第6話 狂気のお茶会
バンッ、と乱暴に開け放たれた扉の音は、アリシアの私室に重苦しい沈黙を連れてきた。
だが、その沈黙は一瞬のことで、すぐに穏やかな声によって破られた。
「おはようございます、殿下。……どうかされましたか? そのように、ひどく怯えたお顔をなされて」
窓辺からこちらを振り返ったアルフォンスは、純銀のティーポットを優雅な手つきで持ちながら、昨日と一寸の狂いもない『慈愛に満ちた祖父の微笑み』を張り付けていた。
レオンの全身の筋肉が硬直する。心臓は早鐘を打ち、喉の奥がカラカラに乾いていた。腰の剣の柄に手をかけることすらできない。
目の前に立つ老執事から発せられる異様なほどの「自然さ」と「隙のなさ」が、本能レベルでレオンの行動を縛り付けていた。もしここで下手に動けば、瞬きをする間に自分の首が落ちるという確信めいた恐怖があった。
「あ、レオン。おはよう! どうしたの血相変えて」
何も知らないアリシアが、焼き立てのスコーンを齧りながら呑気に笑いかけてくる。彼女の瞳には、目の前のアルフォンスが持つ底知れぬ狂気など微塵も映っていない。
「……いや、なんでもない。少し、嫌な夢を見てな」
レオンは震えそうになる声を必死に押し殺し、なんとかそれだけを絞り出した。
アルフォンスは静かに目を細めると、ティーカップをテーブルに置いて恭しく一礼した。
「殿下、良いところにおいでなさいました。本日はお嬢様と殿下のために、冬の温室にて特別なお茶会をご用意いたしました。刺客の影も消え去った、この平和な日々を祝して」
「お、ティーパーティ! 行く行く! 温室でのお茶会なんて最高じゃん!」
アリシアが弾んだ声で立ち上がる。
レオンは背筋に氷のような悪寒が走るのを感じた。
(行けば殺されるかもしれない。あの中庭の騎士のように……。だが、アリシアをこいつと二人きりにするわけにはいかない……!)
「……俺も、ご一緒させてもらおう」
「ええ、もちろんでございますとも。さあ、こちらへ」
アルフォンスの先導で歩き出すアリシアの背後を、レオンは冷や汗を流しながら、彼女を背中から庇うようにぴったりとついて歩き出した。
◆
王宮の敷地の奥深くに設えられた冬の温室。
ガラス張りのドームの外には純白の雪が降り注ぎ、内部は魔法によって常に春のような暖かさと色鮮やかな花々に満たされている。本来ならば、王族のみが足を踏み入れることを許された幻想的な空間だ。
しかし、重厚なガラス扉を開けて一歩足を踏み入れた瞬間。レオンの鼻腔を、甘い花の香りや芳醇な紅茶の香りに混じって、生々しく微かな「鉄の臭い」――濃密な血の臭いが突いた。
「わあ、すっごく綺麗……!」
歓声を上げるアリシアの横で、レオンは息を呑んで立ち尽くした。
視界に広がるのは、死体の山……ではない。
温室のあちこちに、色鮮やかな花壇や観葉植物の陰に、十数体の死体が等間隔で「配置」されていた。
彼らが着ている装束は様々だ。分家派が雇った暗殺者、王妃派の放った密偵、そして第二王子派の特殊工作員。王宮の暗部で暗躍していたはずの者たちが、まるで初めからそこにあった不気味なオブジェのように、音もなく横たわっている。
全員が、一撃で急所を貫かれた必要最低限の傷だけで息絶えており、争った形跡すら皆無だった。
(なんだ、これは……)
狂気に駆られた狂戦士による無差別の虐殺ではない。これは完全に理性的な、作業のような「処理」だ。
一切の無駄がなく、感情の起伏すら感じさせないその光景に、レオンは背筋が凍るような【サイコパス】の狂気を見た。
◆
「お待ちしておりました、お嬢様。さあ、こちらのお席へ」
