第8話 幕間③:嵐の前の静寂
吹き抜ける風が、黄金色に色づき始めた広大な麦畑を波立たせていく。
かつて「不毛の荒野」と呼ばれた王国辺境のバルド領は、今や見渡す限りの豊かな穀倉地帯へと変貌を遂げていた。計算し尽くされた緻密な水路網が領内を駆け巡り、豊かな恵を供給させていた。
エリオットは静かに歩いていた。
「若様、本日の巡回ご苦労様です! おかげさまで、この冬も領民一同、飢えの恐怖を知らずに越せそうです」
「若様! ご指示いただいた東区画の水路改修、完璧な精度で完了いたしました!」
すれ違う兵士や領民たちが、次々と敬愛に満ちた声をかけてくる。
彼らがエリオットに向ける眼差しは、単なる貴族への畏怖ではない。神の使い、あるいは奇跡を体現する「聖人」を崇めるような、絶対的な信頼と熱狂がそこにはあった。
エリオットは柔和な笑みを浮かべ、一人一人に労いの言葉をかけていく。
だが、その温厚な仮面の下で、彼の思考はどこまでも冷徹に、そして機械的に現状を分析していた。
(……今日も平和だな。農業生産率の向上、インフラ整備、魔石の採掘量、すべて計算通りのグラフを描いている。開発の進捗は上々だ。このバルド領という箱庭を完璧なシステムとして完成させれば、僕が『帰還』するための莫大な魔力リソースと実験施設は、完全に担保される)
領主として、そして前世の知識を総動員したエンジニアとして、彼はこの世界で完璧な「成功」を収めていた。しかし、富も名声も権力も、彼にとってはただの通過点であり、手段に過ぎない。
彼の纏う静謐な空気は、常にこの世界ではない「どこか遠く」を見つめていた。
*
巡回を終えようとした時、ふと西の空が視界に入った。
燃えるような茜色と、夜の静寂を告げる深い群青色が混じり合う、痛いほどに美しい夕焼け。
(そういえば……あの時も、こんな空だったか)
唐突に、エリオットの脳裏に「あの日」の記憶がフラッシュバックする。
修学旅行で訪れていた沖縄。潮騒の匂い、ぬるい海風、そして友人と交わした他愛のない会話。
すべてを無に帰した、あの理不尽な爆発。
エリオットの記憶の中で、その閃光はひどくスローモーションで再生される。
爆心地から少し離れた場所にいた彼の視界の端に、たまたま二人の女子高生がいた。一人は快活に笑い、もう一人は少し呆れたように微笑んでいた。どこにでもいる、ありふれた少女たち。
次の瞬間、太陽が地上に墜落したかのような絶対的な光と、鼓膜を突き破る轟音がすべてを呑み込んだ。
自分とは全く無関係な、見ず知らずの他人に過ぎない二人。
だが、エリオットはあの時、自分と同じように不可避の「終わり」を強制された彼女たちのシルエットを、数年越しに強烈に思い起こしていた。
「……近くにいたあの二人。逃げる暇なんてあるはずもなかった。きっと、僕と同じようにあの業火に巻き込まれて……死んだんだろうな」
城壁の冷たい石に手を触れながら、彼はポツリと独りごちた。
「……あの時、声をかけるべきだったのか。あるいは、何か警告できていれば……いや、無意味な仮定だな」
*
今となっては、彼女たちがどうなったのかを知る術はない。
自分がこうして異世界に転生(あるいは転移)しているという非科学的な現実を考慮すれば、一つの狂気的な仮説が浮かび上がる。
(もし、彼女たちも僕と同じように、この理不尽な世界に放り出されて、どこかで生きているとしたら……?)
エリオットは自嘲気味に首を振った。
(いや、考えすぎだ。確率論的にあり得ない。そもそも彼女たちは爆発のど真ん中、グラウンド・ゼロにいたんだ。僕ですら肉体を維持できなかったのだから、生きてるはずがない)
理知的な脳髄はそう結論づける。
それでも、ふとした瞬間に彼の胸を締め付けるのは、「同じ場所で、同じ理不尽によって終わらされた」という感覚だった。孤独な異世界での戦いの中で、自分の中に、自分一人だけではない「運命共同体」の残骸が引っかかっているような奇妙な既視感と、僅かなシンパシー。
それが、彼の中で静かに、しかし確実に育ちつつあった。
*
夜の帳が下りる頃、エリオットは領主の館の地下深く、厳重に秘匿された巨大な研究室へと足を踏み入れた。
そこは地上の牧歌的なファンタジー世界とは完全に隔絶された、魔導と科学が異常な次元で融合した狂気の空間だった。
青白い光を放つ無数の魔石回路の先、部屋の中央には、風土病の解決によって得た莫大な報酬と、大賢者の名声を利用して国内外から極秘裏にかき集めたレアな超高純度魔導結晶が組み込まれた、禍々しい「巨大魔導装置」が設置されている。魔導結晶は、時空を捻じ曲げる準備を終えたかのように怪しく明滅していた。
「……計算は完璧だ。出力の指向性も固定した」
ナイフで自身の指先を僅かに切り裂き、流れる血を触媒にして、床の魔法陣へさらに緻密で複雑な『時空座標の歪曲式』を書き足していく。
エンジニアとしての冷徹な計算と、魔導装置の出力を組み合わせた、現地の魔術師には逆立ちしても真似できない近代的なアプローチ。
それは世界の理に直接触れる、神への反逆とも言える禁忌の研究だった。
カチ、と装置の主電源のレバーを入れる。
膨大な魔力が閉ざされた部屋の中に満ち満ちていき、空間がパキパキと限界を超えて歪み始めた。
*
激しく脈打つ魔導装置の前に立ち、エリオットは壁に貼られた「妻と娘の似顔絵」に静かに視線を落とした。その瞳には、家族への愛と、世界の法則すらねじ伏せようとする研究者としての狂気の炎が静かに灯っている。
「理論は間違っていない。魂の器を、時空の座標の裏側へと飛ばす……。あと少しだ。待っててくれ、みんな。すぐに帰るから……!」
彼が装置のコアへと一気に魔力を流し込んだ、その瞬間。
――ズゥゥゥゥン。
大気すら振動させない、目に見えない強烈な『因果の波紋』――未完成な時空魔法の凄まじい余波が、この地下室から世界に向けて、静かに、しかし決定的に放たれた。
天才エンジニアである彼の頭脳を以てしても、知る由はなかった。
己が愛する家族のもとへ帰るために、夜な夜な執念で繰り返しているこの空間放射実験のエネルギーが、まさにこの瞬間、王都でようやく「明日」を掴み取り、偽装婚約を結んだばかりのアリシアとレオンの魂を直撃していることなど。
エリオットの善意。世界を正しく巻き戻し、すべてを救おうとするその行動が、皮肉にも王都で足掻く二人を永遠の惨劇のループへと縛り付ける「強固な楔」となってしまう可能性を、彼はまだ知らない。
青白い光に照らされたエリオットの優しげな微笑み。
「救済」という名のエゴが、静かに、しかし決定的に運命の歯車を狂わせる。
それは、間もなく王都の二人を飲み込むことになる、血と裏切りに塗れた最大の嵐――への、静かで恐ろしい予兆であった。




