第2話 死のフラグが勝手に折れていく件について
吹き抜ける風が心地よい王宮のテラス。
白亜のテーブルに向かい合って座るアリシアは、最高級の紅茶を一口飲むと、弾むような声で身を乗り出した。
「レオン、聞いて! また敵の動きが止まったみたい!」
「……動きが止まった?」
書類から顔を上げたレオンに、アリシアは満面の笑みで頷く。
「そう! ほら、分家派が雇って王都に向かってたっていうあの厄介な傭兵団! なんと王都への街道で大規模な土砂崩れに巻き込まれて、全滅したんだって! 今回のループ、過去イチでイージーモードじゃない?」
「……土砂崩れ? またかよ。不自然すぎるだろ」
レオンは渋い顔で眉間を揉んだ。
アリシアを狙う刺客が「偶然の事故」で消滅するのは、これが初めてではない。
「運が良いんだよ! 天も私たちを味方してるってこと! このまま王位継承戦まで突っ走ろうぜ、相棒!」
上機嫌なアリシアが、立ち上がってレオンの背中に体重をかけてきた。
首筋に彼女の柔らかい頬が触れ、ふわりと甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。
(心臓が痛い……! いや、胃も痛い……ッ!)
レオンの頭の中で警鐘が鳴り響き、理性が吹き飛びそうになる。
だが、必死に動悸を抑え込みながら、彼の優秀な頭脳は刑事のように冷徹な思考を巡らせていた。
暗殺者の痕跡消失。そして今回の不自然すぎる土砂崩れ。これらがすべて「偶然」であるはずがない。
◆
「土砂崩れとは、恐ろしいお話ですな」
音もなくテラスに現れたのは、執事のアルフォンスだった。
彼は淀みない完璧な所作で、空になったアリシアのカップに温かいお茶を注ぎ足す。
「街道の整備不足でしょうか。……ですが、お二人が無事で何よりでございます。お嬢様に万が一のことがあれば、この老いぼれは生きていけませんからな」
目尻を下げ、本当に安堵したように微笑むアルフォンス。
レオンは、その皺の刻まれた顔を射抜くように凝視した。
(この人が……あんな大規模な殺戮を? いや、無理がある)
アルフォンスの瞳の奥にあるのは、揺るぎない献身と、アリシアを慈しむ絶対的な温かさだけだ。狂気や冷酷さなど、微塵も感じられない。
それに、傭兵団を丸ごと一つ潰すほどの武力を、一介の老執事が持っているわけがない。あの温かい眼差しが芝居でできるものだとは、レオンには到底思えなかった。
(俺の考えすぎだ。アルフォンスを疑うなんて、どうかしてる)
レオンの胸中にあった疑念は、アルフォンスのあまりにも誠実な姿の前に、あっさりと霧散していった。
◆
その日の午後。
アリシアが魔法の訓練で席を外した隙を見計らい、レオンは執務室に信頼する近衛騎士を極秘裏に呼び出した。
「……殿下、密命とは」
「事故現場に行き、傭兵団の残骸を確認してこい。念入りにな」
レオンの低く冷たい声に、騎士が緊張した面持ちで頷く。
「ただの事故だとは思えん。何か……『何者か』が裏で動いているはずだ」
(アルフォンスじゃないとしたら、第三勢力か? グランベル公爵家、あるいは王家を裏から操ろうとする、もっと狡猾で巨大な組織が潜んでいるのか……?)
見えない敵への警戒に、レオンは無意識のうちに拳を強く握りしめていた。
◆
夕刻。
レオンの執務室の扉が重々しく開かれた。戻ってきた近衛騎士の顔色は、まるで死人のように土気色だった。
騎士は震える手で、布に包まれた遺品の短剣をデスクの上に置く。
「……殿下。遺体を検分しましたが、土砂崩れは『偽装』です」
「偽装だと……?」
「はい。傭兵団の死体は、すべて喉元を一突きにされていました。……それも、一人残らず同じ角度、同じ深さです」
騎士の声が、恐怖で微かに震えている。
「……熟練の暗殺者だと?」
「熟練などという次元ではありません。あれは、事故に見せかけて一方的に『処理』されたものです。しかも、現場の足跡や痕跡から見て、犯人は一人……あるいは少数の精鋭です」
◆
レオンの背筋に、氷を当てられたような悪寒が走った。
一人、あるいは少人数で、完全武装の傭兵団を真っ向から全滅させた? それも、寸分の狂いもなく急所だけを正確に貫いて?
(そんな化け物が、この王都の裏社会にいるのか……?)
バンッ!
戦慄するレオンの思考を断ち切るように、執務室の扉が勢いよく開かれた。
「おーいレオン! 休憩終わり! 次の夜会に向けてダンスの練習しよ!」
弾けるような笑顔で飛び込んできたのは、世界で一番愛しい鈍感な婚約者だ。
レオンは咄嗟に血に染まった短剣を書類の下に隠し、近衛騎士に目配せして下がらせた。
「ああ、今行く」
張り詰めた空気を悟られないよう、レオンは完璧な王子の作り笑いを浮かべる。
(愛しい彼女の隣にいる間だけは、この地獄を忘れたい)
見えない化け物への恐怖と、隣にいるアリシアへの恋心。限界に達した王子の胃が、またしても悲鳴を上げた。
――そして、執務室を出て行く二人の背後。
僅かに開いた扉の隙間から、何食わぬ顔で微笑みながら二人の背中を見つめる、アルフォンスの影が静かに映り込んでいた。




