第4話 もし全部終わったら
パチパチと薪が爆ぜる音が、静まり返った王宮の一室に心地よく響いていた。
外は凍えるような冬の夜だというのに、私室の暖炉の前は陽だまりのように温かい。ソファに並んで腰を下ろすレオンとアリシアの手には、ほんのりと湯気を立てるティーカップが握られていた。
『お二人とも、夜更かしはほどほどになさってくださいね。……明日も、お嬢様の元気な笑顔が見たいですから』
先ほど、アルフォンスがまるで本物の祖父のような、どこまでも慈愛に満ちた笑顔で淹れてくれたハーブティーだ。カモミールの優しい香りが、二人の心と体を芯から解きほぐしていく。
何日も刺客が現れない、奇跡のように平和な夜。張り詰めていた緊張の糸が完全に解け、二人の間には言葉を交わさなくとも心地よい、穏やかな静寂が流れていた。
レオンは、カップを両手で包み込みながら揺らめく炎を見つめるアリシアの横顔を、ただ静かに見つめていた。
オレンジ色の光に照らされる、滑らかな白い肌と、長いまつ毛。そのすべてが狂おしいほどに愛おしい。もはや彼は、自分の内に秘めた感情を隠すことも、強がって否定することもやめていた。ただ、この奇跡のような時間が一秒でも長く続くことだけを、神ならぬ何かに祈っていた。
「……ねえ、レオン」
ふと、アリシアが膝を抱えながら、炎を見つめたまま何気なく口を開いた。
「……全部、終わったらさ」
「ん?」
「王位継承戦とか、暗殺者の相手とか。そういう面倒なのが全部終わって、本当に安全になったら。……どこか旅行でも行かない?」
レオンは少しだけ目を丸くした。
「……旅行?」
「うん。今度は、爆発しないところ」
その言葉に、レオンは息を呑んで絶句した。
脳裏に鮮明にフラッシュバックするのは、前世の記憶。沖縄の修学旅行。青い海、眩しい太陽、他愛のない悪ふざけ――そして、すべてを唐突に終わらせた、あの理不尽で凄惨な閃光と轟音。
だが、振り返ったアリシアの顔に悲壮感はなかった。ただ、どこか遠くを懐かしむような、穏やかで寂しげな笑みを浮かべていた。
「朝起きて、1時間目の授業サボるかどうか本気で悩んでさ。帰りにコンビニ寄って肉まん買って、テスト前だけ慌ててノート写して勉強して……。そういう、どうでもいい毎日をさ。もう一回、やりたいな」
アリシアの声が、ポツリ、ポツリと静かな部屋に落ちる。
「海でも見ながら……今度こそ、普通に生きたい。……バカみたいに笑って、ただ明日が来るのを当たり前に信じてさ」
『普通に生きたい』。
それは、異世界に放り出され、否応なく血みどろの殺し合いと死に戻りのループを強いられている彼らにとって、あまりにも遠く、そして切実すぎる「ただの高校生としての願い」だった。
レオンの視線が、彼女の膝の上で小さく丸められている手に落ちた。
白く、小さく、温かそうな手。剣を握り、血を浴びるためにあるわけではない、普通の女の子の手だ。
(……触れたい。支えたい。この手を取って、守り抜きたい)
男としての強烈な本能が叫ぶ。
しかし、同時に冷たい理性がレオンを引き止める。これまでの「気安い親友」という関係性を壊してしまうことへの恐れ。もし拒絶されたら、今のこの心地よい距離すら失ってしまうのではないかという恐怖。
だが、今の彼女のあまりにも切実で、無防備な願いを聞いて、レオンの中で何かが決定的に弾けた。
(――……もう、いいか)
親友という仮面など、もうとうの昔にひび割れているのだ。
レオンは静かに手を伸ばし、彼女の小さな左手を、自分の大きな手でそっと、しかし決して逃がさないように力強く包み込んだ。
「……っ?」
突然のことに驚き、アリシアがビクッと肩を震わせて顔を上げる。
「……そうだな。全部終わったら、一緒に行こう」
「レ、レオン……?」
「お前がどこに行きたいか、全部教えてくれ。海でも、山でも、この世界の果てでもいい。……俺がそうしたいんだ。お前を、どこへでも連れて行く」
真っ直ぐに見つめてくるレオンの真剣な瞳。黒曜石のようなその瞳の奥には、いつもの悪ふざけや茶化すような色は一切なく、ただ深く熱い熱情だけが揺らめいていた。
そして、自分の手を包み込んでいる彼の手のひらが、ひどく大きくて、火傷しそうなほど熱い。
トクン、と。
アリシアの胸の奥で、今まで感じたことのない異質な音が跳ねた。
(なに、これ……?)
急激に顔の温度が上がっていくのがわかる。見慣れたはずの「親友」の顔が、なぜか直視できない。心臓の鼓動がうるさくて、アルフォンスの淹れたお茶の匂いすらわからなくなる。
「……なんか」
「ん?」
「今日のお前、ちょっとずるい」
「は?」
「なんか……その、無駄に王子様っぽいっていうか……っ!」
限界を迎えたアリシアは、顔を真っ赤にしてレオンの手を振り払うと、バンッと両手で自分の頬を叩いた。
「いや、今のなし! 今の忘れて! なしなし! うわー、暖炉の火が強すぎて暑いわー!」
慌てふためき、必死に顔を背けて両手でパタパタと仰ぐアリシア。
レオンは自分の手が払われたことに少し傷つきつつも、彼女の突然のパニックの意味がわからず、きょとんと目を瞬かせた。彼自身は、これがアリシアの心に「異性としての決定的な波紋」が広がった瞬間だとは、夢にも思っていない。
「なんだよ、お前が旅行に行きたいって言ったんだろ」
「そ、そうだけど! 行くよ! 絶対行くからな、約束な!」
「ああ、約束だ。絶対に、二人で生き残る」
顔を真っ赤にしたまま笑うアリシアにつられて、レオンもまた、柔らかく笑い返した。
パチパチと燃える暖炉の音。飲みかけの温かいハーブティー。
血と死のループという無間地獄の中で、ようやく二人が掴みかけた「普通の未来の約束」と、「淡く不器用な恋の始まり」。それは、神様が気まぐれに与えてくれたかのような、あまりにも美しく、尊い時間だった。
――しかし。
分厚いカーテンの向こう、夜の闇に包まれた窓の外では、いつの間にか真っ白な雪が静かに、ただ静かに降り始めていた。
世界を白く染め上げるその雪は、まるでこれから訪れる想像を絶する悲劇と、降り注ぐ血の雨を、誰にも気づかれないように覆い隠そうとしているかのようだった。
アルフォンスの底知れない優しさに包まれた究極の幸福が、間もなく最も残酷な形で引き裂かれることを、二人はまだ知らない。




