第2話:30秒間の沖縄と、二度目の朝
――ガシャァァァン!!!
白磁のカップが床に砕け散る音。
喉を焼く劇物の苦しみ。肺が融解していくような絶望的な窒息感。
私は転生したばかりの公爵令嬢の身体のまま、床に突っ伏して、二度目の死を迎えた。
意識が急速に、真っ黒な闇の底へと落ちていく――。
「――っ!?」
次の瞬間、私の肺に凄まじい勢いで空気が流れ込んできた。
あまりの激変に、心臓が爆発しそうなほどの警鐘を鳴らす。
視界が開ける。
そこに映ったのは、豪華な公爵家の寝室ではなかった。
突き抜けるような、どこまでも青い空。
照りつける強烈な太陽の光と、潮風の匂い。
小さな身体を投げ出し、涙目になりながら必死の形相で手を伸ばしてくる――前世の親友の姿。
(え……? うそ、またこれ……!?)
デジャヴなんて生易しいものじゃない。
まさに数分前、私が体験した「あの死の瞬間」の沖縄の裏道に、私は完全に引き戻されていた。
親友の身体が、私を全力で突き飛ばす。
ローファーが赤土を滑り、私は地面へと転がった。
「危な――!」 あいつの声が響いた、その瞬間だった。
ピタリ、と。 世界から「音」と「色彩」が完全に消失した。
(……え?)
吹き飛ぶ土埃も、私を庇うように宙に浮いたあいつの身体も、
そして足元から膨れ上がろうとしている致死量の『閃光』さえも。
まるでビデオの一時停止ボタンを押したように、完全に空中で静止している。
モノクロームに染まった無音の世界。動かせるのは自分の視線と、思考だけだ。
圧倒的な死の熱量が迫る0.01秒前の空間で、私の精神(魂)だけが置き去りにされていた。
(なんだこれ……時間が、止まってる……?)
永遠にも思える静寂。 しかし、それは錯覚だった。
私の頭の中に、チクタク、と残酷なカウントダウンが響き始める。
――あと三十秒。 なぜか直感的に理解してしまった。
三十秒後、この一時停止は強制解除され
私たちは再びあの爆発で「死ぬ」のだと。 物理的に逃げることも、
動くこともできない。ただ、絶対的な死が訪れるまでの三十秒間
この絶望的な景色を見せつけられるだけ。
死ぬたびに、あの爆発の寸前に引き戻され
この『三十秒の死の待合室』を味わうというのか。
これが、この世界の「ルール」だというの――?
思考が形を結んだ、その時。 ゼロを告げるように、
世界に色彩と轟音が戻る。
ズゥゥゥゥゥゥン、と。
逃げ場のない熱量が、再び無慈悲に私たちを呑み込んでいった。
*
「ひゅ、――っ、はぁっ、はぁっ……!」
激しくシーツを掴みながら、私は三度目の目覚めを迎えた。
喉をかきむしる。痛くない。焼けていない。空気もしっかり吸える。
視界に飛び込んできたのは、見覚えのある純白のレースの天蓋。
窓からは、まるで何事もなかったかのように、穏やかな朝の光が差し込んでいた。
「お目覚めですね、お嬢様。本日はご機嫌麗しゅうございますか?」
扉が開く音と共に、全く同じタイミングで、全く同じ声が室内に響く。
背筋の伸びた白髪の老人が、銀のトレイを両手で持って入ってきた。さっき私に毒入り紅茶を差し出し、私の死を冷徹に見下ろしていた、あの執事だ。
「…………」
私は全身の震えを必死に抑え込みながら、ベッドの上から執事の顔をまじまじと見つめた。
喉の奥には、まだあのドロリとした劇物の感覚が、鮮明な記憶としてへばりついている。
目の前で恭しく一礼しているこの老人こそが、私を殺した紅茶を運んできた本人。
(この爺さんは、信用できるのか……?)
冷徹に、思考を巡らせる。
こいつが私を殺そうとした犯人そのものなのか。それとも、別の誰かが仕込んだ毒を、何も知らずに道具として運ばされただけなのか。
表情を凝視するが、そこには熟練の執事らしい、完璧に洗練された笑みがあるだけだ。微かな綻びも、焦りも、悪意も見当たらない。
私は深く息を吸い込み、慎重に間合いを測ることにした。
「おや、まだ少々お疲れのようですね。朝の紅茶をご用意いたしました。冷めぬうちにどうぞ、アリシア様」
老執事が銀のトレイから白磁のカップを手に取り、サイドテーブルへと置こうとする。
鼻をくすぐる、豊潤で素晴らしいハーブの香り。
間違いない。私をわずか5分で絶命させた、あの香りだ。
彼の手が、カップをテーブルに置く、その寸前。
「いらないっ!」
私はベッドから身を乗り出し、反射的にその手を強く払い落とした。
ガシャァァァン!!!
