第1話:致命的な采配と、無自覚な刃
夜明けの光が、黒く焦げた大地の輪郭を静かに浮き上がらせていた。
バルド領の空を覆っていた分厚い暗雲は去り、冷たい朝の空気が満ちている。エリオットの規格外とも言える活躍によって帝国軍の先遣隊は退けられ、村を包んでいた炎もようやく鎮火へと向かっていた。
バルド邸の庭先に集まった領民やメイドたちの間には、死地を脱したという安堵の空気が波紋のように広がり始めている。誰もが煤で顔を汚し、疲労困憊であったが、その瞳には生き延びたことへの確かな光が宿っていた。
だが、その微かな希望は、一頭の馬の嘶きによって無残にも打ち砕かれることとなる。
「急報っ……! 急報ぉぉっ!!」
朝凪を引き裂くような、血を吐くような絶叫。
バルド邸の門を潜り、落馬寸前の勢いで転がり込んできたのは、ひどく泥に塗れた南方要塞の軍服を着た伝令兵だった。彼は手綱を握ることもできず、そのまま地面へと崩れ落ちるように倒れ込む。
周囲の兵士が慌てて駆け寄る中、伝令は泥と血に塗れた顔を上げ、空気を引き絞るような声で叫んだ。
「帝国軍本隊……およそ『3万』の大軍勢が、国境を完全に突破……っ! 破竹の勢いで、南方領の盾たる『南方要塞』へと進撃中……!!」
その瞬間、その場にいた全員の呼吸が止まった。
3万。それは、先ほどの先遣隊とは次元が違う数字だ。小競り合いなどではない、国と国とが総力を挙げて激突する『本当の戦争』の始まりを意味していた。
静まり返った直後、バルド領の領民たちやメイドたちの間に、先ほど以上の激しい動揺と悲鳴が巻き起こる。
しかし、その絶望の喧騒の中で、第一王子レオンの顔からはスッと血の気が引いていた。
3万の大軍。帝国の総力戦に近い規模の侵攻。
……なぜだ。なぜ、突然ここまで大規模な軍事行動が起きた?
レオンの優秀すぎる頭脳は、彼自身が望まないにも関わらず、即座にその『原因』を冷酷に弾き出してしまった。
『——俺のせいだ』
頭の中で、ガチャンと致命的な歯車が噛み合う音がした。
ここ半年間の、自分自身の行動。王都での政敵を牽制しつつ、バルド領にいるアリシアの様子を窺うため、レオンは『南方要塞の視察と演習』という名目で、頻繁に中央の精鋭軍を南へと移動させていた。
軍の動きそのものは、王国の防衛力強化という大義名分で覆い隠していたつもりだった。しかし、帝国側から見ればどうだ? 王国の第一王子が、精鋭を率いて国境付近に大軍を集結させつつある異常事態。
『俺が私情で軍を南に集めすぎたせいで……帝国側はそれを「王国からの侵略準備」だと誤認し、先制攻撃に出たんだ……!』
冷や汗がどっと背中を伝う。胃の腑が鉛のように重くなり、吐き気すら覚えた。
アリシアを救いたいという一途な思いと、彼女の傍にいるための権力維持。その個人的な代償が、何の罪もない辺境の民と、数万の兵士の命を巻き込む大戦争を引き起こしてしまったのだ。
自分が引いたのだ。この、数万の命がすり潰される戦争の引き金を。
レオンは震えそうになる拳を、爪が食い込むほど強く握りしめた。
この決定的なミスは、絶対に口には出せない。もし自分が原因だと知れば、心優しいアリシアは間違いなく「私のせいだ」と心を痛め、自分自身を責め立てるだろう。彼女を苦しめることだけは、何があっても避けなければならない。
ならば、この取り返しのつかない大罪は、自分一人で清算するしかない。自分が蒔いた種は、自分の命を賭してでも刈り取る。
レオンは激しく自分自身を追い込み、腹の底で孤独な十字架を背負う覚悟を決めた。
「……静まれ」
