第2話 要塞観光と、見えない虫
グランベル公爵邸、アリシアの私室。
朝の光が差し込むふかふかのベッドの上で、アリシアは着替えもせずにクッションを抱きしめ、ゴロゴロと寝転がっていた。
「……えー、行かない。絶対行かない」
「おい、我儘言うな。お前の命が懸かってるんだぞ」
ベッドの脇に立つレオンが、南部辺境のバルド領へ赴き『大賢者』に会うという計画を伝えても、アリシアの反応は驚くほど薄かった。
「だって、どうせ二年後に死んでしょ? 毒でも呪いでもない、ただの病気でさ」
ぽつりとこぼしたアリシアの瞳には、かつての活力が抜け落ちていた。
これまでのループのように「暗殺者」という目に見える敵が相手なら、彼女も戦う意志を持てた。しかし、「何をやっても、どこへ逃げても、謎の病気で衰弱死する」という圧倒的な理不尽さは、常に前向きだった彼女の心をポキっと折るには十分すぎたのだ。
「そんな得体の知れない田舎のお医者さんに診てもらったって、どうせ治んないよ。だったら残りの時間、王都で美味しいもの食べて、ダラダラ遊んで暮らしたい」
「アリシア、お前な……」
「殿下、私もお嬢様と同意見でございます」
そこへ、極上の香りを放つ紅茶をワゴンに乗せて、アルフォンスが入室してきた。
彼はレオンの提案に対し、いつもの穏やかな顔に明確な非難の皺を寄せている。
「お嬢様を、得体の知れない辺境などという危険な外へ連れ出すなど言語道断。それに、どうしてもその『大賢者』なる者に会いたいのであれば、公爵家か、あるいは殿下の王家の名で王都へ『呼び寄せれば』よろしいでしょう」
アルフォンスは紅茶をテーブルに置きながら、冷ややかに言い放つ。
「下位の辺境貴族の元へ、王族たる殿下と公爵令嬢が自ら出向くなど、貴族社会の常識外れにも程があります」
「うっ……」
貴族社会の絶対的な常識(大正論)で殴られ、レオンはぐうの音も出ずに言葉に詰まった。
◆
(ヤバい……! このままだと王都に引きこもって病死ルート確定だ!)
なんとかアリシアを外へ連れ出し、エリオットに会わせたいレオンは、必死に頭を回転させた。
「い、いや、ただの治療じゃなくて! そう、旅行だ! 気分転換の旅行!」
「旅行?」
その言葉に、クッションに顔を埋めていたアリシアがピクリと反応した。
「……南に行くってことは、海とかあるの?」
彼女の目が、少しだけ期待に輝く。
海。それは、あの惨劇の温室で、彼らが交わした『爆発しない海へ行こう』というささやかな約束の場所だ。
だが、レオンは内心で滝のような冷や汗を流していた。
(ヤバい! バルド領は内陸の山岳地帯だ! 海なんて欠片もねぇ! 何か……何か楽しい南部の観光スポット……っ!)
