第6話 完璧なエスコートと王子の本能
優雅なワルツの調べが、豪奢なシャンデリアの光とともに大広間を満たしていた。
ダンスフロアの中央で、レオンとアリシアは完璧なステップを踏んでいた。いや、正確には、レオンがアリシアに完璧なステップを踏ませていた、と言うべきだろう。
レオンのリードは、誰もが息を呑むほどに美しく、そして有無を言わせぬほどに強制的だった。
前世の知識として叩き込まれた王子としての教養と、現在の鍛え抜かれた肉体のスペック。そのすべてが完全に噛み合い、彼のエスコートは芸術の域に達している。
(他の男の視線を、俺がすべて遮断してやる。……この距離感なら、誰もこいつに近寄らせない)
レオンはアリシアの腰を強く引き寄せ、周囲の視線から隠すように抱きしめた。
密着するような距離感。周囲を取り囲む令息たちは、第一王子から放たれる凍てつくような威圧的なオーラに完全に呑まれ、遠巻きに見つめることしかできない。誰一人として、この完成された空間に割り込む隙などなかった。
一方で、レオンの腕の中にいるアリシアの胸中は、甘い雰囲気とは程遠いものだった。
(うわ、すげー! 今日のレオン、マジで王子様じゃん!)
アリシアは内心で大いに感心していた。
(親友のくせにエスコート完璧すぎて笑えるんだけど! 全然足踏んづける気配がない。これなら私、ただ身を任せてるだけでいいじゃん。超絶楽!)
彼女にとってこの距離感は、頼りになる相棒の、完璧なサポートでしかなかったのだ。
*
一曲が終わり、音楽が止み拍手が沸き起こっても、レオンはアリシアの腰から決して手を離さなかった。
隙あらばと群がろうとする令息たちに対し、レオンは氷のような微笑みを向ける。
「申し訳ないが、彼女は少し疲れているようだ。夜風に当たらせたいのでね。……失礼するよ」
それは完全な嘘だった。体力おばけのアリシアが一曲踊った程度で疲れるはずがない。だが、王子のその言葉と有無を言わせぬ圧力に、令息たちは道を開けるしかなかった。
レオンはそのままアリシアの手を引き、夜会の喧騒から逃れるように帰りの馬車へと乗り込んだ。
ガタゴトと、車輪が石畳を叩く音が静かに響く。
密室となった馬車の中で、アリシアがふうっと大きなため息をつき、いつもの調子で笑いかけてきた。
「お疲れー! いやー、今日のダンスはマジで助かった。お前が完璧にエスコートしてくれたおかげで、しつこい奴らがあっさり引いてくれたわ。さすが私の相棒!」
無邪気に親指を立てるアリシア。彼女にとって、あの極上のダンスもただの障害物回避ミッションでしかなかったのだ。
「……ああ。まあ、社交辞令は面倒だからな」
レオンは窓の外に視線を向けながら、短く返す。
冷静を装ってはいたが、彼の手のひらには、そして胸の奥には、アリシアの細い腰を抱きしめた感触と熱が、火傷のように生々しく残っていた。
(仕事だ。ただの婚約者のフリだ)
そう自分に言い聞かせても、早鐘を打つ心臓の音は一向に収まる気配がない。
*
緊張を強いられる夜会の疲れが出たのだろう。
心地よい馬車の揺れに身を任せているうちに、アリシアは小さくあくびを噛み殺し、やがてウトウトと船を漕ぎ始めた。
コトン、と。
軽い衝撃と共に、レオンの肩に柔らかい重みが乗る。
見下ろすと、そこにはレオンの肩に頭を預け、完全に無防備な顔で眠りに落ちたアリシアがいた。
月明かりが窓から差し込み、彼女の横顔を淡く照らし出す。普段のサバサバとして強がりな親友からは想像もつかないほど、その寝顔は幼く、柔らかく、そして愛らしかった。
静寂に包まれた馬車の中、肩越しに伝わってくる彼女の確かな体温。そして、吐息が掛かりそうなほど近くから聞こえる、規則正しい寝息。
レオンは、全身が石にでもなったかのように身動き一つできなくなった。
*
少しでも動けば彼女を起こしてしまう。
そう思いながらも、レオンは衝動に抗いきれず、そっと手を伸ばした。恐る恐る、壊れ物に触れるように、眠るアリシアの艶やかな髪を指先ですくう。そして、その指先がほんの少しだけ、彼女の滑らかな頬をかすめた。
ビクリと自分の肩が跳ねる。だが、アリシアは微かに身じろぎしただけで、起きる気配はない。
今の自分には力がある。彼女を理不尽に殺そうとする暗殺者も、彼女を蔑む貴族たちも、すべてをねじ伏せ、守り抜く力がある。
そして今、自分の腕の中には、この世界で誰よりも――何よりも大切な存在がいる。
(俺、こいつのこと……)
脳裏に、これまでの彼女と過ごした日々が走馬灯のように駆け巡る。
笑い合った日々。背中を預け合った戦い。そして今日、ドレス姿の彼女を見た瞬間の、あの圧倒的な衝撃と、狂おしいほどの独占欲。
(……戦友とか、相棒とか、そんな軽い言葉じゃ片付けられないくらいに、ずっと前から、ずっと深く……)
自分の心臓がこれほどまでに彼女のために高鳴っている理由。
それを友情という便利な言葉で誤魔化すことは、もうとっくに限界を迎えていたのだと、レオンは静かに悟った。
*
心地よさそうに眠るアリシアの顔を見つめながら、レオンは自嘲気味に小さく苦笑した。
「……あぁ、これ、詰んだな」
誰に聞かせるでもない独り言が、馬車の中に溶けていく。
「親友に恋したなんて、死に戻りよりもよっぽどタチの悪い地獄の始まりだ」
数多の死線と地獄を潜り抜けてきた彼だからこそわかる。
絶対に壊したくない、けれど絶対に諦めきれない。そんな矛盾した感情を抱えて生きるこれからの日々は、間違いなく身を焦がすような地獄だ。
それでも、彼はその地獄を進んで歩き出すことを決意した。
レオンはそっと顔を寄せると、眠る彼女の額に、誓いのように優しく触れた。
「……おやすみ、俺の愛しい婚約者殿」
それは、長年被り続けた親友という仮面の下からこぼれ落ちた、初めての切実な愛の言葉だった。
やがて馬車の速度が落ち、窓の外に見慣れた公爵邸の門扉が見えてくる。
現実へと引き戻される感覚を味わいながら、レオンの中でただの親友が終わったことが、完全に確定したのだった。




