第2話:逃避行と、盤上の腐敗
バルド領の北へと続く街道は、重く引きずるような足音と、車輪の軋む音で満たされていた。
比較的安全とされる北部の都市へ向けて、エリオットとアリシアは五百から六百人規模の領民を引き連れ、果てしない逃避行を続けていた。
急ごしらえの荷馬車には、わずかばかりの家財と老人や幼い子供が乗せられ、大半の者は徒歩で土埃を舞い上げながら進んでいる。不意に住処を追われた領民たちの顔には濃い疲労と不安が刻まれており、時折、堪えきれなくなった子供の泣き声が乾いた空に響いた。
その巨大な集団の先頭付近。アリシアはあてがわれた馬に跨り、エリオットと並んで歩みを進めていた。
しかし、彼女の視線は前方――これから向かうべき安全な北の地――には向けられていない。馬の背に揺られながら、何度も何度もチラチラと後ろを振り返っては、何か言いたげに口をもごもごと動かしていた。
彼女が見つめる先にあるのは、レオンが向かった南方要塞の方角である。
すでにバルド邸すら見えない距離まで離れているというのに、アリシアの心は南の空に釘付けになっていた。
『(3万対5千って……いくらなんでも無茶すぎる。ゲームなら、あんなの絶対に負けイベントだろ……)』
アリシアは手綱を握る手にギュッと力を込める。
前世のゲーム知識によれば、圧倒的な数の暴力の前に少数の軍勢が挑むのは、たいていの場合「味方が全滅してストーリーが分岐する」最悪のパターンだ。強がって一人で出て行った、あの不器用で嫌味な相棒の顔が脳裏にチラついて離れない。
「……心配ですか」
不意に、隣を進むエリオットが静かな声で言葉を投げかけてきた。
アリシアの露骨な態度に、彼が気づかないはずがなかった。エリオットは前を見据えたまま、手綱を握る手を崩さず、大人の落ち着きを持った声で諭すように語りかける。
「ですが、レオン殿下は『第一王子』です。今、あの要塞で軍を鼓舞し、国を……そして背後の民を守るのは、王族である彼にしか背負えない責任であり、義務なんですよ」
その言葉は正論だった。正論すぎるほどに。
エリオットとて、本心ではレオンを助けに行けるものなら行きたいと思っている。元来、彼は必要とあらば自ら最前線に立つことも辞さない気性の持ち主だ。しかし、彼は同時に無駄な血が流れることを嫌う冷徹な合理主義者でもある。
何より、今のエリオットの両肩には、背後を歩く六百人の命が重くのしかかっている。
領民たちは、代々受け継いできた家も、畑も、財産もすべて捨ててきた。ただ「大賢者様なら必ず導いてくださる」という絶対的な信頼と信仰に近い思いだけで、文句一つ言わずに黙ってついてきているのだ。
『(僕が今ここを離れれば、統率を失ったこの集団はたちまち恐慌状態に陥り、瓦解するだろう。最悪の場合、野盗や落ち武者狩りの餌食になる。……僕は、僕に託された命を、何があっても守り切らねばならない)』
それが、領主としての、そして大人としての重い責任だった。
エリオットの横顔には、引き返すことの許されない覚悟が張り付いている。
その横顔を見てしまえば、アリシアはもう何も言い返すことができなかった。
「……分かってるよ。あいつはバカだけど、強いし。簡単にやられたりしないよ」
自分に言い聞かせるように強がりを口にしながらも、アリシアはやはり未練がましく、もう一度だけ南の空を振り返った。どうか無事でいてくれと、祈るような思いを胸に秘めて。
◆ ◆ ◆
同時刻。王国の南端に位置する『南方要塞』の作戦会議室は、ひんやりとした石造りの壁に囲まれながらも、息が詰まるほどの重苦しい空気に支配されていた。
巨大な円卓を中心に、第一王子であるレオン、要塞の防衛を預かる歴戦の司令官(将軍)、そして数名の高級幕僚たち、合わせて十人ほどの首脳陣が集結している。
