な衝撃と激痛。
叫ぶ暇さえなく、私の意識は強引に千切られた。
「危な――!」
鼓膜をぶち破るような、圧倒的な破壊の轟音と熱量。
突き抜けるような青空と、エメラルドグリーンの海。
私を庇うようにして覆いかぶさってくる、親友の歪んだ顔。
(ふざけんな……ッ!!!!!)
何度目かも分からない、沖縄の海岸。
身体が消滅していく狂気的な熱さの中で、私は涙を流すことすらできず、ただ内なる怒りと恐怖に狂いそうになっていた。
毒を、回避したのに。
お茶を避けて、警戒して、何日も生き延びたはずなのに。
意味がないじゃない。別のルートを選んだ瞬間に、即座に別の殺害方法が起動するなんて、そんなの聞いてない。
このお家騒動は、ちょっと紅茶を避けた程度でどうこうなるような、甘いレベルじゃない。
誰かが、何が何でも、私を絶対に殺そうとしている。
その残酷な現実だけが、容赦なく私の魂へと叩きつけられていた。
*
「ひが、あぁぁぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
四度目の目覚め。
私はベッドから転がり落ちるようにして、床の絨毯へと這い出した。
激しい動悸が止まらない。冷や汗が全身から噴き出している。
自分の手を見る。動く。足も、ちゃんと繋がっている。
けれど、私の脳には、たった今体験した「石畳の冷たさ」と「全身の骨が砕け散った痛み」が、吐き気がするほどの生々しさで残っていた。
死の感覚が、死ぬたびに擦り切れず、そのまま心に蓄積していく。
これは、ただのゲームじゃない。死ねばやり直せる、ぬるいチュートリアルなんかじゃない。
(ここは地獄だ。……誰を信じればいい? 部屋にいても、突き落とされて殺される。安全な場所なんて、この広い屋敷のどこにもない――!)
ガタガタと震え、自分の肩を抱きしめる。
ただ生き延びるためだけに、無意味に死を積み重ねていく絶望。本格的な「死に戻り」のサスペンスが、容赦なく私を侵食していく。
キィ、とドアが開いた。
「――お嬢様!? 一体どうされたのですか!」
心配そうに顔を歪め、銀のトレイを投げ出して駆け寄ってくる老執事。
その姿を見た瞬間、私は床を這ったまま、剥き出しの恐怖で激しく後ずさった。
「くるな……っ! 近くに寄らないで!」
「お、お嬢様……?」
老執事は傷ついたように動きを止め、差し伸べた手を空中で彷徨わせる。
こいつは――本当に味方なのか?
数日間、あんなに献身的に私の毒見をしていたのは、私を油断させるための罠だったんじゃないのか?
さっき、私がベランダから落ちるのを、こいつは知っていたんじゃないのか?
誰も信じられない。目の前の老人の顔さえ、恐ろしい怪物の仮面に見えてくる。
私は膝を抱え、震える声を必死に絞り出した。
「……ねえ。私が死んだら、一体誰が得をするの?」
その問いに、老執事の表情が一瞬だけ、不自然に曇った。
影が落ちたようなその瞳。しかし、彼はすぐにいつもの、慈愛に満ちた完璧な執事の仮面を被り直す。
「お嬢様、何を仰るのですか。貴女様が死ぬことなど、あってはなりません。グランベル公爵家の正統なる血筋たる貴女様は、何があっても守られねばならないのです」
深く頭を下げる老人。
だが、その言葉の裏にあるものが、私を心から慈しむ「忠誠」なのか、それとも底知れない「殺意」なのか、今の私には全く判別がつかなかった。
確かなことは、ただ一つ。
この豪華で美しい公爵邸には、私の命を無慈悲に刈り取ろうとする底なしの悪意が、蜘蛛の巣のように張り巡らされているということだけだ。




