第1話 静寂の海と、見えない絶望
波の音が、やけに大きく、冷たく響いていた。
どこまでも続く青い空と、白い砂浜。視界の色彩は不自然に歪み、上空には世界をすべて終わらせるための「光」が膨張を始めている。
爆発三十秒前の沖縄。死に戻りのたびに必ず訪れる、始まりにして終わりのセーブポイント。
これまでは、ここに来るたびに「あーあ、また死んだ!」「次どうするんだよ!」と、喧嘩腰の作戦会議が始まっていた。理不尽な死に対する怒りや焦りが、二人を突き動かす原動力だったからだ。
しかし今回は、二人とも砂浜に座り込んだまま、ピクリとも動かなかった。
「……また、死んだね」
ぽつりと、アリシアが呟いた。
その声には怒りも、恐怖すらもない。ただ、底なしの疲労と諦念だけが滲んでいた。
「ああ」
レオンは短く答え、己の両手を見つめた。
剣を握りしめ、必死に足掻いたはずの手。だが、今回の死のループにおいて、この手は一度も剣を抜くことはなかった。抜いたところで、斬るべき敵などどこにもいなかったのだから。
重苦しい沈黙が落ちる。ざざぁっ、と押し寄せた波が二人の足元を濡らし、また引いていく。
「……今度こそ……詰んだ?」
アリシアの力ない言葉が、潮騒の中に溶けていった。
上空で、視界を白く染め上げる大爆発が幕を開ける。すべてが光に飲み込まれる中、レオンは強く、強く目を閉じた。
***
第6章 辺境の大賢者
***
光の奔流の中で、レオンの脳裏に「直近の数ループ」の記憶が、ひどく鮮明な悪夢としてフラッシュバックする。
あの狂気の温室での対話を経て、老執事アルフォンスは完全に二人の味方となった。
それは、文字通り「絶対的な盾」を手に入れたことを意味していた。アルフォンスの異常なまでの索敵能力と容赦のない暗殺者排除によって、レオンとアリシアは、数多のループで初めて「完璧な平和」を手に入れたはずだったのだ。
分家派の傭兵も、王妃派の密偵も、彼らが指一本動かす前にすべてアルフォンスが人知れず処理した。
誰も死なない。命を狙われない。
アリシアが望んだ通り、朝起きて、どうでもいいことで笑い合い、ただ当たり前のように明日が来ることを信じられる日々。
だが。
転生から約二年が経過した、ある冬の日のことだった。
その「見えない敵」は、唐突に、足音もなく二人の日常に忍び寄ってきた。
『なんか、最近ちょっと咳が出るんだよね。風邪かな?』
最初は、誰もがただの風邪だと思った。
暖炉の前で笑いながらそう言ったアリシアの頬は、ほんの少しだけ紅潮していた。しかし、その微熱は、王宮の熟練の侍医が診立てを行っても、高位の神官が治癒魔法を何度かけても、絶対に下がることはなかった。
数週間が経過した頃には、アリシアはベッドから起き上がるのもしんどいと訴えるようになった。
深刻な倦怠感。そして、彼女の体内に流れる魔力が、まるで脈絡もなく不規則に乱れ始めたのだ。
ある時は魔力が暴走し、ただ水を飲もうとしただけでガラスのコップを粉々に握りつぶしてしまった。またある時は、体内の魔力が完全にスッカラカンになり、糸の切れた操り人形のように倒れ伏した。
『レオン……ごめん、なんか、力が入らなくて……』
さらに数ヶ月後。
アリシアは別人のように痩せ細り、その肌は雪のように真っ白になった。
髪の艶は失われ、瞳の光は日を追うごとに弱まっていく。
レオンとアルフォンスは、発狂寸前になりながら、あらゆる手を尽くした。
『食事に毒が盛られているのでは?』と疑い、すべての食材の仕入れルートを変更し、アルフォンスが自らの命を削るような異常なまでの毒味を徹底した。
『何らかの呪いか?』と疑い、王国最高位の大司教を莫大な寄付金で呼び寄せ、アリシアの寝室を最高純度の聖水と聖なる結界で埋め尽くした。
『王都の環境が悪いのか?』と疑い、公爵邸から王城の特別室へ、さらには空気が澄み切った最南端の別荘へと、幾度も移住を繰り返した。
結果は、すべて失敗だった。
どれだけ環境を変えようと。
どれほど神に祈り、魔法の粋を集めようと。
アリシアは全く同じ時期に発症し、同じように魔力の異常をきたし、同じように弱り、そして死んでいった。
――フラッシュバックする記憶の最深部。
静かに雪が降る夜。真っ白なベッドの上で、枯れ木のように細くなった腕を伸ばし、力なく微笑むアリシアの顔。
『……ごめんね、レオン。また、この流れかぁ……』
『やめろ……! 諦めるな、喋るな! 絶対に助けるから……っ!』
『ううん、いいの。……レオンや、おじいちゃんが、私のためにすごく頑張ってくれたの、分かってるから……』
徐々に止まっていく呼吸。
触れた指先から、急速に失われていく熱。
剣も魔法も、権力も届かない。最強の執事の手をもってしても、彼女を蝕む病魔の首を絞めることはできない。ただ愛する者が、何の原因も分からぬままゆっくりと死んでいくのを、ベッドの横で眺めていることしかできない。
それは、暗殺者の刃に心臓を貫かれるよりも、はるかに残酷で、最悪の無力感だった。
◆
不発弾の爆発が、世界を完全に焼き尽くす。
炎に飲み込まれる直前、レオンは強く歯を食い縛った。
(もう二度と……あいつがあんな風に弱っていく姿は見ない。俺が、絶対に見させない……!)
