第6話 冷めた紅茶と、三人のお茶会
冷ややかな刃先が、アルフォンスの喉元でピタリと静止していた。お茶室を支配する緊迫した静寂の中、レオンはゆっくりと剣を下ろした。
チャキッ、と。金属が擦れる冷たい音が響き、白銀の剣が鞘に収められる。
「……あんたの言う通りだ。俺はまだ未熟だ」
王族としての虚勢も、見栄もすべて捨て去った、嘘偽りのないレオンの声だった。
「まともに戦えば、俺はあんたの足元にも及ばない。今までだってそうだ。あんたがアリシアを庇い続けていたから……その縛りがあったから、俺は生きていられただけだ」
アルフォンスの瞳が、僅かに見開かれる。
(なんだ、この男は……?)
彼は第一王子だ。自身の命を狙い、殺意を剥き出しにした一介の使用人に対して、己の非力さを素直に認め、あまつさえ頭を下げるなど、王族としてあり得ない振る舞いだった。何十年も被り続けてきたアルフォンスの「完璧な執事の仮面」が、激しく動揺してヒビ割れていく。
「だから、助けてくれ」
レオンは、アルフォンスを真っ直ぐに見据えて懇願した。
「俺一人じゃ、この理不尽な世界からアリシアを守りきれない。……あんたの圧倒的な力が、どうしても必要なんだ」
レオンの言葉を受け、背後にいたアリシアが一歩、また一歩とゆっくりアルフォンスへ歩み寄る。
アルフォンスは反射的に後ずさろうとした。己のような怪物が、清らかな彼女に近づいてはならないと本能が叫んだのだ。だが、アリシアは逃がさなかった。
彼女は、無数の暗殺者を葬り去り、つい先日レオンの心臓をも貫いたアルフォンスの手を、自身の両手でしっかりと包み込むように握りしめたのだ。
「おじいちゃん」
震えるような、けれど深い愛情のこもったアリシアの声。
アルフォンスの肩がビクッと跳ねた。
「……今まで、一人で重いもの背負わせて、ごめんね」
アリシアは、アルフォンスの皺の刻まれた手を見つめながら、ポツリと溢す。
「私が今こうして生きていられるのは、全部おじいちゃんのおかげだよ。私のために、ずっと手を汚してくれていたんだよね。……本当にありがとう」
「お嬢……様……」
「でも、もう一人で戦わなくていいよ。これからも、私の側にいてほしい。……レオンと一緒に、三人で、平和な明日を迎えたいの」
その温かい言葉と、掌から伝わる確かな体温。
それは、アルフォンスの魂を縛り付けていた呪いを解く光だった。亡き奥様から託された『守って』という血塗られた呪縛が、孫娘からの『側にいて』という真っ直ぐな願いによって、音を立てて崩れ去っていく。彼を支配していた殺意も、狂気も、強迫観念も、春の雪解けのように完全に溶かされていった。
アルフォンスは、アリシアに優しく握られた自分の両手を、激しく震える目で見つめた。
彼の脳裏に、これまでお嬢様の絶対的な安全を守るために自分が殺してきた、無数の人間たちの記憶が濁流のように蘇る。分家の手の者、王妃派の密偵、そして何より、眼の前に立つレオンハルトの温かい血の感触が、この両手にはべっとりと染み付いているのだ。
(ああ……私は、なんということを……)
アルフォンスは悲痛な顔に歪み、アリシアの温かい手から、自分の手をそっと、けれど明確な拒絶をもって引き離した。
「……もったいないお言葉です、お嬢様。ですが……」
搾り出すような声は、ひどく掠れていた。
「私の手は、あまりにも多くの血を吸いすぎました」
彼は、空っぽになった自分の両手を見つめ、嗚咽を漏らす。
「この薄汚れた手で、お嬢様のその白く清らかな手に触れる資格など……私には、とうの昔に失われているのです……っ」
常に完璧な笑みを浮かべ、少しの隙も見せなかった老執事の顔は、もうそこにはなかった。
「私にはもう……この薄汚れた手で、お嬢様に触れる資格などないのです」
絞り出すような声とともに、アルフォンスは後ずさった。
彼の右手には、先ほどレオンの命を奪おうとした銀の暗器がまだ握りしめられている。その鋭い刃先は細かく震え、彼がどれほどの葛藤と自責の念に苛まれているかを雄弁に物語っていた。
