第9話 大賢者の背中と、取り残された王子
狼煙が上がってから数時間後。夜明け前の薄闇を切り裂くように、一人の兵士が血相を変えてバルド子爵邸へと駆け込んできた。
「殿下ッ! ご報告申し上げます!」
南の国境方面の警戒に当たらせていた近衛兵の一人だった。その鎧には、生々しい傷跡と泥がこびりついている。
「正体不明の武装集団が、突如として南の国境線を突破! 迎撃部隊を蹴散らし、近隣の村を焼き払いながら、真っ直ぐにこのバルド領へと進軍してきています!」
「なんだと……!」
レオンは即座に腰の剣を抜き放ち、鋭い声で邸内に待機させていた自身の軍に招集をかけた。
そのただならぬ気配に、屋敷の奥からエリオットが駆けつけてくる。
「殿下、ただ事ではないようですが……」
「敵襲だ。国境を越えて武装集団がこちらへ向かっている」
「なんですって!? ならば、私も行きます。ここは私の村です、手伝わせてください!」
そう申し出たエリオットに対し、レオンは力強く首を横に振った。
「いや、あんたたちはここに残ってくれ。アルフォンス!」
「はっ」
「お前は屋敷の防衛を固めろ。エリオット殿と、アリシアを頼む!」
『(アリシアの命を救う道筋は、エリオットが作ってくれた)』
レオンは決意を込めて、愛する者のいる屋敷を振り返った。
病という見えない敵に対して、自分は無力だった。しかし、剣を振るって戦う物理的な脅威であるならば、話は別だ。
『(ならば、この物理的な脅威からアイツと、アイツを救ってくれるこの領地を守るのは、俺の役目だ!)』
「出陣する!! バルド領には指一本触れさせるな!」
レオンはそう心に誓い、率いてきた精鋭部隊と共に、まだ暗い明け方の街道を迎撃へと駆けていった。
バルド領の入り口に差し掛かる防衛線。
レオンが前線に到着した時、そこにはすでに凄惨な戦場が広がっていた。
「押し返せ! 陣形を崩すな!」
怒号を上げながら、レオンは先頭に立って刃を交える。
剣を打ち合わせた瞬間、レオンは敵の異質さに気がついた。ただの野盗やならず者の寄せ集めではない。装備の規格が統一されており、何より集団としての連携が洗練されすぎている。
『(……帝国の正規兵か?)』
なぜ帝国が?疑問は湧くが、今は考えている時じゃないか
「おおおおおっ!!」
レオンは泥に塗れながら、死に戻りの経験で培った圧倒的な剣技で次々と敵兵を斬り伏せていく。
幾百もの死線を潜り抜けてきた彼の動きに迷いはない。だが、個人の武力がどれほど飛び抜けていようと、軍と軍の激突においては限界がある。
敵の数は想定よりも遥かに多く、その連携は強固だった。
次第に味方の兵たちが押し込まれ、悲鳴と共に一人、また一人と倒れていく。
『(くそっ! 持ち堪えろ、ここを突破されれば、アリシアのいる館に敵が流れ込む……!)』
レオンの頬を敵の刃が掠め、赤い血が飛沫を上げる。
彼は自ら最前線に立ち、泥と血に塗れながら、必死に崩れゆく戦線を維持し続けていた。
一方、その頃。
少し離れた高台から、エリオットは焦燥に駆られながら戦況を見つめていた。
『(レオン殿下は強い……だが、あの人数の押し合いになれば、確実に被害が広がる。村の家屋にも火の手が及んでいるじゃないか)』
軍同士の真っ当な戦闘は、どうしても被害が甚大になる。
エリオットは小さく舌打ちをした。
『(……僕が行った方が、手っ取り早いな)』
「アルフォンスさん。アリシアさんと館の防衛はお任せします」
エリオットはそれだけ言い残すと、単身で戦場へと向かって駆け出した。
戦場に到着したエリオットは、剣を抜くことも、派手な攻撃魔法を詠唱することもなかった。
彼はただ、地面に両手をつき、規格外の魔力を大地へと流し込んだ。
前世の知識――現代の土木工学と、大賢者の魔力による「環境そのものの操作」。
「――『地盤液状化』」
ゴゴゴゴゴゴッ!!
帝国軍が陣取っていた大地が突如として波打ち、強固な足場が一瞬にして底なしの泥沼へと変貌した。
「な、なんだ!? 足が……沈む!?」
「泥だ! 陣形が維持できん!」
パニックに陥る帝国軍をよそに、エリオットの魔法はさらに続く。
「――『水流誘導』」
領地の横を流れる大きな川の水が、まるで生き物のように意思を持って空へと立ち上った。
それは瞬く間に数十メートルもの巨大な水壁となり、帝国軍の進軍ルートと退路を物理的に完全に封鎖した。
炎も、雷も、氷の刃も使わない。ただ圧倒的な「自然現象」という暴力。
誰も殺さず、ただ地形を変えただけで戦場を完全に支配してしまったエリオットの前に、帝国兵たちは剣を取り落とし、完全に戦意を喪失した。
「ば、化け物だ……撤退! 撤退しろぉぉっ!!」
帝国軍の先遣隊は、泥まみれになりながら這々の体で逃げ出していく。
かくして、バルド領を襲った危機は、大賢者のたった二つの魔法によって、ただの一人の死者も出すことなく終結したのだった。
「さて、次は消火活動ですね」
敵が完全に去ったことを確認すると、エリオットはすぐさま空中の水分を凝結させ、村のあちこちで舞っていた火の粉をピンポイントの雨で消し止め始めた。
その手際の良さと、村を救った圧倒的な力に、避難していた村人たちが次々とエリオットの元へ集まってくる。
「エリオット様!」
「若様、ありがとうございます! 村を守ってくださって!」
「大賢者様万歳! ルミエル様の御使いだ!」
誰もが彼を救世主として讃え、涙を流して感謝の言葉を述べている。
エリオットは「いやいや、大したことはしてませんよ」と、いつもの人の良さそうな笑顔で応えていた。
――その光景を。
泥と血に塗れ、肩で激しく息をするレオンが、少し離れた場所から見つめていた。
レオンは、小刻みに震える手で剣の柄を握りしめている。
自分は命を懸けて前線に立ち、血を流して必死に戦った。
しかし、結果はどうだ。
戦場を終わらせ、真の意味で村を救ったのは、遅れてやってきて「誰も傷つけることなく、たった一人で魔法を使って解決した」エリオットだった。
『(……俺の剣では、アリシアの病一つ治せない)』
ギリッ、と奥歯を噛み締める。
手の中の剣が、ひどく無価値な鉄くずに思えた。
『(俺の軍では、この村一つ守りきれない)』
尊敬していた「兄貴分」だからこそ、その残酷なまでの実力差が、レオンの男としての自信を、そして第一王子としての誇りを、音を立てて粉々に砕いていく。
歓声の中心で、村人たちに囲まれながら優しく微笑むエリオットの背中。
それが、今のレオンには途方もなく遠く、絶対に乗り越えられない巨大な壁に見えた。
「……俺は、何なんだ」
誰に問いかけるでもなく、血に塗れた唇から自嘲が漏れる。
「……俺に、何ができる」
剣の切っ先が、力なく地面へと下がる。
「……俺がいなくても、いいんじゃないか」
その視線の先では、朝日に照らされ、村人たちの笑顔に囲まれたエリオットがいた。




