第7話 何百回目の初恋はツッコミとともに
朝靄が晴れゆく王宮の庭園。手入れの行き届いた白亜の回廊と、朝露に濡れた薔薇の香りが微風に乗って漂う、絵画のように美しい空間。
しかし、そこに佇む第一王子レオンハルトの顔色は、幽鬼のように優れなかった。
昨夜の馬車の中での出来事。いや、出来事というよりは、彼自身の内面で引き起こされた致命的なパラダイムシフトが、レオンの思考回路を完全にショートさせていた。
親友への恋心。
その途方もない自覚を抱え込んだまま、一睡もできずに朝を迎えてしまったのだ。
「おーいレオン! いやー、昨日はお疲れ!」
頭を抱えそうになっていたレオンの背後から、朝の爽やかな空気をぶち破るような、いつもとまったく変わらない明るい声が響いた。
振り返る間もなく、ドレスではなく動きやすい乗馬服に着替えたアリシアが、軽い足取りで駆け寄ってくる。
「完璧な王子様エスコートのおかげで、公爵家の分家どもも完全に大人しくなったわ! いやもう、マジで助かった!」
バンバン!
彼女は屈託のない満面の笑みを浮かべながら、レオンの広い背中を、前世のバディに接するような遠慮のなさで勢いよく叩いた。
(痛っ……! いや、物理的に痛いとかじゃなくて、今の俺にはその無防備な距離感そのものが刺激的すぎるんだよ!)
背中から伝わる彼女の手のひらの感触。ただのじゃれ合いのはずなのに、そこから熱が浸透してくるような錯覚に陥り、レオンはビクッと肩を震わせた。
前世からの付き合いである彼女のスキンシップは、今に始まったことではない。しかし、自覚してしまった後のフィルターを通すと、そのすべてがレオンの神経をやすりのように削り取っていく。
「ん? なにその顔。なんか顔色悪くないか? もしかして寝不足?」
レオンの不自然な反応を不審に思ったのか、アリシアがひょいと顔を覗き込んできた。
至近距離。
長いまつ毛の影、透き通るような肌の質感、そして微かに香る甘い石鹸の匂い。
彼女の瞳には、一切の邪念も、異性に対する意識も存在していなかった。あるのはただ、長い死線を共に潜り抜けてきた相棒への、底知れぬほど厚く、純粋な信頼だけ。
「それとも、また例の刺客のフラグか? どこかで怪しい動きでもあった?」
真剣な表情で周囲を警戒し始めるアリシアを見つめながら、レオンの胸の奥で、昨夜芽生えたばかりの感情が急速に根を張り、巨大な大樹へと成長していくのを感じた。
(ああ、そうか。俺、こいつのこと……)
それは、単なる一過性の熱などではない。
百回を超えるループの記憶。毒殺、刺殺、魔物の襲撃、理不尽な処刑。そのすべての絶望の底で、彼女はいつも隣にいてくれた。
泥に塗れ、血を吐きながらも、互いの背中を預け合った日々。どんな暗闇の中でも、彼女の笑い声だけがレオンを現世へと繋ぎ止める光だった。
(死に戻りする前から、ずっと好きだったのかもしれないな)
昨日抱いた恋の自覚が、迷いのない確信へと変わる。
あまりにも尊く、あまりにも手遅れな自覚だった。
だが、その壮大な自己完結の感動は、次の瞬間、レオン自身の強烈な理性によって粉々に打ち砕かれる。
(いや待て待て待て! なんで異世界転生してまで、俺の初恋の相手がこいつなんだよ!?)
レオンの脳内で、血を吐くようなセルフツッコミが炸裂した。
相手は公爵令嬢の皮を被っているが、中身はゴリゴリの女子高生だ。前世で放課後に一緒にジャンプを回し読みし、くだらないことでゲラゲラ笑い合っていたあの悪友だぞ!?
そんな親友という絶対的なセーフティゾーンにいた存在が、女として、しかも初恋の相手として認識された瞬間の破壊力は計り知れない。
(しかも、俺のこの致命的なバグに、こいつは気づく気配がゼロ! 1ミリも察してない! ハードモードどころか、これもう最初から詰みゲーじゃないのか!?)
恋心を抱いた対象が、自分のことを命を預け合う完全無欠の戦友としか見ていない。これほど攻略難易度の高いヒロインが他にいるだろうか。いや、いない。
己の人生のあまりの不条理さに、レオンは頭を抱え、深々と唸り声を上げた。
「ちょ、レオン!? 顔真っ青だよ! 大丈夫か!?」
苦悶の表情を浮かべて蹲りそうになるレオンを見て、アリシアは完全に血相を変え、さらに距離を詰めてきた。彼女の柔らかな手が、レオンの額や頬にペタペタと触れる。
「胃でも悪いの? 昨日の夜会で出た高級ワイン、あんなのガブガブ飲むから胃が荒れたんだろ! ちょっと待ってろ!」
アリシアは懐をごそごそと探ると、小さな小瓶を取り出し、レオンの目の前に突きつけた。
「ほら、これアルフォンスに持たせてた胃薬だ。王宮の飯に毒が盛られてなくても、お前の胃袋が自滅したら意味ないだろ。早く飲め!」
差し出される、深緑色のいかにも苦そうな胃薬。
恋煩いで死にそうになっている男に対して、胃薬。
あまりにも的外れで、しかし彼女らしい一直線な優しさに、レオンは完全に言葉を失った。
目の前の少女は、本気で自分の胃腸の心配をしている。このすれ違いのスケールは、もはや喜劇を通り越して悲劇的ですらあった。
「……ああ、そうだな。ありがとう」
レオンは遠い目をしながら、その小瓶を受け取った。そして、蓋を開けることもなく、力なく呟く。
「俺の胃袋には……今、とてつもなく重いものが詰まってるみたいだ」
「マジかよ、そんなに重症か。胃薬飲んでダメならすぐ医務室行けよ! あ、そうだ、次のループの対策も練らないとだし、倒れられたら困るからな!」
完全に病弱な友人への気遣いモードに入ったアリシアは、うんうんと頷きながら腕を組んでいる。
初恋という名の重圧に耐えかねて白目を剥きかける王子と、どこまでもマイペースに生存戦略を練り続ける公爵令嬢。
(なんで俺の青春は、常に死の危険と胃薬とセットなんだよ……!)
誰にも届かないレオンの魂の叫びだけが、清々しい朝の庭園に虚しくこだましていた。
この上なくちぐはぐで、絶望的に遠い二人の距離感は、今日も通常運転で回り続けるのだった。