第一王子として高度な教育を受けてきたレオンの脳内にストックされている辺境の情報など、軍事か政治か特産品くらいしかない。
「う、海はないけど……よ、要塞があるぞ!」
「……ようさい?」
「ああ! 帝国の国境が近いから、三千人も屈強な兵士が駐屯してる、すっげぇデカい防衛要塞だ! 迫力満点だぞ!」
アリシアの目が、スゥッと冷え切った。
「……何が面白いの、それ。辺境まで行ってマッチョの集団見て喜ぶとでも?」
「い、いや、マッチョだけじゃなくて、分厚い城壁とか! 最新式の大砲とか……!」
「はぁ……。おじいちゃん、私もう一回寝るね」
「お待ちを!」
空気が完全にシベリアのごとく凍りついたのを見て、アルフォンスが優雅に、かつわざとらしく咳払いをした。
「殿下。公爵家の出入り商人の中に、南で取引をしている者が数名おります。まずは噂ではなく、実際にその地を訪れ、賢者とやらに会った者の話を直接聞いてみてはいかがでしょう。すぐにお呼び立ていたしますゆえ」
「た、助かった……」
見事な助け舟を出してくれた老執事に、レオンは心からの感謝と共に冷や汗を拭った。
◆
小一時間後。商人待ちのティータイム。
「すぐ来いって呼びつけるとか、何様だよ。俺様かよ」
「……王子様だよ」
「うわ、自分で言った。引くわー」
「お前が言わせたんだろ!」
いつもの前世のノリで軽口を叩き合う二人。このバカバカしいやり取りをしている間だけは、二年後に訪れる理不尽な死の恐怖を少しだけ忘れられる、穏やかな時間だった。
やがて、慌てふためいた様子の商人が客間に通された。第一王子と公爵令嬢を前に、商人は緊張に震えながらも、話題が『大賢者エリオット』に及ぶと、途端に熱弁を振るい始めた。
「あの方は、本物の偉人です! 間違いなく歴史に名を残します! 蒸気の力で動く巨大な鉄の機械や、川の流れで勝手に水を汲み上げる巨大な車輪など、まるで奇跡のような代物を次々と生み出しておられるのです!」
(蒸気機関……? 水車……?)
話を聞いていたアリシアの目が、少しずつ見開かれていく。
(それって、どう考えても現代知識……。まさか、私やレオン以外にも転生者が……?)
アリシアの中で、エリオットという人物に対する興味の火が、小さく、しかし確実に灯り始めていた。
「それで、その男が治したという風土病の件だが」
レオンが身を乗り出し、本題について問い詰める。
「はい! 賢者様は『顕微鏡』というガラスの筒を作り、水の中に潜む『目にも見えない小さな虫』を発見なさいました! その虫が体内に入ることで病になるのだと証明し、水を煮沸して虫を殺すことで、村人を救ったのです!」
◆
その報告を聞いた瞬間、レオンの胸が大きく高鳴った。
『呪い』でも『毒』でもなく、『目にも見えない虫(細菌や寄生虫)』という、この世界の常識にはない全く新しいアプローチ。
(これなら……! この男の頭脳なら、二年間の猶予があれば、アリシアの病気の原因を突き止められるかもしれない!)
「すぐに出発するぞ!」
レオンが勢いよく立ち上がった。
しかし、アルフォンスは依然として首を縦に振らない。彼は、アリシアが二年後に確実に死ぬという事実を知らないのだ。
「殿下、いくら見所のある男とはいえ、やはりお嬢様を辺境へ連れ出すことには賛同しかねます。私が行き、その者を力ずくで王都へ連行して――」
「アルフォンス、荷造りして!」
アルフォンスの言葉を遮ったのは、他でもないアリシアだった。
さっきまでベッドで死んだように横たわっていた彼女が、目をキラキラと輝かせて立ち上がっている。
「私、そのエリオットって人に、すっごい会ってみたい!!」
蒸気機関や顕微鏡というキーワード。それは彼女の『知的好奇心』を、そして何より『同郷の仲間かもしれないという期待』を強烈に刺激していた。
「お、お嬢様……? しかし……」
「いいから! ほら、早く早く!」
アルフォンスを言いくるめ、嬉しそうに自ら旅の準備を始めようとするアリシア。
そんな彼女の弾むような背中を見つめながら、レオンはふと、胸の奥がチクッと刺すように痛むのを感じた。
(……なんだよ。俺の要塞観光にはあんなに冷たい目をしたくせに)
まだ会ったこともない男の噂話だけで、あんなに目を輝かせて。
アリシアを救うための、希望の旅。
しかしそれは同時に、レオンにとって『愛する彼女の関心が、自分よりも圧倒的に有能で賢い男へと向かっていく』という、男としての劣等感と、人生で初めて味わう強烈な嫉妬の始まりでもあった。
レオンの心に、見えない小さな不安の影を落としながら。
数日後、一行を乗せた豪奢な馬車は、王都を離れ、遥かなる南部辺境の地へと出発したのだった。




