第5話 雪の朝、最初の死体
昨夜からしんしんと降り続いた雪は、王宮の広大な庭園を淀みない純白のヴェールで覆い尽くしていた。
分厚いカーテンの隙間から差し込む冬の冷たくも眩しい朝日に目を細めながら、レオンは天蓋付きの豪奢なベッドの上でゆっくりと身を起こした。
肌寒い空気の中、ふと自分の右手に視線を落とす。
そこには、昨夜、暖炉の前で握りしめたアリシアの小さな手の感触と、微かな熱がまだ残っているような気がした。
『今日のお前、ちょっとずるい』
『なんか……その、無駄に王子様っぽいっていうか……っ!』
真っ赤になって慌てふためいていた彼女の顔を思い出し、レオンは堪えきれずにベッドに突っ伏し、一人で声を殺して身悶えした。
(あいつ、最後に「ずるい」って言ったよな……!? あれって、少なからず男として意識してくれたってことだよな!?)
死に戻りの無間地獄の中で、ようやく見えた一筋の光。限界を迎えていた胃痛が、今は心地よい幸福感と甘い疼きに変わっている。
ふとサイドテーブルに目をやると、昨夜アルフォンスが淹れてくれたカモミールティーの茶器が、まだ片付けられずに残っていた。ほんのりと甘い香りの名残が、部屋の空気に溶け込んでいる。
(あのお爺ちゃんがいなかったら、昨日のあの時間はなかった。……いつか、ちゃんと恩返ししないとな)
そんな呑気なことを考えながら、レオンは身支度を整え、足取りも軽く執務室へと向かうための扉を開けた。
◆
しかし、その軽やかな足取りは、王宮の中庭に面した渡り廊下に差し掛かったところで完全に凍りついた。
朝の静寂に包まれているはずの中庭が、異様な喧騒に包まれていたのだ。数十人の近衛兵たちが青ざめた顔で立ち尽くし、厳重な規制線を張っている。
「……何があった?」
嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、レオンは足早に人だかりへと歩み寄った。兵士たちが第一王子の姿に気づき、弾かれたように道を空ける。
そして、レオンの視界に『それ』が飛び込んできた。
純白の雪キャンバス。その中央に、まるで巨大な赤い花が咲き誇ったかのように、どす黒い血溜まりが円状に広がっていた。
「……嘘だろ」
血の海の中で、うつ伏せに倒れていた骸。
それは、事件でレオンに「(軍用魔術)の痕跡」を密かに報告してきた、レオンが最も信頼を寄せる優秀な腹心の近衛騎士だった。
つい昨日まで、王宮の警備について冷静に言葉を交わしていた男の、生命の灯火が完全に消え失せた冷たい肉塊。
『誰も死なない。暗殺者も来ない』
『私、初めて明日じゃなくて未来がある気がする』
昨夜のアリシアの安堵に満ちた言葉が、耳の奥で残酷な耳鳴りとなって反響する。
平和など、最初から訪れてはいなかったのだ。
◆
「……触れるな! 俺が検分する!」
制止しようとする他の騎士たちを鋭い一喝で退け、レオンは雪の上に膝をつき、震える手で部下の遺体を仰向けに返した。
死後硬直が始まりかけた首元には、見覚えのある傷跡がぽっかりと口を開けていた。
(一撃で急所を貫く、無駄のない刃物の痕……。あの分家派の傭兵団を全滅させた手口と、全く同じだ……ッ!)
その時、レオンの指先が、騎士の懐の不自然な膨らみに触れた。
血に濡れた軍服の裏地から引きずり出したのは、小さく折りたたまれた『極秘調査書』の一部だった。どうやら彼は、この報告書をレオンに届ける途中で命を絶たれたらしい。
滲む血を拭い、レオンはそこに記された乱れがちな走り書きに目を落とした。
【殿下、軍用魔術の痕跡は『偽装』です。何者かが意図的に王妃派の魔力残滓を現場に残留させています。真の犯人は、王宮と公爵家の警備網を完全に把握している、内部の——】
文字は、そこで血の染みと共に乱れ、途切れていた。
読んだ瞬間、レオンの全身の血液が、文字通り氷のように冷たく凍りついた。
(第三勢力など、存在しなかった……?)