ハッと息を呑み、レオンは王宮の天蓋付きベッドの上で目を覚ました。
転生直後、彼にとってのセーブポイントである朝。
窓の外では小鳥が囀り、平和な王都の朝が始まろうとしている。だが、彼の心に安堵はない。
彼らにはタイムリミットがある。あの原因不明の病――あるいは、この理不尽な世界がアリシアを排除しようとするバグのような現象が発症するまで、約二年。
レオンは即座にベッドから跳ね起き、寝間着のまま乱暴に上着を羽織ると、足早に執務室へと向かった。
彼の頭脳は、極限の冷静さをもって現状を分析していた。
(王宮の侍医も、聖光教会の最高位の神官も役立たずだった。つまり、既存の医療や魔法の常識にどれだけすがっても、あいつの病は治せないということだ)
既存のシステムでクリアできないのなら、システムの外側からアプローチするしかない。
レオンは、王宮内のネットワークや公的な医療機関を完全に切り捨てることを決断した。彼が求めるのは、「既存の常識に囚われない、異端の知識を持つ者」だ。
◆
それからの数日間、レオンは第一王子としての権力と私財を惜しみなく注ぎ込み、水面下で大規模な情報収集を開始した。
王都に出入りする他国の商人、各地を渡り歩く放浪の学者、さらには裏社会で暗躍する怪しげな薬師や呪術師たちを秘密裏に集め、この世界の『未知の医療』や『常識外れの奇跡』に関するあらゆる噂をかき集めさせた。
玉石混交の報告書。そのほとんどが眉唾物の詐欺まがいの情報ばかりだった。
徹夜が続き、目の下に濃い隈を作ったレオンが、執務机に積まれた羊皮紙の山を苛立たしげに払いのけようとした時。
ある旅商人から上がってきた一枚の報告書に、彼の視線がピタリと釘付けになった。
「……なんだ、これは?」
レオンは報告書を手に取り、目を細めた。
そこに記されていたのは、王都から遠く離れた南部辺境の地についての奇妙な記述だった。
『南部辺境――バルド領。そこでは数年前、神官すら見放し、不治とされていた奇病(風土病)が、一夜にして根絶された』
レオンは即座に、その情報を持ち込んだ商人を執務室に呼び出した。
「このバルド領の奇病の件。治癒魔法を使ったのか? それとも、教会から聖遺物でも取り寄せたのか?」
レオンの切気迫る問いに、商人はひどく緊張した面持ちで首を横に振った。
「い、いえ。魔法でも神の奇跡でもございません。領主の長男が、見たこともない『ガラスの筒』を用いて病の正体を突き止め、独自の『薬』を調合したのだとか……。今や彼は、南部一帯で『大賢者』と崇められ、領民からは神の使いのように信仰されているそうです」
ガラスの筒。
その言葉を聞いた瞬間、レオンの脳裏に前世の記憶が閃いた。
(……顕微鏡か!?)
この中世ヨーロッパレベルの魔法世界において、微生物や病理学の概念など存在しないはずだ。それを、ガラスの筒を使って突き止めた?
レオンは震える手で報告書を握りしめ、そこに記された「大賢者」の名を強く指でなぞった。
――『エリオット・フォン・バルド』。
既存の魔法に頼らず、未知の病理を解明する圧倒的な、そして異質な知識。
それは間違いなく、この世界の常識から逸脱した者の所業だ。
(……もしかしたら。こいつなら、アリシアを治せるかもしれない)
病という見えない絶望に沈みきっていたレオンの瞳に、強烈な希望の光が宿った。
まだ時間はある。どんな手を使ってでも、この『エリオット』という男を引っ張り出し、その知識を吐かせる。
「出立の準備をしろ! 行き先はバルド領だ!」
近衛騎士にそう怒鳴るように指示を出し、レオンは執務室を飛び出した。
何も知らず、きっと今頃公爵邸で能天気に朝食のパンを齧っているであろう愛しい少女の元へ、レオンは希望を胸に全速力で駆け出したのだった。




