第1話 初恋をこじらせた王子の胃痛
王城の一室、第一王子の執務室には、今日も羽ペンの走る乾いた音だけが響いていた。
山積みになった書類を前に、レオンは眉間を揉みほぐしながら大きく息を吐く。あの夜会のダンスから数日。彼の日常は表向きには平穏そのものだったが、その内面はかつてないほどの『激動の嵐』に晒されていた。
「ねえレオン、なんか背中が固まってない?」
背後から突然響いた無邪気な声に、レオンの肩がビクッと大きく跳ねる。
「こ、婚約者として健康管理も私の務めだし! ほら、任せなさい!」
言うが早いか、アリシアの細くしなやかな指がレオンの肩を力強く揉み始めた。
普段なら「相棒の気遣い」として笑って受け流せたはずのスキンシップ。だが、自分の決定的な『恋心』を自覚してしまった今のレオンにとって、それは極上の拷問でしかなかった。
(死ぬ!! 心臓が! 胃が! 思考回路がショートする……ッ!)
すぐ耳元で聞こえるアリシアの吐息。彼女の動きに合わせてふわりと香る、甘く爽やかな髪の匂い。肩越しに伝わってくる柔らかな体温。
そのすべてがレオンの理性を容赦なく削り取っていく。数多の死線を潜り抜けてきた完璧な王子の表情筋は完全に崩壊し、彼の胃はストレスと緊張でギリギリと悲鳴を上げていた。
「あれ、大丈夫!? なんか顔赤いよ! やっぱり最近働き詰めだったんじゃない? 胃薬飲む?」
本気で心配そうに顔を覗き込んでくるアリシアの瞳は、どこまでも無自覚で無防備だ。
(お前のせいだよ!!)
レオンは内心で血涙を流しながら叫んだ。だが、それを口にできるはずもない。
「……ちょっと、近すぎる」
必死に理性を総動員し、なんとかそれだけを絞り出すのが精一杯だった。
しかしアリシアは、きょとんとした顔で首を傾げる。
「えー、これくらい普通でしょ? 相棒なんだから水臭いこと言うなよー」
全く悪気のない太陽のような笑顔。レオンは深く深く絶望し、静かに机に突っ伏したのだった。
◆
だが、そんなドタバタとした日常の裏側で、確実に『不穏な影』は蠢いていた。
執務室のソファに腰を下ろしたレオンは、胃の痛みを堪えながら、王宮内の警備報告書に視線を落とす。
「最近……また不審な気配が消えたな」
「気配?」
「ああ。君を狙って王宮に侵入したと思われる暗殺者の痕跡だ。だが……妙なんだ」
レオンの瞳に、王族としての鋭い光が戻る。
彼らのような暗殺者が送り込まれること自体は珍しくない。問題は、その処理のされ方だった。
「誰にも気づかれず、現場から完全に消滅している。血痕はおろか、争った形跡すら一切残されていない。まるで、最初から世界に存在していなかったかのように処理されているんだ。何者かが動いているのか、あるいは俺たちが気づかないうちに別の派閥が処理したのか……」
「んー? それだけアルフォンスが有能ってことじゃない?」
深刻に考察するレオンに対し、アリシアは呑気にクッキーを齧りながら答えた。
「ああ見えて、公爵家の中では誰よりも私の命を守ってくれるんだから。きっと先回りして、警備兵に引き渡してくれてるんだよ」
「そう……なのか?」
レオンは怪訝そうに眉を寄せる。いくら有能な執事とはいえ、王宮の裏側でこれほど完璧な隠蔽工作を単独で行えるものだろうか。
◆
「殿下、お嬢様。お疲れのようですな」
ノックの音と共に、噂の主であるアルフォンスが執務室に足を踏み入れた。
その顔には、いつもと変わらぬ穏やかな微笑みが浮かんでいる。彼はワゴンから優雅な手つきでティーカップをテーブルに並べた。
「温かいカモミールティーをご用意いたしました。心身の緊張を解くのに最適でございますよ。特に殿下は、少々胃をお痛めのようですので」
「……あ、ああ。ありがとう」
その所作には一点の曇りもなく、ただひたすらに主人を思いやる慈愛に満ちた老執事の姿がそこにあった。
(……考えすぎか。俺が初恋をこじらせて自意識過剰になってるだけだ)
温かい湯気を見つめながら、レオンは自嘲気味に息を吐く。
あんなに優しそうなアルフォンスが、裏で血生臭い汚い真似をするわけがない。ましてや、暗殺者を跡形もなく『消去』するような異常な真似を。
◆
香り高いお茶を飲む二人の横で、アルフォンスは壁際に静かに控えていた。
カップを置いたアリシアが、ふと真面目な顔つきでアルフォンスを振り返る。
「アルフォンス、いつもありがとうね。……私、前世の家族にはもう二度と会えないけどさ」
不意に出た『前世』という言葉に、部屋の空気が少しだけ静まる。
アリシアは少しだけ寂しそうに、けれど確かな温もりを持った声で紡いだ。
「この世界で『家族』って呼べる人は、アルフォンスとレオンの二人くらいだよ」
その言葉を聞いた瞬間、アルフォンスの肩が微かに震えた。
「……お嬢様……。そのお言葉、老骨冥利に尽きます」
深く頭を下げるアルフォンス。その目元が少しだけ潤んでいるのを、レオンは見逃さなかった。
彼の背中からは、アリシアに対する深く、重すぎるほどの愛着と忠誠が滲み出していた。
◆
やがてアルフォンスがワゴンを押して執務室を辞去した後、レオンはカップに残ったお茶を飲み干し、小さくため息をついた。
「……あいつ、本当にいい執事だな。お前がそこまで言うのもわかるよ」
「でしょ? 私の最大の味方だもん!」
屈託のない笑顔を見せるアリシア。
彼女のその笑顔を守るためなら何でもする覚悟を持った、忠義の執事。その幸福で温かい光景に、レオンの胃の痛みも少しだけ和らいだような気がした。
――だが、彼らは知らなかった。
その狂気じみた『家族愛』が、やがてすべてを飲み込む最悪の嵐を引き起こすことを、まだ誰も気づいてはいなかった。