全ては、自分たちの目を逸らすための巧妙な『偽装工作』だったのだ。
王族直属の極秘調査の裏をかき、この優秀な騎士の動きを正確に把握して音もなく暗殺し、死体の隠蔽すら必要ないとばかりに放置する異常な自信。
何より、厳重な公爵家と王宮の警備網を、顔パス同然で怪しまれることなくすり抜けられる人間。
◆
『まさか……嘘だろ』
レオンの頭の中で、すべてのパズルのピースが、最もおぞましい形を描いて組み上がっていく。
昨夜、暖炉の前で温かいお茶を淹れてくれた、あのしわくちゃの笑顔が脳裏にフラッシュバックする。
『お二人とも、夜更かしはほどほどになさってくださいね』
あの優しげな声。あの慈愛に満ちた瞳。
すべてが、完璧に計算され尽くした『芝居』だったとしたら?
『アリシアの家族だぞ!? アリシアがこの世界で一番信頼している人間だぞ!?』
必死に否定しようとする理性を、残酷なまでの状況証拠が冷酷に打ち砕く。
暗殺者たちの気配を誰よりも早く察知し、痕跡すら残さず消去できた理由。王宮の内部構造に精通している理由。アリシアに近づくあらゆる不確定要素を、単独で排除し得る狂気と執着。
すべての矢印が、【アルフォンス】という一人の老執事を指し示していた。
◆
「アリシア……!!」
レオンは弾かれたように立ち上がり、雪を蹴立てて狂ったように駆け出した。
今、この瞬間も、アリシアは己の部屋で、あの得体の知れない「化け物」と二人きりでいるのだ。
冷たい空気が肺を焼き、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち鳴らされる。頭が真っ白になり、ただ「間に合ってくれ」と、血を吐くような祈りだけが脳内を支配していた。
渡り廊下を駆け抜け、階段を一段飛ばしで駆け上がる。アリシアの私室の前で警護に当たっていた近衛兵が「殿下!?」と驚いて制止しようとするのも構わず、レオンは力任せに分厚いオーク材の扉を蹴り開けた。
バンッ!! と、凄まじい音が部屋中に響き渡る。
「アリシアッ!!」
惨劇を覚悟し、最悪の光景を予期して踏み込んだレオンの目に飛び込んできたのは――凄惨な死体でも、血溜まりでも、怯えて震えるヒロインの姿でもなかった。
「あ、レオン。おはよう! どうしたの血相変えて。朝練の時間にはまだ早いよ?」
朝の光が差し込む窓辺のテーブル。
そこには、焼き立てのスコーンを片手に、全く何事もなかったかのように呑気に笑うアリシアの姿があった。
そして。
彼女のすぐ背後には、磨き抜かれた純銀のティーポットを優雅な手つきで持ち、昨日と一寸の狂いもない『慈愛に満ちた祖父の微笑み』を張り付けたアルフォンスが、静かに立っていた。
「おはようございます、殿下」
アルフォンスの穏やかで、深く、温かい声が鼓膜を打つ。
彼はカップに琥珀色の紅茶を注ぎ終えると、ゆっくりとレオンの方へと顔を向けた。
「……どうかされましたか? そのように、ひどく怯えたお顔をなされて」
完璧な所作。柔和な笑み。
しかし、真実の欠片に触れてしまったレオンにだけは、はっきりと見えていた。
その細められた瞳の奥に広がる、光一つ届かない絶対零度の「底知れぬ深淵」と、ただ一人の少女に対する狂気じみた所有欲が。
自分が愛する少女の背後に立つ、最も信頼する家族の皮を被った怪物の前で。
事情を何一つ知らないアリシアの無邪気な笑顔を挟み、レオンはただ絶望と共に立ち尽くすことしかできなかった。