激しい破砕音と共に、白磁のカップが床に落ちて砕け散る。
トレイを持った執事の身体が、驚きでピシリと硬直した。
絨毯の上にぶちまけられた、琥珀色の美しい液体。
次の瞬間、信じられない光景が目の前で起きた。
ジュワジュワジュワ……。
液体が染み込んだ高級な絨毯が、不気味な音を立てて泡吹き、どす黒く腐食し始めたのだ。
室内を満たすのは、先ほど私の喉を焼いた、あの鼻を刺すような強烈な刺激臭。
「なっ――!?」
老執事は目を丸くし、トレイを落とさんばかりの驚愕の表情を浮かべた。
お嬢様になんという無礼を、と私を咎めるような気配は微塵もない。彼は「はっ」としたように床の惨状に視線を向け、その顔を激しく歪めた。
「これは……毒!? なんということだ……なぜ、このようなものがお嬢様の紅茶に……!」
老執事は取り乱した様子で床に膝をつき、震える手で絨毯のシミを拭おうとする。
その横顔に浮かんでいるのは、隠蔽の焦りでも、計画が狂った殺意でもない。
私の目から見ても明らかなほど、激しい憤怒――「何者かによる陰謀」への、腹の底からの怒りだった。
「どなたかが厨房に手を回したというのか……! 万死に値する……!」
彼はギリ、と奥歯を噛み締めている。
*
私はソファーの背もたれに身を預け、冷めた目でその光景を観察していた。
「……恐ろしい夢をね、見たの」
「夢……でございますか?」
老執事が床に膝をついたまま、怪訝そうに私を見上げる。
「ええ。その夢の中で、私はあんたが淹れてくれたその紅茶を飲むの。そしたらね、喉が焼けて、息ができなくなって……そのまま死んじゃったのよ。冗談みたいでしょう?」
試すように、あえて静かに告げてみる。
老執事は息を呑み、そして深く、深く、絨毯に額が擦り切れんばかりに頭を下げた。
「お嬢様……なんと鋭い直感であらせられるか。私の不徳の致すところ、お嬢様にそのような恐ろしい予感を与え、あまつさえ本物の牙をここまで近づけてしまうとは……!」
彼の声は、悔しさで細かく震えていた。
(……演技、なの? これが?)
目の前の老人の挙動を、私は冷徹に分析する。
この怒りも、悔し涙も、すべてが本物に見える。もしこれが演技だとしたら、こいつはハリウッド級の名優だ。
名前も知らないこの執事は、本当に私の味方なのだろうか。それとも、毒を仕込んだ黒幕すら欺くための、おそるべき劇場型犯罪者なのか。
現時点では、どちらとも断定できない。
「アリシア様。以後、お嬢様の口に入るものは、すべてこの私が事前に検分いたします。二度とこのような不届き者の侵入は許しませぬ。お嬢様の御身は、この老骨が命に代えてもお守りいたします!」
床に伏せたまま、彼は血を吐き出すような悲壮な覚悟で誓った。
私は、その言葉をそのまま額面通りに信じるほど、お人好しにはなれなかった。
だって、私はさっき確実に殺されたのだ。この世界は、私の知っているぬるい日常じゃない。
けれど、現時点でこの執事を「怪しいから」と排除してしまえば、誰が私に毒を盛ったのか、その真犯人を突き止める術すら失ってしまう。
味方なら利用すればいい。敵だとしても、一番近くに置いておいた方がボロを出しやすい。
(……今は、あんたを泳がせておくしかないわね)
私は、この執事をまだ1ミリも信頼しきれないまま。
それでも、この狂った世界で生き残るための暫定的な「相棒」として、あえて隣に置く決断を下した。
「わかったわ。これからの私の食事、全部あんたに任せる。裏切り者の首、一緒に見つけてちょうだい」
「ははっ……! 必ずや!」
老執事は、歓喜に震えながら再び深く頭を下げた。
こうして、私の二度目の朝は、毒殺を回避するという小さな一歩から始まった。
しかし、これが更なる地獄の入り口に過ぎないことを、この時の私はまだ知らなかった。