レオンは顔を上げ、第一王子としての冷徹で威厳に満ちた仮面を被った。その声には、一切の動揺も私情も挟まれていない。
「俺はすぐに南方要塞へと向かい、全軍の指揮を執る。エリオット殿、あなたはアリシアと共に、領民を安全な後方へと避難誘導してくれ」
その矢継ぎ早の決断を聞いた瞬間、隣にいたアリシアがハッと顔を上げ、レオンの服の袖をギュッと掴んだ。
「待ってよ、3万ってヤバいじゃん! 私の護衛はアルフォンスがいるから大丈夫だよ。エリオットさんにも要塞に行ってもらって、一緒に手伝ってもらえよ!」
アリシアの瞳には、純粋な焦りとレオンの命を案じる優しさが浮かんでいた。
彼女からすれば、それは前世のゲーム感覚に基づいた、極めて合理的な提案だった。3万という圧倒的な敵の数が相手のボス戦なのだから、自陣で最もレベルが高く、広範囲殲滅魔法を使える最強の魔法使い(エリオット)を最前線に投入するのは当然の戦術だ。
だが、その無邪気な言葉は、今のレオンにとって最も残酷な刃となって胸を深く貫いた。
『(アリシアから見ても、俺の力だけじゃ……俺一人じゃ、ダメだって言うのか)』
先ほど、エリオットの圧倒的な力と、領民から向けられる絶対的な信頼を見せつけられたばかりだ。第一王子でありながら、己の無力さと罪深さに激しい劣等感を苛まれているレオンの心に、アリシアのその言葉は、毒のように回った。
彼女は自分よりも、エリオットの力を頼りにしている。自分は、彼女を安心させることすらできない存在なのか。
レオンはギリッと奥歯を噛み締め、胸の奥で暴れ回る感情を分厚い氷で封じ込めた。
「……ダメだ。要塞戦は平原での戦いとは違う」
袖を掴むアリシアの手を優しく、しかし確かな拒絶を持って振り払うと、レオンは尤もらしい理由を並べ立てた。
「彼の大規模な魔法は、閉所や乱戦では味方の要塞ごと破壊しかねない。それに、王国の正規軍は、身分のない民間人の指揮では動かん。軍を統率し、国を守るのは、王族である俺の役目だ」
「でも……っ!」
「殿下の仰る通りです、アリシア嬢」
食い下がろうとするアリシアを制したのは、エリオットだった。
彼はレオンの言葉の裏にある『王族としての責任感』を察し、静かに頷いた。もちろん、レオンの心中で渦巻いている嫉妬や、戦争を引き起こしたという自責の念にまでは気づいていない。
「この領地の民を守るのは、領主一族である私の義務でもあります。要塞の防衛は正規軍に委ね、我々は後方の憂いを断ちましょう。……ご武運を、殿下」
「ああ。……任せたぞ」
レオンは短く応じると、従者が引いてきた自身の愛馬に颯爽と跨った。
手綱を握りしめ、視線を前へと向ける。
「……行ってくる」
最後にそう短く告げたが、レオンはアリシアの顔をまともに見ることはなかった。見れば、決意が揺らぐか、あるいは己の醜い感情が漏れ出してしまう気がしたからだ。
僅かな近衛兵だけを従え、レオンは朝霧が残る南方要塞へと向かって馬を駆け出させた。
巻き上がる土埃の中、遠ざかっていく第一王子の背中。
それはいつも見慣れた頼もしい背中のはずなのに、今朝のレオンの姿は、どこかひどく脆く、今にも壊れてしまいそうなほど危ういものに見えた。
アリシアは自分の胸の奥に、冷たい泥が沈んでいくような嫌なざわめきを感じていた。伸ばしかけた手は宙を掻き、ただ黙ってその背中を見送ることしかできない。
自らの罪をたった一人で清算し、男としての存在意義を証明するため。
誰にも理解されることのない、レオンの孤独で悲壮な戦いが、今まさに始まろうとしていた。