温室の中央。色とりどりの薔薇に囲まれた空間に、純白のテーブルクロスが敷かれたテーブルが用意されていた。アルフォンスは死体など全く存在しないかのように、優雅な手つきでティーポットを傾け、立ち上る湯気を楽しむように微笑んでいる。
「アルフォンス……これって……」
その時、アリシアの足元に転がっていた一つの死体に、彼女の視線が釘付けになった。
それは他派閥の工作員たちとは違う、見覚えのある服装をしていた。
「……え? この人……前に私に、美味しい木の実の焼き菓子をくれた、庭師の……?」
アリシアの顔からスッと血の気が引いていく。
震える声で尋ねる彼女に対し、アルフォンスは紅茶を注ぐ手を止めることなく、まるで明日の天気を語るような優しい声で答えた。
「ええ。三年前に分家から金を受け取り、お嬢様の動向を逐一裏に流しておりました」
カチャン、と。
ティーカップがソーサーに置かれる小さな音が、やけに大きく温室に響いた。
その瞬間、アリシアの脳内で、これまでの人生で起きた数々の不可解な出来事が、一つの線となって繋がった。
体調不良を理由に突然辞めた、おしゃべりだったメイド。
故郷に帰ると言って行方不明になった、厳しくも優しい家庭教師。
実家の都合で退任したはずの、お気に入りの護衛騎士。
今まで自分の周りから「もっともらしい理由をつけて消えていった人たち」は、みんな――。
(私が生きてるのは、あのおじいちゃんのおかげ)
かつてレオンに得意げに語ったその言葉が、今、最も残酷で最悪の形となってアリシアの精神を内側から破壊し始めていた。
◆
「なんで……?」
アリシアはその場に膝から崩れ落ちた。両手で顔を覆い、喉の奥から絞り出すような震える声が漏れる。
「どうして、こんなこと……」
「お嬢様を傷つけ、その清らかな御心を煩わせる汚らわしい羽虫どもを、私がすべて『排除』いたしました」
アルフォンスは静かに歩み寄り、膝をつくアリシアを見下ろした。
彼の瞳には、狂気や悪意など欠片もない。ただ、我が子を溺愛する親のような、純粋すぎる慈愛だけがあった。
「お嬢様は、平和な日々を望んでおられたでしょう? いつか、何も心配することのない穏やかな未来が欲しいと……。ですから、ここは、私がお嬢様のためだけに作り上げた『清らかな世界』なのです」
血まみれの死体に取り囲まれた温室で、アルフォンスは両手を広げた。
「これでもう、誰もあなたを狙うことはありません。誰もあなたを騙し、利用することはありません。私の目の届くこの安全な箱庭で……永遠に、安全に暮らせますよ、お嬢様」
壊れた愛情の理屈。それは、あまりにも身勝手で、おぞましい救済だった。
◆
アルフォンスは、再びテーブルに戻り、自分の分のティーカップを静かに置いた。
そして、これまでアリシアに向けていた慈愛に満ちた瞳を、一寸の狂いもなく維持したまま、ゆっくりとレオンの方を見据えた。
「お嬢様。最後の危険が、ようやく目の前におります」
「……え?」
涙で顔を濡らすアリシアが、焦点の合わない目で顔を上げる。
「どうか、後ろへ。お召し物が汚れてしまいますから」
アルフォンスは静かにレオンへ向き直った。
老執事の姿からは、殺気も、憎悪も、怒りすらも一切感じられない。ただ、愛する主を想う忠僕としての、あまりにも純粋で無垢な「お願い」だけがそこにあった。
「殿下。……お嬢様を守るために、死んでいただけますか」
最も優しく、最も残酷な死の宣告が、花と血の匂いが混じる温室に静かに響き渡った。
圧倒的な力量差。そして、完全に逃げ場を失った分厚いガラスの密室。
背後に膝をつくアリシアを守りながら、レオンは震える手で剣の柄を固く握りしめた。己の命と、愛する少女の未来を賭けた絶望的な殺し合いが、今、始まろうとしていた。