机の上には、国境地帯の詳細な地図が広げられていた。
そこに置かれた両軍の駒の数は、誰の目にも絶望的な格差を示している。
要塞の元々の駐留軍は三千。レオンが王都から率いてきた近衛兵や、道中で周辺領地からかき集めた兵をすべて合わせても、総兵力はたったの五千に過ぎない。
対する帝国軍本隊は、三万。
平原での野戦でまともに激突すれば、半日と保たずに蹂躙されるだろう。会議の席についた幕僚たちも、満場一致で「籠城一択」という方針を固めていた。
「直ちに王都へ早馬を飛ばし、国軍本隊による援軍の要請を! このままでは要塞が持ちません!」
血気盛んな若手将校が、悲痛な声で叫んだ。それは誰もが抱いている当然の願いだ。
しかし、レオンと白髪交じりの老練な将軍は、若手将校の言葉に冷めた視線を交わすだけだった。
「……すぐには来ない」
レオンが吐き捨てるように、苦々しい声で言った。
「国家の存亡が懸かったこの危機にあっても、あの王都の連中は『権力争い』を優先する。そういう腐った連中だ」
王都の政治力学を知り尽くしているレオンの目には、これから起こる最悪の展開がはっきりと見えていた。
今から王都で大軍団を編成するとなれば、総指揮官に任命されるのは、軍務に長け、軍部とのパイプも太い『第二王子』になるだろう。
第二王子派の思惑は明白だ。政敵であり、次期国王の座を争う第一王子レオンが、この要塞で敵軍に削られ、最悪戦死する。あるいは要塞が陥落するギリギリのタイミングまで、意図的に援軍の派遣を遅らせるに決まっている。
そして、レオンが死に絶え、帝国軍も疲弊しきった最高のタイミングで第二王子が大軍を率いて現れ、敵を叩き潰す。「救国の英雄」としての名声を手に入れ、王位継承権を盤石なものにするために。
『(反吐が出る……!)』
レオンは机の下で、己の拳をブルブルと震わせた。爪が掌に食い込み、血が滲むほどに強く握りしめる。
辺境の兵士たちが血を流して戦っている間、王都の貴族たちは安全な後方でワイングラスを傾けながら、どちらの王子が死ぬか賭けをしているのだ。
「王都での軍団編成と物資の調達に、最低でも二ヶ月。ここまでの進軍に一ヶ月……。どんなに急いでも、我々は『三ヶ月』は持ち堪えねばなりません」
将軍が、死刑宣告を下すかのように重い口を開いた。
しかも、王都の第二王子派による政治的なサボタージュを考慮すれば、この三ヶ月という時間が延びることはあっても、短縮されることは絶対にない。
五千の兵で、三万の猛攻を三ヶ月以上凌ぎ切る。それは文字通り、血の海を泳ぐような過酷な籠城戦を意味していた。
「……弱音を吐いている暇はない」
レオンは強引に頭を切り替え、冷徹な指揮官としての顔を作ると、次々と矢継ぎ早に指示を飛ばし始めた。
「要塞の城壁を徹底的に補強しろ。使える建材はすべて前線に回せ。食料は三ヶ月と言わず、『半年分』の備蓄を確保しろ。近隣の村々から買い上げ、足りなければ俺の個人資産を使え!」
「はっ!」
「それと、王都の俺の派閥に早馬を出せ! 少しでも援軍の編成を早めるため、第二王子派の足を引っ張る政治工作を仕掛けろ! 金も脅しも何でも使え!」
レオンの気迫に押されるように、幕僚たちは次々と敬礼し、足早に会議室を飛び出していく。
やがて誰もいなくなった薄暗い部屋の中で、レオンは一人、地図の上に置かれた帝国軍の巨大な駒――『三万』の数字を憎々しげに睨みつけていた。
『(まだだ。これだけじゃ足りない。三万の軍勢を半年間足止めするために、まだ俺にできることはないか……!?)』
己の浅はかな采配が引き起こしてしまった大戦争。そして、背後から刃を突き立てようとする王都の裏切り。
挟み撃ちのような二重の絶望と重圧に押し潰されそうになりながらも、レオンの瞳には狂気じみた焦燥感が宿り、赤く血走っていた。