何十人、何百人。愛する孫娘を守るためとはいえ、彼がその手で命を散らしてきた者の数は計り知れない。自らの手を血で染め続けた怪物に、光の当たる場所を歩く資格などない。光に近づけば、その清らかな輝きを汚してしまうだけだと、彼は何十年も自分に言い聞かせてきたのだ。
アルフォンスの膝から力が抜け、彼は崩れ落ちるようにその場に膝をついた。
◆
膝をつき、嗚咽を漏らまいと必死に顔を伏せるアルフォンス。その肩は微かに震え、お茶室は水を打ったように静まり返っていた。
アリシアは静かに視線を巡らせ、テーブルの上へと目を向けた。そこには、先ほどの死闘の最中にすっかり冷え切ってしまった、二つのティーカップが置かれている。
彼女はゆっくりと息を吸い込み、背筋を伸ばした。
そして、かつてないほど凛とした、グランベル公爵令嬢としての誇りを込めた声で告げた。
「紅茶が冷めてしまったわ。入れ直してちょうだい、アルフォンス」
◆
その声を受けて、アルフォンスはゆっくりと顔を上げた。
常に微かな微笑みを張り付け、何事にも動じなかった完璧な執事の仮面。それは今や見る影もなく崩れ去っていた。
皺の刻まれた目尻から、何十年もの孤独と後悔、そして狂気を洗い流すかのような、一筋の大きな涙がこぼれ落ちる。
「……かしこまりました。ただちに、最高の一杯を」
深く、一礼し、アルフォンスは震える声で答えた。
彼が流した大粒の涙は、それを見守るアリシアとレオンの足元で、静かに床の絨毯へと吸い込まれていった。
◆
やがて、お茶室に再び芳醇な茶葉の香りが満ちた。
アルフォンスは新しいティーポットを用意し、慣れた手つきで紅茶を淹れていく。いつもは機械のように正確で無機質な彼の手が、今日だけは微かに、しかしどうしようもなく嬉しそうに震えていた。
アルフォンスが恭しくアリシアとレオンの前にカップを置き、いつものように壁際へと一歩下がろうとした、その時だった。
レオンが静かに立ち上がり、テーブルに置かれていた三つ目の――誰も座っていなかった椅子を引いた。
「今日は、アルフォンスも一緒に飲もう」
「……え?」
思いがけないレオンの誘いに、アルフォンスは目を丸くして足を止める。
「使用人が、主であるお嬢様や殿下と同席するなど、そのような不敬は……」
戸惑い、古き良き礼節を盾に辞退しようとするアルフォンス。しかし、アリシアが満面の笑みを浮かべ、力強く頷いた。
「座って、おじいちゃん。今日は三人でのお茶会だよ」
その言葉に背中を押され、アルフォンスはゆっくりと椅子へと歩み寄った。数十年に及ぶ公爵家への奉公の中で、彼が主たちと同じテーブルにつき、自らのために淹れたティーカップを手にするのは、これが初めてのことだった。
◆
窓の向こうから、穏やかな朝の光が差し込んでくる。
これまでこの部屋を覆い尽くしていた重苦しい死の気配や、張り詰めた殺気は、もうどこにも残っていない。
三人は同時に、温かい紅茶の入ったカップを口へ運んだ。
極上のダージリンの香りが鼻腔を抜け、冷えた体を芯から温めていく。
「……うまいな」
レオンは、長きにわたる死のループの重圧からようやく解放され、肩の荷が完全に下りたような清々しい顔で笑った。
アリシアもまた、心からの安心と喜びに包まれた笑顔で、コクコクと嬉しそうに頷く。
二人のその様子を見つめながら、アルフォンスはカップを持たない方の手で、目元をそっと指で拭った。
そこにあるのは、底知れぬ狂気を孕んだ「怪物の微笑み」ではない。愛する家族と共にテーブルを囲み、平穏な明日を信じることができるようになった、本物の優しく穏やかな好々爺の顔だった。
「……本日の紅茶は、少し塩味がきついですな」
照れ隠しのように呟かれた老執事の冗談に、レオンとアリシアは顔を見合わせ、やがて弾けるように笑い声を上げた。アルフォンスもまた、つられるようにして静かに、けれど心から嬉しそうに目を細めて笑う。
三人の温かく穏やかな笑い声が、朝の光に満ちたお茶室に響き渡っていく。
何百回もの凄惨な死のループを経て、最強にして最恐の障害であった老執事は、ついに心強い「家族」へと変わった。
もう、誰も死なない。理不尽な暗殺の影に怯えることもない。
完全な勝利と、初めて手にした本物の平和の余韻を深く噛み締めながら――彼らの最も長く過酷だった戦いは、静かに幕を閉じたのだった。




